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【フローニンゲンからの便り】16808-16810:2025年6月9日(月)



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タイトル一覧

16808

仏教論理学の探究に向けて

16809

今朝方の夢

16810

今朝方の夢の振り返り

16808. 仏教論理学の探究に向けて

        

時刻は午前7時を迎えた。起床した時には小雨が降っていたが、今は雨が止み、朝日が少し姿を見せている。ほのかに降り注ぐ朝日がとても心地良い。今の気温は10度で、今日の日中の最高気温は18度とのことなので、そこそこに気温が上がる。ここ数日間は曇りがちで、雨が少々降る時間帯があった。ゆえに気温も低めだったが、今週はどうやら木曜日から軒並み25度を超える日が3日間続くようである。6月に入り、フローニンゲンも着実に夏に向かっている。今日は、「聖霊降臨節の月曜日」という祝日のため、ジムは15時に閉まってしまう。なので今日は早めにジムに行き、今日もまたしっかりと体を鍛えて来たい。


現在、毎日少しずつ良遍が残した漢文書物の註釈を進めており、実際に論文の形にまとめている。良遍は因明学に精通しており、どこかで良遍が残した因明学に関する解説書の『因明大疏私鈔』を註釈していきたいと思う。因明学というのは、東アジアにおける仏教論理学の呼び名である。『因明大疏私鈔』はすでにPDFデータとして入手しており、その分量を昨夜改めて確認すると、それを註釈していく取り組みは、博士論文に値するのではないかと思った。仮に来年からイギリスの大学院に行くことができたら、まずは修士論文として良遍の『観心覚夢鈔』の註釈を行いたい。そこから博士課程に進み、晴れて良遍の因明学の研究に進む。仏教論理学を含め、インドの論理学については前々から興味があり、まずは仏教論理学の中でも法相宗の論理学、すなわち因明学に焦点を当てて研究していければと思う。その研究に向けて、ディグナーガやダルマキールティという仏教論理学の碩学たちが残した文献も読んでいきたい。それと、個人的に最近注目しているのは、シャーンタラクシタ(Śāntarakṣita)という学僧で、彼は『中観荘厳論(Madhyamakālaṃkāra)』という書籍を残し、ディグナーガとダルマキールティの論理学を統合した。また、唯識思想と中観思想を統合した功績も果たしており、実に興味深い。自分が行う主たる論理学研究は、法相宗の因明学研究だが、その源流にあるディグナーガ、ダルマキールティ、シャーンタラクシタなどの業績は押さえておかなければいけない。法相宗の因明学を研究するに際しては、良遍の仕事以外にも、幾人もの法相宗の学僧が因明学について解説した文献を残している。その中でも、善珠の『因明論疏明燈鈔』は必読だろう。この注釈書は、日本におけるおそらく最初の因明学の解説書ではないかと思い、実際に因明学の研究者にとって必読の書と言われている。ここからは論文を書きながら、論文を書くことを前提にして特に漢文文献の読解を進めていく。書くことを前提にした読解は、知識の吸収率を大きく高める。フローニンゲン:2025/6/9(月)07:19


16809. 今朝方の夢 

                     

聖霊降臨節の月曜日の朝はとても静かだ。柔らかい朝日が地上に降り注ぎ、1羽の小鳥がキッチン側で鳴き声を上げている。穏やかな朝の世界を感じながら、今朝方の夢を思い出している。夢の中で私は、日本の見慣れない街にいた。小中高時代のある親友(SI)の家の彼の部屋で彼と話をしていた。その時に私の脳裏には、この街の片隅にある刑務所の姿がちらついていた。刑務所の中で何か不穏な動きがあることが察知されたのだ。それまだ事件として顕在化していなかったが、私は事件が起こる前の段階で、まるで予知能力を発揮するかのように、水面下で生じている不穏な現象に遠隔から気づいていた。親友の彼の部屋は真っ暗で、真っ暗な中、2人で現代アートの作品の制作に協働して取り掛かっていた。主に彼が色を塗っていき、私はそれを見ながら指示を出していた。それはかなり大きな作品で、部屋の地面に入るか入らないかぐらいの大きなキャンバスの上で絵を描いていた。彼がうまく黒色を使ってまだ塗られていない箇所を埋めていく手捌きが見事で、それを褒めた。すると彼は良い気分になったのか、さらに上手に手を動かしていき、みるみるうちに作品は一旦完成した。自分としてはもう少し細かなところの修正が必要だと感じていたので、一晩寝かせてまた明日の朝に最後の仕上げをしようと述べた。私たちは少し外の空気を吸いに玄関を出た。すると、遠くの方に2人の若い女性警官がいて、誰かを探しているような雰囲気を発しながらパトロールしていた。そこで私はハッとして、2人の女性警官は親友の彼を捕まえに来たのではないかと思った。すると、親友の彼はどこかに消えていて、若い青年とその父親が外に立っていた。どうやら2人は共謀して犯罪に加担してしまったようで、2人の女性警官は親友ではなく、彼ら2人を捕まえに来たのだと思った。彼らが本当に犯罪を犯したのかはまだ分からず、冤罪の可能性もあると思ったでの、一旦私は彼らを家の中にかくまうことにした。2人を家に入れると、1階のダイニングルームでインド音楽が大きめの音で流れていた。それは外に漏れそうな音量だったので、私はすぐさま音楽を止めた。その代わりにテレビをつけようと思ったが、その音も外に漏れるとまずいような気がしたし、今はテレビを見ている暇はないと思ったので、テレビをつけるのをやめた。まずは彼ら2人の話を聞こうとしたところで夢の場面が変わった。


次に覚えているのは、小中高時代の2人の友人(YU & KF)と一緒に、幼少期から青年期にかけて大流行したある漫画の登場人物たちが現れる格闘ゲームをしていた場面である。そのゲームはたくさんのキャラクターが登場し、キャラクター選択に悩むところだった。主人公を含め、数人の主たるキャラクターは、彼らの年齢や形態に合わせて何通りものキャラクター選択ができた。それだけ幅広いキャラクター選択が可能なので、最初私も悩んだが、最終的には主人公のある形態のキャラクターを選んだ。今から対戦する友人はキャラクター選択に迷っているようだったので、もうえいやと決めればいいのではないかと助言し、実際に私が彼のコントローラーを握って勝手にキャラクターを決めた。すると、かなりの脇役のキャラクターが選択され、3人で笑った。いざ対戦が始まってみると、驚いたことに私たちが実際にゲームの中に入り、そのキャラクターとして対戦することになった。リアルなVRゲームだと感心しながら、選択したキャラクターとして動き始めてみると、やはり自分は主人公のキャラクターだったので、圧倒的に動きが良く、友人が選んだキャラクターを圧倒することになった。なので私はところどころで手を抜きながら、彼にも対戦を楽しんでもらうように、あえて力を拮抗させることを意識した。フローニンゲン:2025/6/9(月)07:38


16810. 今朝方の夢の振り返り

     

今朝方の夢の幕開けを告げるのは、聖霊降臨節の月曜という象徴的な朝である。キリスト教暦において聖霊は啓示と霊感を司り、月曜は一週間の胎動を孕む始動の日である。柔らかな光と小鳥の囀りは、外界の静寂が内界へ滑り込む入口となり、まさに「いまここ」で夢を回想する主体の覚醒を導いている。冒頭の穏やかさは、これから展開する深層の動き——暗がり、犯罪の予兆、ゲームの熱闘——を際立たせる対位法として配置されているとChatGPTは述べる。第一幕の舞台は「見慣れない日本の街」の友人SIの部屋である。見慣れない街は、自我にとって未踏の心理領域を示唆し、その内部にある友人の部屋は記憶と共感の核である。部屋が真っ暗であることは、無意識に潜る儀式的な照明落としであり、そこで行われる現代アート制作は、原初の混沌に形を与える創造行為である。巨大キャンバスは自己全体を収めるほどの容れ物であり、黒で「まだ塗られていない箇所」を埋める手捌きは、影の部分を意識化する錬金術である。自分が指示を出し、友人がそれに応える協働の構図は、自己の能動的·受動的機能が対話しながら統合へ向かう過程を映す。友人を褒める行為は内的他者を励起し、無意識の働きを活性化させる祝詞である。仕上げを「一晩寝かせる」と宣言する場面には、潜在内容を熟成させる時間への信頼が宿る。同時進行で自分の脳裏に刑務所がちらつく。刑務所は抑圧·隔離·罪と罰の象徴であり、そこに「事件になる前の不穏」を遠隔で感知するのは、認識が未来的直観へ突き抜ける能力を示す。その直観がまだ「事件ではない」段階に焦点を当てる点が肝要である——これは意識が影の芽生えを早期に察知し、創造と破壊の分岐点を見定めようとする神経の張りつめであるとChatGPTは指摘する。玄関を出た途端に顕現する2人の若い女性警官は、アニマとしての倫理的査問官であり、闇の中で行われた創造——あるいは抑圧された力——を照射する光である。友人が忽然と姿を消すことは、影の主体が外的投影を解かれ、より深層へ沈降する瞬間である。そして代わりに現れる若い青年と父親のペアは、時間軸の異なる自己イメージ——エディプス的構造——を呼び出す。父子は「犯罪に加担したかもしれない」疑念とともに家へ匿われる。これは、罪の可能性を孕んだ内的男性性(アニムス)をいったん自我の家――意識の枠組み――に招き入れ、吟味しようとする試みである。響き渡るインド音楽は、異文化的、霊性的リズムが情動を刺激する象徴であり、自分が即座に音を止めるのは、未整理の情念が外部へ漏出し、自我の秩序を乱すことを恐れる反射である。テレビという大衆的情報装置を避ける判断は、外的価値観の雑音より内的対話を優先させる姿勢を示す。まさに彼らの物語を聞き取る前に場面が転換することは、無意識がまだ語られざる物語を秘匿し続ける決定を下した徴である。第二幕は、幼少期から青年期を彩った漫画のキャラクターがひしめく格闘ゲームの世界である。ここでは「選択」が鍵となる。膨大なキャラクター群は、多重化した自己像のカタログであり、主人公に幾通りも形態が用意される事実は、同一の核を持ちながらも年齢·状況に応じて姿を変える自己の可塑性を物語る。自分は迷いながらも主人公形態を選び、自身の中心性を担保する。他方で友人のキャラクターを「えいや」で決めてしまう行為は、他者の自由を制御する遊戯的パターナリズムであり、第一幕で父親を匿った行為と呼応する。選ばれたのが脇役であることは、周縁の存在が笑いとともに舞台中央へ躍り出る転倒効果を示す。対戦が始まり、自己はゲーム世界へ没入することで、選択が単なる頭上の操作ではなく身体化された現実となる。主人公として圧倒的強さを体感しつつ、意図的に手を抜いてバランスを取る態度は、自己の優位性を関係の調和に奉仕させる成熟の徴候であり、第一幕で友人の腕を称賛し協働した態度の延長線上に位置づけられる。こうして振り返ると、夢は「影の察知と創造」「秩序と逸脱」「選択とゲーム化」という三層構造で貫かれている。第一幕の暗闇のアトリエは無意識の溶鉱炉であり、刑務所の予感はそこから漏れ出す破壊的エネルギーを射程に捉えるレーダーである。第二幕のゲーム空間は、暗闇で生まれたイメージを光のスクリーンへ映し出し、キャラクター=自己を試験的に駆動させるシミュレーターである。女性警官や父子、脇役キャラクターといった周縁的存在が物語を動かすのは、抑圧されたサブパーソナリティが中心への参入を窺う流動性を示している。聖霊降臨節の静謐と鳥の歌声は、この乱舞する諸力の背後に終始寄り添う普遍的な導き手であり、自分が自らの創造と罪責、遊戯と倫理のあわいで揺れながらも、最終的に関係調整へ舵を切る姿を暖かく照らしている。結局、この夢は、外界の静かな祝祭日にこそ内面が深いドラマを演じるという逆説を映し出す。自己は暗がりの創造、未然の犯罪察知、父子の匿い、ゲームでの優位と譲歩という4つの局面を通じ、自我の技芸·直観·保護·調整という機能を試運転している。巨大キャンバスに残された「もう少しの修正」は、未だ語られぬ父子の物語や、選択されなかった数多のキャラクターの声を招き寄せる余白である。それらを仕上げる次の夜明けは、創造と倫理のあわいに立つ夢者が、再び聖霊の風を受け取る瞬間となるであろうとChatGPTは述べる。個人的に、「自己の優位性を関係の調和に奉仕させる成熟の徴候」という解釈には救われた思いがした。というのも、直近1週間以内に関係性の構築に関してある課題を抱えていたからである。こうして自分は夢に癒され、夢に救われる形で成熟の歩みを着実に進めていく。フローニンゲン:2025/6/9(月)08:06


Today’s Letter

I was struck by a thunderbolt of epiphany. It began to guide my life in a fruitful and meaningful way. I am deeply grateful for that. Groningen, 06/09/2025

 
 
 

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