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【フローニンゲンからの便り】16791-16794:2025年6月4日(水)


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タイトル一覧

16791

協働者の存在

16792

今朝方の夢

16793

今朝方の夢の振り返り

16794

数式が指し示す存在の実在性を巡って

16791. 協働者の存在

                         

時刻は午前5時半を迎えた。最近は日の出の時間が早くなり、この時間はもうすっかり明るい。冬の時代においては、午前8時半を迎えないと明るくならなかったことを思い出すと、3時間以上もの日の出のずれがあることに気付かされる。今の気温13度で、今日の日中の最高気温は19度とのことだ。これくらいの気温が一番過ごしやすいと言えるだろう。今この瞬間は空にうっすらとした雲がかかっていて、朝日を拝むことができていない。午前中は少しぱらつく雨が降るかもしれないとの予報が出ている。少し曇った空の下で、今1羽の小鳥が囀りを上げ始めた。どうやらその小鳥が一番早く鳴き声を上げ始めたようである。ほとんどの鳥の鳴き声は雄のようであるから、それはきっと雄なのだろう。彼の鳴き声を聞いていると、どこか仲間を求めているようにも聞こえてくる。昨日無事にCRESTの応募が完了したと研究代表から連絡があった。書類審査がまず通ることを祈るばかりだ。何チームが応募してきたのかわからないが、話によるといくつかのチームがあるようで、そこから自分たちの研究案が採択されるかどうかは本当に未知である。他のグループもきっと素晴らしいチームを結成し、意義のある研究案を出してきたであろうが、自分たちのチームもまた非常に意味のある研究案を出したこともあり、是非とも採択されてほしいと思う。このプロジェクトでは、発達心理学、とりわけ成人発達理論の知見を活用しながらチームに貢献していくことが求められている。こうした5.5年間もの長いプロジェクトに従事することは初めてのことであるから、その期間の中に自分も大いに色々なことを学び、成長が実現されるだろう。AI開発の本プロジェクトに真摯に従事することに並行して、意識とリアリティの地動説の研究を大学院で行っていきたい。この研究もきっと、巡り巡ってAIの研究開発につながるはずである。AIの研究開発においても意識の問題はつきものであるし、AIがリアリティをどのように認識するのかも問題となる。そうした問題を先回りする形で、意識とリアリティの性質についてどこまでも深く探究していく。この探究においても仲間が必要になる。とりわけ自分の研究を導いてくれるようなアドバイザーの存在は必須であり、色々と意見をくれる協働者もいると有り難い。アドバイザーがそのまま協働研究者になってくれると一石二鳥であり、今イギリスの大学院の出願に向けて、アドバイザー候補をそれぞれの大学院から見つけている。オックスフォード大学に関してはすでに見つかっており、オックスフォード大学出版の仏教思想に関する研究書シリーズの編集者も務めてみるヤン·ウェスターホフ教授が最有力候補である。あとはエディンバラ大学、ブリストル大学、SOASでもアドバイザー候補を探したい。フローニンゲン:2025/6/4(水)06:02


16792. 今朝方の夢

                     

朝の静けさの中で今朝方の夢を振り返っている。まず覚えている場面としては、現在ゼミに参加しているある若い受講生の方と一緒に同じ家に住んでいた場面である。そこはかつて幼少時代に住んでいた社宅のアパートのようでもあり、同時に一軒家でもあった。母がちょうど家の世話をしにやって来てくれていて、彼を紹介した。彼と私は隣同士の別々の部屋に戻り、そこで1人で過ごしていた。彼がどのように過ごしているのかは、壁を通じてまるで透視能力があるかのように把握できていた。彼には透視能力はないようだったが、逆に彼は私の感情を離れていても感じられる能力があるようだった。お互いにそれぞれの部屋のベッドの上に寝転び、ぼんやりとしながら心を落ち着かせていた。すると、母が細かいことで自分に文句を言ってきて、せっかく集中力を高めるために心を落ちかせようとしているのにそれが台無しになると思った。母は家の手伝いに来てくれていたので、それに感謝しながら、あまり厳しい口調にならないように、母に言われたことは大したことではなく、後で自分が対応すると伝えた。


次の場面だっただろうか。夢の中の自分は夢を見ていて、その一段深い夢の中で感動的な光景に出会していた。夢の中の夢の中で私は、白く半透明な空間の中でとても美しい歌を聞いていた。それは何語で誰が歌っているのかも定かではなかった。ただし、それが人が歌っている声であることは間違いなく、歌声が自分の全身を取り囲んでいた。全身の細胞が生き生きと活性化するような感覚がやって来て、背筋に感動の波が込み上げてきて、思わず感極まって涙した。そこで一度目を覚ました。そこから再び夢の世界に入っていくと、見慣れない空間に浮かぶボードの上で数人が集まって話をしていた。目の前には、小中学校時代のある友人(TM)の一番下の生まれたばかりの弟がいた。そのボードは地上数メートルぐらいの高さに浮かんでいたので、赤ちゃんの彼を落としたら死んでしまうかもしれないと思った。しかし、ボードの上にいたその他の男女の友人たちは、赤ちゃんのことをほとんど気にしていないようだった。兄の彼も大丈夫だとたかを括っているようだった。私だけがその赤ちゃんのことを気にかけていて、とにかく危ないので隣のより広い安全なボードの上に載せておくべきだと思った。すると、その赤ちゃんがお腹を鳴らし、「お腹が空いた」と述べたので驚いた。まだ言葉を話せるような年齢ではないはずなのに、片言ではあったが、しっかりとこちらが認識できる形でそのような言葉を発したので驚き、そして思わず笑ってしまった。この赤ちゃんであればこちらのボードに乗っていても大丈夫かもしれない。最終的にはそのような安堵がやって来た。


最後に覚えている場面としては、海辺の旅館に小中高大学時代の友人と宿泊していた場面である。ちょうど夕食の時間となり、午後10時からの遅めの夕食も可能とのことだったが、その時間帯に夕食を食べる人はほとんどいないようで、私たちは少し早めの夕食をいただくことにした。数人の友人たちとテーブル席を取り囲み、賑やかに楽しい話をしながら夕食を食べていた。特に、海の幸と山の幸の料理が美味で、その美味しさから自然と箸が進んだ。目の前には大学時代のサークルの友人が座っていて、彼が私の料理を見て、小さな茹で海老が残っていることを指摘してくれた。自分でもそれは知っていて、最後に食べようと思っていたが、指摘してくれた彼に半分あげることにした。すると彼は嬉しそうにそれを食べた。フローニンゲン:2025/6/4(水)06:19


16793. 今朝方の夢の振り返り

             

今朝方の夢全体は、深層に横たわる時間軸のずれと自己成長の相互干渉を、1つの連続した物語として映し出しているように思われる。まず第一の場面、幼少期の社宅でありながら同時に一軒家でもあるという二重構造の住まいは、過去の安全基地と現在の生活基盤とが重ね合わされた心的空間である。そこに居合わせる若い受講生は、学びを通じて出会った「未来の自分の萌芽」であり、同居はその萌芽と現行の自己とが同時に存在することを示している。壁越しの透視は、知的な洞察力によって他者の思考を見抜く力の象徴である一方、彼が発揮する感情的な共感力は、理知では捉え切れない情動的感受性を映している。相補的な2つの能力が並置されたこの場は、「頭で理解する自分」と「心で感じる自分」とが隣室のように境界を隔てて共存している心象風景に他ならないとChatGPTは指摘する。母親が細事に口を挟む描写は、内的に取り込まれた養育者の声、すなわち規範や義務を司る超自我の出現である。集中しようとする主体に対し、母の注意は絶えず「今すぐ片づけよ」という指令を下す。その声に感謝を示しつつも強い語調を避けて先送りを宣言する態度は、外的期待に折り合いをつけながら主体性を守ろうとする成熟した自我の働きを示している。ここでは「幼い自分を守る母」と「大人としての自分を束縛する母」とが重なり合い、過去と現在の母性像がせめぎ合う。次なる深層、白く半透明な空間で聞こえる名状しがたい歌声は、個人を超えた普遍的な調和の体験、すなわちトランスパーソナルな次元への接続である。言語を超越した歌は文化や時代を凌駕するコスモスの響きであり、その振動が全身の細胞を目覚めさせるさまは、生命エネルギーが中枢から末梢へ波及するクンダリーニ覚醒のイメージにも通じる。夢の中で涙がほとばしるのは、理性では押さえ込めない深い歓喜が自己の限界を突き破った瞬間を示している。この「夢の中の夢」は、意識の多重階層構造を可視化し、現実—夢—夢中夢という三段の井戸を通して、魂が源泉にまで降り立ち再生へ向けて上昇するスパイラルを描いている。浮遊するボードに乗せられた赤ん坊の場面は、「地に足のつかない不安定な現状で抱える新生の可能性」を象徴する。周囲の友人たちは危険を顧みないが、ただ一人自分のみが赤ん坊を守ろうとするのは、「自分がまだ知られざる才能や計画を育てる責任を負っている」という自覚である。赤ん坊が空腹を言語で訴える奇跡によって驚きと笑いが生じたのは、未熟と思っていた可能性が思いのほか自立性と言語を備えているという気づきであり、「守られるべき存在」から「すでに自己を主張する存在」への転換が安堵をもたらした。ここで浮遊ボードは、社会的ネットワークやプロジェクトなどの足場がまだ脆弱であることを示しつつも、赤ん坊=新たなアイデアが自力で成長し得ることを示唆している。最後の海辺の旅館での饗宴は、長い時間をかけて築かれた友情圏との再会、ひいては多様な自己部分の統合を表す。海の幸と山の幸の取り合わせは、外界(水)と内界(山)の恵み、あるいは陽と陰といった相対するエネルギーの調和を示す。午後十時という「遅さ」を回避してやや早く食事を選ぶ判断は、他者の時制に身を委ねるのではなく、自身のリズムに従う成熟の証左である。小さな茹で海老を半分分け与える場面は、自分が温めてきた成果を分かち合う寛容さであり、それを素直に喜ぶ友人の姿は、与え合うことで関係がさらに深まる循環を物語る。こうして振り返ると、夢の構造は「私的空間での内省」→「宇宙的体験での高揚」→「不安定な中間世界での保護と気づき」→「共同体での祝祭」という四楽章の組曲を成し、それぞれが過去—未来、個—全体、理性—感情、危機—歓喜といった対立軸を交差させながら進行している。冒頭の透視と共感の対置は、思考と感情の協働を促し、中盤の白光体験は内的秩序の再編を促進し、赤ん坊の逸脱的発話は未知への畏怖を好奇へ変換し、終曲の海辺の食事はその統合を祝福している。夢は単なる脳内の残像ではなく、深層心理が編み上げた叙事詩であり、見えざる自己が自我に向けて送る長い手紙である。そこには、「守られる子ども」と「守る大人」、「歌に震える魂」と「食事を楽しむ身体」が同時に息づき、相反する要素が交響しながら一人の生を立ち上げている。その響きを聴き取り、夢から目覚めた現覚の場で応答するとき、自分の内側では既に新しい協奏が始まっているのであるとChatGPTは述べる。フローニンゲン:2025/6/4(水)07:06


16794. 数式が指し示す存在の実在性を巡って

                   

時刻はゆっくりと午前10時半を迎えようとしている。先ほど、アクティブレストを兼ねて、ジョギングをして近所のショッピングモールにあるスーパーに行って食用品を購入してきた。幸いにも小雨は降っておらず、傘を差す必要がなかった。歩きながら1つ考えていたことがある。物理学における種々の数式は、物理法則を記述するために非常に有益である。しかし、一般人を含めて多くの物理学者は、数式の記述対象となっているものが実在すると思い込んでいる節がある。これはかなり滑稽な認識様式である。例えば、お腹が空いているときに、実際のリンゴを食べずして、リンゴを記述する数式を見て彼らは満足するのだろうか。仮に数式が物そのものを表していて、数式の先に実体があると思うのであれば、それで満足するはずである。しかし、実際のところはそのような形で満足するはずはないであろう。確かにリンゴの存在を認めたとしても、仏教的な観点で言えば、それは他の存在と独立して、特に私たちの心と独立して存在するものではない。ここで述べている心というのは個人の心を指すというよりも、有情を含めた集合的な心である。まさにヴォイチェフ·ズレクの量子ダーウィニズムにあるように、集合的な心が環境として働きかける形で物の存在が立ち現れる。しかし、それはその物が独立して実体を持っているわけではない。ズレクが述べるように、存在は「夢のような素材」で成り立っているのだろう。夢の中の世界の種々の存在は、物質的な物でも物理的なものでもない。それらは等しく非物質的·非物理的な存在である。存在の根幹にあるのは、そうした集合的な非物質的·非物理的なものなのだろう。であるにもかかわず、数式が指し示すものを実体化するのはやはり滑稽である。結局のところ、数式というのは、人間の心が捉えた対象を記述しているものに過ぎず、その物がそれ自体として実在していると考えるには認識論的にかなりおかしなことである。実際に、言語数学的な記述を実体化することは、仏教において無明(無知)の証として厳しく指摘される。そうなると、高度な知性を持つとされる研究者がいる物理学の世界には随分と無明が蔓延っているように思えてくる。幸いにも、同様の問題意識を持つ物理学出身の物理哲学者がちらほらいることに気づき、彼らの書物や論文を読んでいるところである。彼らのような認識を持つ者は、意識とリアリティの地動説の提唱に向けての同志であり、いつか協働する日が来ることを祈る。昨夜から就寝前に、物理哲学に関する書籍を読んでいて、ハッとさせられる記述があった。かつて物理学者たちは全員、自然を相手にする哲学者であった。啓蒙時代や産業化の進展を受けて、いつか科学者は哲学的な問題意識を持つことはなくなり、実験結果を哲学的に深く考察することを傍に置く形で、数式いじりや実験を繰り返すだけの存在になったという指摘を興味深く思った。これもまた同様の問題を持つ物理学者がいることは救いであり、物理哲学の探究は、物理学者との協働と物理学のさらなる進展のためにあることを改めて思う。そのようなことを考えながら、買い物から帰ってきた。個人的には、ロイ·バスカーの批判的実在論や、クァンタン·メイヤスーらの思弁的実在論など、種々の実在論を学んできたこともあり、引き続き仏教による実在論批判の論考を辿りながら、同時に物理方程式や数学が対象とする存在を実在だとみなす学者たちの論拠にも注目したいと思う。フローニンゲン:2025/6/4(水)10:27


Today’s Letter

Mathematical equations in physics are useful for describing physical laws, but they are merely descriptive explanations. Some people confuse descriptions with the things themselves. When they are hungry, would they be satisfied with merely seeing a mathematical equation that describes an apple, without actually eating it? Groningen, 06/04/2025

 
 
 

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