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【サイケデリック学探究記】11960-11966:2024年1月26日(金)



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タイトル一覧

11960. ハーバード神学大学院で知り合ったローリーからテキストメッセージを受けて

11961. 今朝方の夢

11962. 今朝方の夢の続き

11963. 未知と発見への開かれ/基本を大切に

11964. 意識哲学の問題への取り組み方

11965. インド哲学の深淵さに直面して/主観性の謎に対するサイケデリクスとテクノロジーの可能性

11966. 作業仮説の検証/意識研究に不可欠な瞑想実践/上座部仏教とパーリ語の学習に向けて


11960. ハーバード神学大学院で知り合ったローリーからテキストメッセージを受けて  


時刻はゆっくりと午前4時半に近づいている。今の外の気温は9度と暖かく、この時間帯のその気温が今日の最高気温である。ここから午前11時までは9度のままで、そこから夜にかけてゆっくりと気温が下がっていく。明日の朝には2度まで気温が下がるようである。どうやら今日は午前中に少し雨が降るようだが、正午前には止むようなので、午後にはアクティブレストを兼ねて書籍の受け取りに向けて散歩に出かけたいと思う。今日は2箇所で書籍を受け取る必要があり、1軒目で書籍を受け取ったら、近所の古書店に立ち寄って、インド哲学関係の学術書で何か良書はないかを探してみたいと思う。この3年の間にその店にはいつか立ち寄ってみたいと思っていたのだが、気がつけば立ち寄らないまま3年が経っていた。しかしこうして今日その店に初めて足を運んでみようと思うようになったのも何かの縁であり、そこまで期が熟す必要があったのだと思う。焦らないこと。期が熟すのを待つことが時に必要なことを思う。


昨日、昨年の秋にハーバード神学大学院(HDS)を訪れた時に知り合ったニューヨーク在住のローリーという女性からテキストメッセージが届いた。それはお互いの出願状況に関するものだった。ローリーはすでにリタイアしているような年齢で、そこから自身の出自と関係のあるユダヤ教についての理解を深めるためにHDSに入学することを検討しており、実際に出願をしたとのことだった。彼女も確か2つぐらい修士号を持っていて、学部を含めて全てアイビーリーグで学位を取得しているようなユダヤ系のエリートだったかと思う。彼女からのテキストメッセージを通じて知ったが、彼の父はフロイト派の精神分析家だったそうだ。ローリーからのメッセージでは、いつオンライン面接があるのかという質問を受けた。基本的に面接は書類選考に通った者しか進めず、面接への招待は1月末から2月初旬に届くらしいので、そこで連絡がなければ今回は縁がなかったということになる。ただし過去の状況を見ていると、2月末や3月の頭に面接の招待を受ける人もいるようなので一概には言えそうにないが、ウェブサイトの情報では今月末から来月の初旬には招待の通知が届くようである。さてローリーと自分にその通知が届くだろうか。ニューヨークとボストンはそれほど遠くないとは言え、ローリーもわざわざキャンパスビジットをし、プレビューイベントに参加していたので、こうしてキャンパスビジットした2人が無事にオンライン面接に進めるのか気になるところである。提出した書類の全てが総合的に判断されて晴れて面接に進めるため、キャンパスビジットそのものが何か決定的な要因になるわけではないが、そこでの体験を志望動機書にうまく盛り込むことができたのであれば、それは熱意とお互いのフィット感を伝えることになるはずである。ローリーと自分に面接の招待が届くことを願いながら、引き続き心静かに日々を過ごしていこう。フローニンゲン:2024/1/26(金)04:35


11961. 今朝方の夢       


時刻はまだ午前5時前だが、外で小鳥の鳴き声が聞こえたような気がした。それは空耳だろうか。暖房の音で今はもう鳴き声は聞こえなくなってしまっているが、今の気温を考えるととても暖かいのでこの時間帯に小鳥が鳴いていてもおかしくはない。室内で流している自然音の中にも小鳥の鳴き声が含まれているので、それと聴き間違えてしまったのだろうか。引き続き耳を澄ましてみよう。


今朝方はいくつかの断片的な場面で構成される夢を見ていた。それについて振り返り、今日もまた旺盛に学術研究に打ち込もう。


夢の中で私は、見慣れない建物の中にいた。そこはモダンな学校のようで、学校とは思えないような綺麗な建物をしていた。私は上層階から自分の教室のある階に降りてきて、教室を覗いた。実はひとりになれる場所を求めていて、教室に誰もいなければ教室でひとりで過ごし、教室に誰かいるのであれば別の場所に移動しようと思った。すると教室には数人の女子生徒がいて、彼女たちがいたので別の場所に行こうと思った。すると彼女たちは私に教室に残るようにと述べた。どうやらクラス会か何かがあるようで、今その他の生徒を待っている最中とのことだった。クラス会も煩わしいし、ひとりになれないことも嫌だったので、私は彼女たちの忠告を無視してさらに下の階に降りていくことにした。すると彼女たちのうちの1人が私を追いかけてきた。その足音がどんどんと近づいてくるのがわかったので、急いで階段を駆け下りて1階の男子トイレに逃げ込み、個室に入った。それでもう大丈夫かと思ったが、なんと彼女は私が入った個室の真ん前で待ち構えていたのである。これは困ったなと思い、彼女が痺れを切らしてどこかに行ってくれるのを待つために、しばらくそこで待機しておこうと思った。しかし、待てども彼女は粘り強くそこにいたので、さてどうしたものかと思った。時間が随分と立ったので、用を足すことにしたところ、便器の裏手に小さな箱があって、そこに誰かが脱ぎ捨てたパンツと小便なのかなんなんかわからないが液体が入っていた。私が用を足し始めると、その箱が左にパタンと倒れ、中の液体が左隣の個室の方に流れていった。すると、左隣の個室に入っていた先輩と思われる男性が驚き、この液体はなんだと叫んでいた。私が「それは小便ではなく水だと思います」と伝えると、先輩は笑いながら安堵したようで、そこから先輩と個室越しに会話をした。その間にも自分の背後には例の女子がいたので、少し気まずさがあった。先輩との話を終える頃、クラス会の開始の時間となったようで、さすがに彼女も痺れを切らしたようだった。そこで彼女が取った行動は、手持ちの傘を個室の壁に突き刺して中の私を攻撃してくるというものだった。彼女が突き刺した傘はドアを破り、それはとても危険に思えたので、私は個室から勢い良く飛び出し、そこから再び逃走した。彼女のエネルギーももう随分と減退しているようだったので、なんとか彼女を振り払い、ようやくひとりになることができた。自分はひとりになってゆっくりと瞑想的な意識の中で考え事をしたかったのである。ようやくそれが実現して嬉しく思ったし、なかなかひとりにさせてくれない学校という場は本当に自分には向かない場所だと思った。フローニンゲン:2024/1/26(金)05:00 


11962. 今朝方の夢の続き 


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるのでそれらについても振り返っておこう。こうした毎日の地道な振り返りが、思わぬところで活きてくる。それは自己や世界に関する洞察としてふとした時に現れる。また、定期的に行っているシロシビン・セッションにおいても活きてくるだろう。ちょうど今週の日曜日に第25回のセッションを予定しており、日々の夢の振り返りが何らかの影響を与えるだろうし、セッションの体験がまた夢の世界にも影響を与えるだろう。実践はこのようにして相互影響の網の目を構成しているのだ。


夢の中で私は、小中高時代の親友(NK)の展覧会のサポートをしていた。その展覧会では彼が作成したわけではなく、彼の知人の芸術家が作った無数の絵葉書を展示することになっていて、その手伝いをしていた。1つ1つの絵葉書はとても手が混んでいて、それらを眺めながらの手伝いだったので、結構時間がかかった。作業も終わりに差し掛かった頃に、どこからともなく男性の歌声が聞こえてきた。よくよくその声を聞いてみると、大学時代に知り合った東大卒の友人だった。彼は歌を通じて私に何か伝言をしているようだった。私が出版した書籍やブログ記事を含めて、自分の執筆したものを定期的に読んでいるとのことで、彼が自分の書いたものを読んでくれていると知って嬉しくなった。すると突然、背後から女性に声をかけられた。振り返ると、前職時代のマネージャーの女性がそこにいて、その方と一緒に仕事をすることはなかったが、とても物静かで優しいという当時の印象のままであった。その方が私に書籍をプレゼントしてくださったのでお礼を述べた。するとその方は笑みを浮かべてすぐにその場を後にした。2階の窓から通りの方を見ると、その方が道をゆっくり歩いていたので、最後にもう一度書籍を振りかざしてお礼を述べた。すると腕を上げた勢いが強すぎたので本が地面に落ちてしまった。せっかく贈り物として受け取った書籍を窓の向こうから地面に落としてしまうとは大きな失態だと思った。私はすぐさま窓からジャンプして地面に降り立ち、書籍を速やかに拾い上げて、もう一度その場でその方にお礼を述べた。その方は驚いた表情をしながらも、おっちょこちょいで元気一杯な私の様子を見て笑みを浮かべていた。


それ以外には、大学時代のゼミの友人(YN)と一緒に2対2のバスケの試合に挑んでいた場面を覚えている。私たちはそれほど真剣にそのトーナメントに参加しておらず、バスケを純粋に楽しむ気持ちで臨んでいた。1回戦の相手が有名人の2人だったので、動画撮影の許可を取り、Youtube上で公開してもいいかを確認したところ、快諾をしてくれたので、その試合を動画撮影することにした。いざ試合が始まったところで夢から覚めた。フローニンゲン:2024/1/26(金)06:13


11963. 未知と発見への開かれ/基本を大切に


未知と発見への開かれ。今日もまた自分は何を知り、何を発見して何を考えるのだろうか。毎朝起床した瞬間から爆発的な喜びと楽しさの感情が芽生える。それはその瞬間から新たな未知との遭遇と発見が待ち構えているからである。未知と発見との邂逅が毎日起こることには本当に感謝しなければならないし、本当に文字通りに毎日新しい出来事や知識と出会い、新たな発見と考察が芽生えることにこれ以上にない喜びと楽しみを感じる。自分はそれだけで生きていける。その喜びと楽しさが自己の最大の養分であり、その他にはもう何も望まないと言えるほどである。食事も自分が従事している経済活動も、そうした喜びと楽しさを満たすための最低限度のものでいいのである。日々の喜びと楽しさをこそ大切にしてこれからも毎日を送りたい。


今日は再びインド哲学の全貌がわかる入門書を読み返す。数日前に初読を終えた“An introduction to Indian philosophy: Perspectives on reality, knowledge, and freedom (2nd ed.)”が最良のテキストである。これは教科書的な扱いを自分の中でしており、それは網羅的にインド哲学について解説し、要点をうまくまとめ、さらなる探究に向けた問いや必読文献なども列挙してくれているので探究の道先案内人のような存在である。こうした網羅的な解説書は何度も繰り返し読むに限る。再読に次ぐ再読をする過程で、ペンキを薄く何度も塗っていく形で徐々に理解を深めていき、そのテーマや分野に関する知識体系を構築していくというのが自分の読書スタイルである。それを本書にも適用する。インド哲学について網羅的に理解を深めることができたら、自分が専門的に深めていこうと思っているサーンキヤ学派(ヨーガ学派を含む)とヴェーダンタ学派の専門書を読み進めていくのが次のステップである。すでにそれらに関しても専門書を購入して初読を終えているが、現状は理解が相当に浅い。入門書を通じてそれらの学派の思想のエッセンスを掴んだ後に、再び専門書に戻ってきてさらに理解を深めていく。このような形で、基本書と専門書をうまく併用することが学術研究においては重要になる。さらに個別具体的なトピックについてもっと突っ込んで理解を深めたい場合には論文を検索して論文を読んでいくことが重要である。論文を本格的に読み進めていくのは学術機関に戻ってからにしようと思っているが、すでにPCのフォルダの中にはインド哲学に関する論文もいくつか保存されており、いつでもそれらを読み込んでいけるような準備は着々と整っている。学問にも型があり、基本を大切にするという姿勢が大切だ。とりわけ新たな研究分野に入っていくときには基礎を大切にし、基礎固めをしっかりしながら自分の関心トピックやテーマに関する専門書を読むということをこれからも意識的に取り組んでいきたいと思う。フローニンゲン:2024/1/26(金)06:46


11964. 意識哲学の問題への取り組み方


今し方朝の瞑想を終えた。時間は計らずに、必要なだけ瞑想するようにしているのだが、先ほどは15分ほどの瞑想となった。ここ最近はシロシビン・セッションの手助けもあって、瞑想の深まり度合いが以前よりも増している。短い時間ですぐに深い意識状態に入ることができている。そうした恩恵を受けながら瞑想をしていた。


ここからまた読書に励んでいくのだが、読書を単にインプットとしての実践にするのではなく、書物に書かれている問いや書かれている内容から思いついた自分なりの問いに対して将来大学で教鞭をとることを想像しながら、学生や学者相手にプレゼンするかのように1人語りをしてみるというアウトプットの実践として読書を行いたい。最も重要なことは書物を読んで単に知識を得ることではなく、自分で考えることなのであり、それを他者に説明しながらさらに自分なりの独自の問いを発見したり、考察を磨いていくことなのである。ゆえに読書を単なるインプットとみなすのではなく、絶えず1人語りを伴うアウトプットの実践として位置付ける意識を明確に持っておきたいと思う。


ここからある程度東西の意識哲学の書籍を読み終えて全体感を掴んだら、自分で1日数個の哲学的な問題に絞って考察を深めていくことをしてみたい。あまりにも取り組む問題の数が多いと、1つ1つの問題に対する考察が浅くなってしまう。一方で1つの問題に長く取り組み過ぎるのも思考の限界がある。そうしたときに、手順としてはまずは1人語りをして考えを自由に吐き出し、その中で得られた考察を日記やリサーチノートに書き留める形で記録しておきたい。ただ漠然と書籍を何冊も読むよりも問題意識を持ち、自分が関心を持った問いにその場でまずは即興的に自由連想的に自分なりの考えを言葉でアウトプットしてみる。そうした自らの考察を蓄積することの方が単に知識を得るよりも圧倒的に重要である。このあたり数学者はどのように自分が取り組むべき問題と向き合っているのだろうか。数学者の仕事の進め方が参考になるかもしれない。卑近な例で言えば、かつて自分が大学受験のときに行っていた数学の勉強を思い出してみると、それは確かに試験突破のためのものだったが、1日にむやみやたらに問題を解いていたのではなく、良質な問題に絞って数問ほどを毎日解くに心がけていたように思う。かつての受験勉強における数学の問題との付き合い方を思い出してみて、それを意識哲学上の問題への取り組みに活かしてみよう。フローニンゲン:2024/1/26(金)08:40


11965. インド哲学の深淵さに直面して/

主観性の謎に対するサイケデリクスとテクノロジーの可能性


朝から知的興奮の中でインド哲学の研究を進めている。インド哲学の射程の広さとその深淵さを目の当たりにし、「これはとんでもないものい手を出してしまったぞ」という思いがよぎる。しかしそれもまた自分にとって必然的な流れの中の出来事として受け止めている。もちろん最初は自分が最も取り組みたい問題に照らし合わせてインド哲学の学派とその思想を学んでいくのが賢明だと思われるが、インド哲学の全体を概観していると、その全てを学びたくなり、その全てが重要に思えてくる。ここから文字通り果てしない探究が続いていきそうだ。兎にも角にも自分の研究の焦点は意識とリアリティである。それら2つをどこまでも広く深く探究していく。この探究過程の中では常に現代的なテーマを扱っていく。それがまさにサイケデリック体験であったり、VR体験であったりする。そうした具体的次元のテーマを常に念頭に入れてインド哲学を研究していくことができれば、自分の日頃の生活と密着したものになり、学術研究と日々の生活が非二元として営めるのではないかと思う。学術研究と生活を二分しないこと。その大切さを思う。


主観性の謎、あるいは一人称の謎。私たちは確かに間主観性と二人称を持つが、他者の主観性を主観性のままに体験することが現状不可能だという不思議さ。もし仮にそれが可能になれば、他我問題は解決するのではないかと思う。それを可能にするテクノロジーを開発することはできるだろうか。今のところテクノロジーの助けを借りなければ、私たちは自らの主観性を維持したままに相手の主観性をそれそのものとして感じることはできない。果たして自らの主観性を維持したまま他者の主観性をそのまま体験することはできるのだろうか。例えば、他者が痛みを感じているときに、それを他者が感じている痛みのまま自分の主観性を維持しながらもそこに自分の主観性を通じた痛みの解釈を施すことなく他者の痛みとしてありのままに体験することは可能だろうか。それができたら他我問題の解決に向かう可能性があり、そのような体験を可能にするテクノロジーの開発を期待する。対話を通じて、相手が感じている痛みを類推することは誰にでもできるが、それは他者の痛みを他者の主観性を通じて体験していることにはならない。それはどこまでいっても自分の主観性という枠組みから感じられる痛みの感覚、あるいは自分の主観性という枠組みから見た痛みの類推に過ぎないのだ。「他者が感じている痛みの感じ」を類推を通じて自らの主観性によって感じることは間主観的なアプローチであり、それを超えた形での他者の痛みをありのまま感じる方法を模索したいと思う。その方法の創出の鍵としてサイケデリクスとテクノロジーがあるように思える。やはり両者は意識研究において本当に重要なものなのだとわかる。フローニンゲン:2024/1/26(金)10:14


11966. 作業仮説の検証/意識研究に不可欠な瞑想実践/

上座部仏教とパーリ語の学習に向けて      


意識哲学の仕事を進めていくにあたっては、どのような理論仮説を立案していくかよりも先に、自分がどのような作業仮説に立脚しているのかという前提を問うことを行うべきだと思った。理論仮説の構築に向けて思考を前に進めていくためには、その土台となるいくつもの作業仮説が必要であり、それらもまた仮説であることを踏まえた上で、作業仮説そのものを絶えず見直していく必要があるだろう。その真実性の度合いもきっとまちまちだと思われるので、より真理に近い理論を構築していくためには、そもそも土台となる作業仮説の確からしさが重要になることを改めて思った。


意識がまるで一望レンズのようにグルグルと周り、様々な事物を知覚してそれを認識している。今し方午前中の2回目の瞑想実践を終えてそのような知覚体験をしている。意識研究において瞑想実践は不可欠のものであり、それ以上に有益な探求手法は今のところ見当たらない。仏教を含めたインド思想においてなぜ瞑想が重要視されていたのかが今となっては本当によくわかる。意識とリアリティを探究するためには瞑想が兎にも角にも主であり、それを補完する形で学問的研究がある。そのあたりの主従関係を間違えないようにしたいし、ここから両者の深まりを見せれば、それらの主従関係は解消され、非二元なものになるだろう。意識とリアリティの本質について知りたければ、瞑想実践が王道かつ真髄であることを強調したい。そしてそこにサイケデリクスの摂取を加えることができれば尚良しである。意識は常に主観性そのものなのであり、主観性を主観性として体験できる瞑想とサイケデリクスは本当に核である。それらの実践が伴わない意識研究は必ずどこかで頭打ちとなる。主観性を直接体験を経ずに理性だけで眺めていくことには限界があるのだ。


瞑想前に改めて、中観派や唯識派などの大乗仏教の思想を学ぶだけではなく、上座部仏教(Theravada Buddhism)の思想も参照するべきだと思い、文献調査を行っていた。上座部仏教において参照するべき意識論としてアビダルマ (Abhidharma)がある。それに関する網羅的な解説書を見つけたので、それを来月の一括注文の際に購入しようと思う。大乗仏教の経典はサンスクリット語で書かれているものが多いが、上座部仏教の経典はパーリ語で書かれているので、サンスクリット語に合わせてパーリ語も学びたい。インド哲学の研究を通じてまた新たな言語との出会いが実現されたことを嬉しく思う。言語はリアリティの窓であり、リアリティの創造の源泉でもある。新たな言語を学べば学ぶだけ、アクセスできるリアリティが増え、自分の内側で開示されるリアリティがより多元的で豊かなものになるだろう。サンスクリット語とパーリ語の学習に向けて非常に前向きな自分がいることは喜ばしい。フローニンゲン:2024/1/26(金)11:07

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