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【サイケデリック学探究記】11681-11690:2023年12月24日(日)



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タイトル一覧

11681. 今朝方の夢

11682. 第22回のシロシビン・セッションに向けて

11683. 12年前のハーバード大学でのアヤワスカとの出会いから

11684. ショーペンハウアーの越的汎心論思想/母から受け継いだもの

11685. 仏教の現象学/主観性の常なる間主観性について

11686. 第22回のシロシビン・セッションの振り返り(その1)

11687. 第22回のシロシビン・セッションの振り返り(その2)

11688. 第22回のシロシビン・セッションの振り返り(その3)

11689. 第22回のシロシビン・セッションの振り返り(その4)

11690. 第22回のシロシビン・セッションの振り返り(その5)


11681.今朝方の夢  

   

時刻は間も無く午前4時を迎えようとしている。今日はクリスマスだ。クリスマスの今日は、きっとフローニンゲンの街の集合意識はいつも以上に幸せなものになるに違いない。この街の全ての人の幸を願う。今の自分の力ではその範囲でしか幸を願えないのかもしれない。自分の意識の力はまだその程度のもので、自分が住んでいるオランダ一国全体の幸を願うには遠く及ばない。しかし、幸を願い、幸を実現する力をこれから着実につけていこうという思いがあることは確かだ。それもまた2024年の自分なりの目標の1つになるだろうか。


クリスマスの今日は、早朝のこの時間から風が強い。風の強さは午前中一杯は今と同じぐらいの強さで、午後3時頃にピークに達し、強風の状態がしばらく続く。外の世界の風がどれだけ強かろうが、自分の心は常に穏やかだ。今日もまた内面世界の静けさの中で自分の取り組みを進めていこう。


今朝方の夢をいつものように振り返っておこう。夢の中で私は、欧米のどこかの大学に勤務していた。幸いにも研究室を与えられていて、その研究室には本棚が四方にあって、そこにびっしりと書籍が並べられていた。本棚に収まらない学術論文に関しては、机の上を含め、様々な場所に置かれていた。この研究室で一番気に入っているのは、午前中に太陽の柔らかい日が入ってくることだった。その日はとても天気が良く、外は少し雪が積もっているようだったが、朝の太陽の光は優しさがあって、それを研究室で浴びれることは嬉しかった。モーニングコーヒーを片手に好きな本を読んだり、好きな論文を読んで過ごしていると、身体の内側から至福感が湧き上がってきて、自分はそれと化していた。自分を邪魔するものは何もなく、ただただ研究に没頭できることに幸福感を感じ、こうした状況を与えてくれた大学と自分を超えた存在に深く感謝していた。そのような場面があった。


今日はその他にも夢を見ていた気がする。はてどのような夢だっただろうか。もう1つぼんやりと覚えていることとして、見知らぬ人と一緒に会話をしている場面があった。場所は欧州のどこかの街で、カフェのようなところでも、オフィス街でもなく、石畳の道の上で話をしていたような記憶がある。その道の先に農場が広がっていて、自然を感じさせてくれる心地良い場所であった。クリスマスに見た今朝方の夢はさほど印象に残るものではなかったが、それはそれで自分の内面の状態を何かしらの形で表してくれているのだと思う。フローニンゲン:2023/12/24(日)04:07


11682. 第22回のシロシビン・セッションに向けて 


クリスマスの今日は、再びシロシビン・セッションを行う日だ。 2週間に1度のセッションの頻度は、今の自分の求めに最も合致しているように思う。この頻度は、ボディ、マインド、ソウル、スピリットの存在の入れ子全ての求めに合致している。今日もまた前回と同じぐらいの時間帯にセッションを始め、調理方法も前回と同じものを採用したい。具体的には、午前10時からシロシビン・マッシュルームを保存している瓶を冷蔵庫から取り出し、それをまな板の上で刻んで、カップに入れてそこに白湯を注ぐ。順番としては、八丁味噌をカップに入れた後に白湯を注ぎ、最後にマッシュルームを入れる。シロシビンは72度以上のお湯をかけると死んでいってしまうので、それを防ぐために、お湯の温度も白湯ぐらいとし、さらに慎重にマッシュルームは最後に入れるようにする。


マッシュルームを食した後は、少し前回と違う工夫をしたい。それは何かというと、前回はマッシュルームを食したらすぐに歯磨きをして寝室でのセッションに向けて必要なものを持ち運んでいたが、今日はマッシュルームを食した後にオーガニックのカカオ99%のチョコレートを1片食べようと思っている。メキシコのマサテコ族の儀式では、シロシビン・マッシュルームとカカオドリンクを一緒に摂取する風習があるらしく、カカオにはどうやらシロシビン体験を増幅させる働きがあるらしい。一説によると、カカオがMAOI(モノアミン酸化酵素阻害薬)のような働きをして、まさにアヤワスカにおけるDMTとMAOIの組み合わせのように、アヤワスカと同じくトリプタミン系に分類されるシロシビンにおいても同様の効果が発揮されるのではないかと考えられている。


欧米ではシロシビン・マッシュルームとダークチョコレートを組み合わせるというのはかなり一般的で、これまでシロシビン・トリュフを摂取する際にはカカオパウダーと混ぜてドリンクを作っていた。その時には確かに体験効果が増幅され、ピークの訪れも早く、それでいて体験時間を少し抑えることができたように感じている。服用量の変数によるかもしれないが、摂取量はほぼ同じだったので、前回のセッションが前々回よりも30分から1時間ぐらい長く感じられたのは、前々回がカカオパウダーに刻んだマッシュルームを入れて摂取したのに対して、前回は味噌と組み合わせたことによるのかもしれない。味に関しては、カカオパウダー以上に八丁味噌との相性が良く、味噌汁感覚で摂取することができたのは嬉しい発見であった。なので今日は体験を増幅させ、ピークを少し早く持ってくるために、シロシビン・マッシュルームの摂取後に、1片のオーガニックダークチョコレートを食べようと思う。その他には、音楽の選定に関しては昨日の日記で書き留めた通り、今日はもっぱらバッハの協奏曲をかける予定だ。フローニンゲン:2023/12/24(日)04:50


11683. 12年前のハーバード大学でのアヤワスカとの出会いから


「新しい年を迎えたら、あれから12年が経とうとしているのか」昨夜、そのようなことを思った。自分が今こうして哲学・科学・神学の三位一体の観点から、意識・宇宙・サイケデリクスという三位一体を探究することになったきっかけについて振り返っていると、その明確な始点がいつだったのかに気づいて感慨深い気持ちになった。もちろん始点を探すというのは何においても難しい。全てが繋がっていて、時間の存在しない究極的なリアリティにおいては、時系列というものが本質的には存在しないからだ。禅における「父母未生以前の本来の面目」の問いにあるように、始まりは永遠の世界に溶け込んでいるのだ。そうしたことを思いながら、あえて今こうしてサイケデリクスについて本格的な研究と実践に従事しているのは、間違いなくある場所でのある出来事がきっかけだったと思ったのである。


2012年の9月に私は、当時の生活拠点であったアメリカ西海岸からハーバード教育大学院のロバート・キーガン教授が主催するワークショップに参加した。当時の自分は発達心理学の中における成人発達を専門的に研究しており、研究だけではなく実務として、成人発達理論を活かした人の成長を支援するコーチングに従事したいという思いを持っていた。すると偶然にもキーガン教授のワークショップがハーバード大学で行われることを知り、それに参加することにしたのである。そのワークショップから得られたものはたくさんあったが、中でも最終日の晩餐会で懇親を深めたインド系アメリカ人のプラシャントという男性との出会いが自分の人生を大きく変えてくれたのだと思う。


晩餐会が行われたのは、“Harvard Faculty Club”という建物であり、ワークショップもその立派な建物で行われた。晩餐会の席で同じテーブルを囲んでいたプラシャントとは話がとても合い、数日間のワークショップしか一緒に過ごしていないのだが、お互いのことを「ソウルメイト」と呼び合うほどに意気投合して話をしていた。偶然なのだが、今の自分の関心である意識と宇宙に関するような話を当時していたように思う。


晩餐会が終わりに差し掛かる頃、プラシャントと私は席を立ち、1階のトイレに向かった。そこでお互いに用を足している最中に、プラシャントがどこか覚醒している人固有の世界観を持ち、覚醒者固有の目つきをしていたことから、「ひょっとしてアヤワスカを試したことある?」と突然ながら尋ねたのである。するとプラシャントは一呼吸置いて、「あるよ」と述べた。そこから私は、当時の自分の生活拠点がカリフォルニアのベイエリアであることを伝えると、なんと偶然にもプラシャントもかつてサンフランシスコに住んでいて、そのエリアでアヤワスカを摂取できる場所を教えてくれたのである。それがアヤワスカを宗教儀式に使っているブラジル土着の新興宗教のサント・ダイミ教だったのである。そこからすぐにそのグループの代表者の連絡先を教えてもらい、連絡をしてアヤワスカを摂取したという経緯がある。


来たる2024年は、それから12年の月日が経とうとしている。12年に前にハーバードでプラシャントと出会い、アヤワスカを摂取できるグループを紹介してもらった日から12年の月日を経て、アヤワスカを含むサイケデリクスという存在をハーバードで研究することになったら、本当に運命的な何かの存在と大いなる導きを感じざるを得ず、それが実現した時には感慨深い気持ちの何物でもない気持ちになるだろう。そのようなことを思いながら昨夜は就寝に向かった。この人生で出会う全ての人、自分の身に起こる全ての出来事に感謝の気持ちで一杯である。フローニンゲン:2023/12/24(日)05:14


11684. ショーペンハウアーの越的汎心論思想/母から受け継いだもの


午前10時から始まるシロシビン・セッションまで時間が十分にあるので、その時間は全て読書に充てようと思う。まずは川面凡児先生の書籍を数章読み、そこから昨日受け取った仏教の現象学に関する書籍の初読を始めたいと思う。それらの書籍はいずれも今日のセッションのシロシビン体験の理解を深めてくれるだろう。


サイケデリック哲学者のピーター・ショステッドの仕事に影響を受けて、最近はショーペンハウアーとニーチェの思想に関心を持って探究を進めている。ショーペンハウアーは、自然法則は超越的な意志からもたらされるものであると考えていたことに加えて、全ての事物の本質は意志であると捉えていた。この点に超越的汎心論的な思想が見て取れ、自らのサイケデリック体験と照らし合わせてみると、ショーペンハウアーのこうした発想には大いに共感される。またショーペンハウアーは、そうした意志は完全に自由なものであると述べているのだが、この点についてはもう少し考察を深めたい。完全なる自由意志が存在するのかどうかはまだ今の自分にはなんとも言えない。超越的な次元の究極的な意志は完全なる自由を体現しているかもしれないが、それ以外の個別具体的な法則や事物や存在が内包する意志が完全に自由であるとみなすのは幾分違和感がある。こうした違和感を大切にして研究と考察を進めていく。


昨日ふと、来年に神楽を習い始めたら、かつてフラダンスを習っていた母に踊りに関して色々と話を聞いてみたいと思った。母とはすでに音楽で繋がっているが、踊りでも繋がりを持てたら幸いである。まさか自分が踊りの道にも足を踏み入れることになるとは思ってもみなかったが、これもまた必然の流れなのかもしれない。母がフラダンスという踊りに魅せられたのと同じDNAを自分が引き継いでいることを考えれば、とても納得のいく。それともう1つ、母がかつて「リラ(Lila)」という言葉を入れたメールアドレスを使っていたことを何気なく思い出し、ここ最近のシロシビン・セッションが開示している「宇宙遊戯(cosmic lila)」としての自己の本質は、母に由来するものなのかもしれないと思った。踊りといい、遊びといい、母から受け継いだものが随分とあるのだなとしみじみする。これらの点については、またどこかのタイミングで母に直接話を聞いてみたいと思う。踊りについて、リラという名前の由来について、母には色々と話を聞いてみたいことがある。フローニンゲン:2023/12/24(日)05:58


11685. 仏教の現象学/主観性の常なる間主観性について


時刻は午前8時を迎えたが、依然として深い闇に包まれている。この闇の感じだとクリスマスの雰囲気がいまいち分からないが、闇の向こうにあるリアリティに思いを馳せてみると、クリスマスの雰囲気がほのかに感じられる。


先ほど、仏教の現象学に関する分厚い書籍の初読を終えたのだが、仏教の現象学の深淵さを思った。これを理解するのには相当に時間がかかりそうだが、地道なサイケデリック実践という直接体験をもとにゆっくり探究を進めていけば、徐々に理解が醸成されていくであろう。そこから自分は京都学派の思想の現象学的な側面に注目し、日本的現象学を深く探究していきたいと思う。その探究はきっといつか、日本人が今後サイケデリクスを摂取する際に参照する体験の見取り図を提供することにつながるのではないかと思う。それを実現したい。


主観性の常なる間主観性について考える。主観性は常に間主観的かという問いについて考えているのだが、どうやら大乗仏教の唯識派はそのような発想を持っているらしい。唯識派が持つ「三性説」のうちの1つは、「依他起性」と呼ばれるもので、それは存在が常に他に依存するという意味を持っている。その他にも、存在は常に仮として構築されたものとする「遍計所執性」や、存在は常に完成されたものであるとする「円成実性」を持つとされている。それら3つの性質は独立して存在しているのではなく、それらは互いに並列して存在していると唯識派では考える。ひょっとしたら今日の後ほどのシロシビン・セッションで、これら3つの性質を現象学的に体験する瞬間があるかもしれない。そして、これらの性質についての新たな洞察が得られるかもしれない。そんな期待がある。フローニンゲン:2023/12/24(日)08:12


11686. 第22回のシロシビン・セッションの振り返り(その1)     


時刻は午後1時半を迎えようとしている。つい今し方、第22回のシロシビン・セッションを終えた。今回はいつもより早い終了となった。その背景や理由などについても今から書き留めておきたい。


今日のセッションはまず、予定通りに10:10にシロシビン・マッシュルームを摂取し終えた。乾燥させた5.5gのマッシュルームを食べたのだが、ひょっとしたらオーブンで14時間ぐらいかけても完全乾燥ではないのかもしれないと思った。その証拠に、アルミホイルを開けてみたときに、マッシュルームに水分が少しあって、ふやけている感じがあったのである。シロシビン固有の青色の変色も見られ、今日のセッションが早く終了したのは、鮮度の問題が大きいかもしれない。また、完全乾燥状態ではなかったゆえに、5.5gというのは高服用量に到達していなかった可能性がある。その他には、前回から14日間を開けたのだが、まだシロシビンの耐性が残っていた可能性がある。確かに前回は前々回から9日しか間が空いていなくても深い体験となったが、体調によって耐性の構築度合いも変動するであろうから、耐性の問題も1つ今回は考慮に入れなければならない。こうした次回に向けての考慮事項がいくつか列挙されていく中で、とは言え今日のセッションでも気づきや発見が十分にあったので、それらを今から書き留めておきたいと思う。


今日のセッションにおける意識状態は主にコーザル状態と目撃者の意識状態が中心であった。セッションの最初の頃にはサトルの状態を飛ばし、幾何学模様が知覚されるというようなことはなく、色や形を伴うビジョンを持たない無形のコーザル状態が続いた。そこではユングでいうところの原型を知覚する場合もあるが、今回のセッションでは原型を知覚することはなかった。その代わりに、コーザル状態での気づきをいくつか得ることができた。そこでは時間がなく、時が流れぬ自己が確かにいるという感覚があった。これも過去のセッションですでに何度も体験していることではあったが、こうした確認を何度もしていくことにも意味があるのだろう。一回の直接体験ではなく、繰り返しの直接体験が自己の存在の奥に刻み込まれていき、気づきや洞察も繰り返しセッションを変えて獲得していくことを通じてそれが自分の内側に深く定着していくのだと思われる。


深いコーザル状態から浅いコーザル状態に移行し、それを深いサトル状態と解釈すると、そこでは超心理学でいうところの千里眼的な現象が起こったのが印象的である。遠いところにいる見知らぬ誰かの行動をリアルタイムで目撃している自分がいて、その状態をしばらく維持していた。こちらから何か働きかけができたわけでもなく、またそうした意図も一切なく、純粋な千里眼現象としてその人の行動を目撃し続けるという状態を維持していた。サイケデリクスの摂取と超能力は親和性が高いことは以前より知っていたし、過去のセッションにおいてもそれを確証付ける体験を何度もしているが、今日のセッションのハイライトとして千里眼現象があったことを書き留めておきたい。超心理学に関する書籍もひょっとしたら読み返すタイミングにいるのかもしれない。


今日のセッションでは何か今後の人生の指針になるようなことは特に得られなかった。元々それをセッションの意図に設定していなかったこともあるし、直近2回のセッションでもうこれ以上ないほどに現時点での指針を得られていたことも影響しているだろう。シロシビン・セッションは本当に、今の自分に必要なことを必要なだけ見せさせるのだと改めて思う次第だ。フローニンゲン:2023/12/24(日)13:55


11687. 第22回のシロシビン・セッションの振り返り(その2)


クリスマスはみんなどこかに出かけているのだろうか。近所の家で灯りをつけている家が一軒もない。クリスマスは家族で集まり、新年は恋人や友人たちと祝うというのが欧米社会の特徴で、それは日本とは随分と異なる。日本はどちらかというと逆ではないだろうか。


今日のセッションにおけるセッティングで1つ学びがあった。今日はクリスマスという環境要因を考慮して、敬虔なプロテスタントのバッハの曲をかけたのだが、それはあまり功を奏しなかった。バッハの協奏曲は通常の意識状態で聴けば大変素晴らしいが、使用される楽器の特性か、非二元という究極的な意識状態に誘う力はあまり持っていないように感じられた。もちろん服用量やその人の状態によって、バッハの協奏曲でも非二元の状態に入れる人はいるだろう。しかし自分の印象として、バッハの協奏曲はどこまでいっても神が創造した有の世界の賛美に思えてしまい、そうした自分の価値判断もあってバッハの曲を途中でかけるのをやめた。


それともう1つ、バッハの曲がなぜ美しいかというと、それは見事な整合性がそこに具現化されているからだと思うのだが、逆に言えばバッハの曲は整合的過ぎるという気づきもあった。そうした気づきから、もう少し混沌とした音楽構造を持つであろう雅楽の曲をかけてみた。すると、雅楽の楽器が持つなんとも曖昧な響きが大変心地良く、曖昧な響きが見事な倍音を通じて調和を作り出していて、しばらく雅楽の曲をかけていた。


次回のセッションにおいては神道の曲をかけようと思っていて、それを先取りする形で雅楽の曲をかける形となった。しかし雅楽の曲においても、太鼓の響きなどが非二元の状態に誘う妨げになり得ることを思った。そうしたこともあって、次回のセッションではやはり過去2回かけてきた禅仏教の曲をかけるか、純粋に自然音である森の音や海の音などをかけてみるのもいいかもしれない。全く音楽や音がないと思考の渦に巻き込まれることがあり、それが肯定的な思念であれば良いが、否定的な思念の場合にはかなり苦しい体験となることを覚悟しておかなければならない。さて次回に予定している2024年最初のセッションではどのような音楽をかけようか。取り急ぎ、森の音楽と海の音楽で何か良いものがないかを探してみよう。


早速Spotify経由で自然音を探したところ、森の音楽と海の音楽で良いプレイリストをいくつか見つけることができた。今日からそれらを全て一通り聴いてみて、次回のセッションでかけるのにふさわしいプレイリストを発見しておきたいと思う。自然の音には人の手ではななかな生み出せないような複雑性があり、混沌と調和の見事な均衡がそこに体現されている。これまでのセッションでかけていた音楽が人の手によって作られたものだったこともあり、次回は自然音をチョイスしてみよう。フローニンゲン:2023/12/24(日)14:13


11688. 第22回のシロシビン・セッションの振り返り(その3)    


引き続き今日のシロシビン・セッションを振り返っている。今日は非二元の状態に行くような深い意識状態には誘われないことが1時間ぐらい経った頃になんとなく分かっていたので、ベッドの上にノートを置いて、逐一体を起こしてメモを取っていた。そうした形でのセッションの進め方もあることを学んだ。これまでは全て体験を終えた上で、覚えている限りのことを一気に書き出していたが、今後さらに自分の意識状態のコントロールが自由自在になれば、手元のノートにメモを逐一書き留めておくのも良い方法かもしれない。とにかく自分にとってサイケデリックセッションはもはや治癒や変容という目的ではなく、学術研究のために摂取するというのが最大の目的なのだ。サイケデリックセッションはこれまで合計すれば30回ほどになるだろうが、これまでのセッションは全て自己治癒と自己変容に焦点が当てられていて、そうした目的でサイケデリクスを摂取することはひと段落ついている。もちろん完全なる治癒の実現は不可能であるし、変容は終わりのないものであるから、また人生のフェーズが変われば、治癒や変容目的でサイケデリクスを摂取することはあるだろう。しかし当面はとにかく自分の学術研究目的でそれを摂取する。


現在お世話になっているシロシビン・マッシュルームは別名“Golden Teacher”と呼ばれているのだが、まさに色々な面でそれは自分にとっての黄金の教師である。それは自分の学術研究のテーマに関する深い洞察をもたらしてくれたり、必要な治癒や変容をもたらしてくれる。実際のところは、学術研究も治癒も変容も自分の中では三位一体であり、それらを便宜上差異化しているだけであり、また逆に言えばそうした差異化がなければ全てが渾然一体となってしまい、未分化ゆえの効力希薄化が生じてしまうであろうから分類をしているのである。


今の自分の探究の焦点は兎にも角にも意識と宇宙である。直近2回のセッションが本当に宇宙に関する様々な気づきをもたらしてくれたのに対し、今回は非二元の状態に到達しなかったこともあって、宇宙的な体験もなければ、宇宙に関する洞察もさほどなかった。いずれの気づきも意識に関するものだったように思う。意識に関する気づきと言っても心の哲学で扱うようなトピックにつながるようなものではなく、どちらかというと人間存在の特性に関するものだったように思う。それもまた意識と呼べるかもしれないが。


例えば、自分の内側の様々な階層や領域で絶えず小さな死が連続的に起こっていて、それぞれの死が球体を成して次の生にバトンを受け渡している洞察が得られた。興味深いのは、そこに何かビジョンのようなイメージは伴わず、その洞察を得ていたのが形なき対象を知覚するコーザル状態の中だったからか、一切の視覚的イメージは存在していなかった。それは純粋な気づきの意識からもたらさられる純粋な気づきだった。なるほどこうした形での気づきというものが存在するのだと書き出してみて初めて気づいた。グロスの気づき、サトルの気づき、コーザルの気づき、目撃者の気づき、非二元の気づきという、気づきにもそれぞれの意識状態に対応した分類が可能だったのである。それは当たり前と言えば当たり前からもしれないが、これまではそれぞれの意識状態の内容物に目が向かっていて、そうした分類にまで思考が及んでいなかった。いずれにせよ、死と誕生は球体として円転して運動しているプロセスであり、そのプロセスが自分の内側の無数の階層領域で起きているという気づきが得られたことは大きなことであった。この気づきもまた当然ながらどこかのタイミングで死を迎え、新たな気づきを誕生させる。フローニンゲン:2023/12/24(日)14:30


11689. 第22回のシロシビン・セッションの振り返り(その4)


やはり興味深いのは、とかく非二元のような深い体験が得られなかったとしても大きな学びがシロシビン・セッションにはあるということである。そもそもセッションの目的は深い体験を得ることでは決してなく、それは副産物に過ぎず、重要なことは私たちがそこから何を学ぶかなのである。ひょっとしたら、摂取したシロシビン・マッシュルームの“Golden Teacher”という名前の由来はそうしたところにあるのかもしれない。悟り体験や涅槃体験を得ることを究極的な目的にしてシロシビン・マッシュルームを摂取することは今の自分にとっては本末転倒であり、重要なことはそうした体験が得られた場合にそこから何を汲み取るかなのだ。そうした意識を持っておかないと、一時的な現象としての悟り体験や涅槃体験を得たことによる誤解が生じてしまうだろう。それは通常意識に戻った時の自我の肥大化を促しかねないし、通常の現実世界とその体験とのギャップから適応障害を起こしてしまうかもしれない。それはある種のスピリチャルイマージェンシーである。そうしたことを避けるためにも、そもそもサイケデリクス体験についてのある程度のリテラシーが必要であり、体験を解きほぐすための地図が必要となる。自らの学術研究と直接体験から、そうしたリテラシーの提供と地図の作成に真摯に従事したいと願ってやまない。


その他にはどのような気づきが得られていただろうか。パッと思いつくのは、収縮と拡張の連続の中で私たちが生きていることである。別の角度から言えば、仮に収縮しかない場合や拡張しかない場合はどこかで破綻をきたすということである。収縮と拡張の無数の調和的均衡点が線あるいは円を作り、そうした線上ないしは円上を生きることが充実した生につながるという確証が得られた。それに加えて、目撃者の意識状態において、自らの思考が全て可視化され、その構築物が1つの箱を作っていて、目撃者の状態である自己はその箱の外に出て自由に飛翔していた洞察が得られた。ここでもそこには視覚的イメージは伴っておらず、無形のビジョンが生み出す洞察であった。今日のセッションで得られた洞察がことごとく色や形の伴わない無形の洞察だったことは大変興味深いことである。その観点で言えば、今日のセッションもまた結果的には深いものだったのかもしれない。


非二元の状態に入るときには、デフォルト・モード・ネットワークとセイリエンス・ネットワークの解体を通じて、脳が局所的に活動を緩めるのだが、同時にそれは脳の再活性化にも繋がっていて、実証研究が明らかにしているように、大きな神経可塑性を感じる。今日のセッションは非二元の状態には至らなかったが、きっと神経可塑性の増大はいつもと同じように生じていたであろうし、セッション後の今もまだそれが続いているだろう。このように2週間に1回のシロシビン・セッションは、脳の可塑性を高める良い機会になっていて、2週間に1度自分をリセットするような意味がある。日々学術研究や実践に明け暮れている自分としては、これくらいの頻度で1度ゆったりとした時間を作り、自己を再蘇生させるのがちょうどいいように思える。フローニンゲン:2023/12/24(日)14:49


11690. 第22回のシロシビン・セッションの振り返り(その5)


時刻は午後3時半を迎えた。今日の第22回のシロシビン・セッションを終えて、2時間が経とうとしている。今、強風が吹いていて、小雨も降っている。そして何より、辺りはもう薄暗い。2時間が経ってみると、今日はそれほど深い意識状態まで到達しなかったこともあってか、今はもうほぼ完全に通常の意識状態である。もちろんシロシビンの作用で脳の可塑性が促進され続けていることは確かであり、それは少なくともここから数日間は継続する効果だ。


少し早めの夕食の準備に取り掛かる前に、今日の体験についてあと何か付け加えておくべきことはないかと思い出している。1つ思い出したのは、セッション中にうねりのある声が聞こえてきたことである。それは自分の内側の何かのうねり声で、唸り声とはまた少し違った力と特性を持っていた。それは内側の声であり、自分にとって大切なインナーボイスのように思えた。特に何か内容物を伴うようなものではなかったが、セッション中に少なくとも2回ほど自分の内側の奥深くからうねるような声が聞こえてくる瞬間があった。それもまた聴覚変容によってもたらされる体験の一種だろう。


次回に向けてのロジスティクス関係の話で言えば、今日は午前10時からのセッションであるにもかかわらず、ついついコーヒーをフレンチプレスで2杯ほど飲んでしまい、それによってセッション中にトイレが近くなってしまった。幾分卑近な反省事項であるが、今後も午前10時からセッションをする場合には、いくらコーヒーが美味いからといって、コーヒーを飲み過ぎるのは避けるべきであり、フレンチプレス1杯までに留めておきたい。しかもそれはセッション開始の1時間半前ぐらいまでにはのみ終えておきたい。そうすれば、セッション中に何度もトイレに行きたくなることを防ぐことができ、セッションに集中できるだろう。その他にもセッションを進めるに際しての反省点があれば、また思い出した都度、書き留めておきたい。フローニンゲン:2023/12/24(日)15:45

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