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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12526-12531:2024年4月17日(水)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12526. 今日の探究活動予定

12527. 真理の要求/今朝方の夢

12528. 真理への旅路/縁起瞑想

12529. 日々の心身を根底から支えるヴィーガン食

12530. 真剣に生きるとは?真理を通じた命の輝きを求めて

12531. 真実に暗い現代人


12526. 今日の探究活動予定  

     

時刻は午前4時を迎えた。今朝もまた物音ひとつしない静寂さと闇に包まれた朝の世界に目覚めた。小鳥たちが鳴き始めるのも、朝日が出るのもあと2時間弱ほどある。そんな中、自分はひとりこの世界に目覚めて活動を始める。こうして辺りの家々の光も見えない中で活動を始めてみると、世界を独り占めしているような気さえするが、自分と同じように起床して活動している目には見えない他の生命たちがたくさんいることを思うと、自分は1人ではないのだということがわかる。しかし人間は最終的には諸縁に支えられ、見守られながらも1人で人生を終えていく必要があるのだということを考えさせられる。


今の気温は5度で、日中の最高気温は10度なので今日も随分と気温が低い。明日の朝の最低気温に関しては、3度まで下がるようだ。習慣天気予報を見る限りだとここから1週間はずっと今日のような気温であり、昨夜月間予報を見たら、暖かさを本当に感じられるのは6月目前の5月最後の週であることがわかった。ここからしばらくは依然として冬の寒さが残る中で生活をしていくことを楽しんでいこう。


さて今日もまた唯識学の研究に打ち込みたい。昨日の段階で、5月の中旬からゼミナールで扱う唯識学の講義に向けてPPTスライドの整理を大半終え、PDF化できる状態にまでなった。そこからふと、今回扱う世親菩薩の 『唯識三十頌』のそれぞれの頌を解説したPPTスライドにタイトルのみならず、その頌の全体像を示す小見出しを付けておくとさらに親切かと思ったので、今日は午後にその作業に取り掛かる。午後の「サイケデリック唯識ラジオ」の収録を終え、掃除を済ませてからそれに取り掛かろう。30の頌のうちの最後の5頌についてはすでに解説を作成中に小見出しをつけるアイデアが思い浮かんでいたので、すでにそれらについては小見出しは作成済みである。残り25頌に対しても同様に小見出しをつけていこう。それは講義を聞いてくれる人にとって役に立つだけではなく、自分の頭の整理にもなるし、何よりもその頌について解説する際にこちらも話しやすい。そうした自他共に意味のある事柄である。


ラジオの収録が始まるまでの朝の時間は、唯識に関する真理観を改めて探究することと、『成唯識論』の解説書を読むか、あるいは貞慶の残した書物の解説書を読むかを行いたいと思う。その時々の気分に応じて書物を選択する場合と、ある程度継続した形で1冊に取り組み続ける場合の2つのアプローチをこれからも採用していこう。毎日音読している良遍の『観心覚夢鈔』については大変よく継続できており、それが完全に習慣化したことを喜びたい。こうして少しずつではあるが、着実に自分の身となり、力となる探究活動が実現していることを静かに喜びたい。フローニンゲン:2024/4/17(水)04:30


12527. 真理の要求/今朝方の夢  


こうして日々唯識学の探究をしているわけだが、何冊専門書を読もうと、最終的には唯識学の探究を通じて自らの唯識思想を醸成していくことと、探究を通じて自らが根底から変革されていかなければなんの意味もないことを改めて思う。お勉強のためのお勉強はもういいのである。日本的教育の残滓が自分の阿頼耶識に依然として薫習されていることに驚くが、薫習された種子を徹底的に滅却する形で単なるお勉強を超えて、自らの唯識思想の確立と探究活動を通じた根底からの自己変革をこそ実現したい。おそらく両者は足並みを揃えて実現されるだろう。唯識学が私たちに対して変革を要求するものなのだから、その要求に応えていくのはとても自然なことのように思う。結局人はそうした要求に無自覚であるし、そうした要求に応えるのを躊躇うのである。端的には、真に自己として生きることを躊躇うのだ。それは自分の命を輝かせることを躊躇うのと同義である。そのような生き方は自分はしたくない。断固としてそうした生き方を拒絶し、自らは自己の命を最大限に輝かせる生き方をこそ最良最善のものとし、理想のものとする。それは理想的かつ現実主義的な生き方に他ならないのではないだろうか。現実の背後にある真理を見据え、それに正直になる時、必然的にそのような生き方になるのではないだろうか。そうした生き方は当初理想のように思えるかもしれないが、実際のところ良き生を実現するにはそのような生き方の道しか残されていないという現実性があるように思えて仕方ない。


そのようなことを考えながら、今朝方の夢について振り返っていると、中学校時代のバスケ部での活動に関する夢を見ていたことを思い出す。夢の中で私は、1学年上の先輩が大会に臨む応援をしていた。先輩たちは初戦で近くの強豪校と当たってしまい、その力の差は歴然としていたが、かなりの善戦をした。最終的には79-100で負けてしまったのだが、県内随一の学校を相手によく79点も入れれたものだと思った。先輩たちは最後まで試合を諦めることをせず、相手に食らいついていく形で本当によく戦っていた。その姿勢が応援していた私たちの心を動かし、自分たちもまた先輩に続く形で日々の練習に励もうと思った。すると、いつの間にか自分たちが最終学年となり、先輩たちが試合したのと全く同じコートで市内の大会に臨んでいる光景が目の前に広がっていた。自分はキャプテンとしてチームをまとめ、絶えず落ち着いた心で試合を巧みにコントロールし、試合を優位に運ぶことに貢献していた。そして何よりもその試合に対しては自分も思い入れが非常に強かったので、積極的にシュートを放っていき、次々にゴールを決めている自分がいた。気が付けば私たちはその試合に勝利し、改めて仲間と一緒に何かに全身全霊で打ち込むことの喜びを感じた。それは自我の溶解かつ、他者との融和を感じさせる体験だった。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/4/17(水)04:43


12528. 真理への旅路/縁起瞑想


真理を求め、真理に触れ、真理と同化していく旅路は始まったばかりである。生まれてからずっと、いや無始の時分から自分は真理を求める旅路を始めていたのかもしれない。同時に、その片時も真理と離れたことはなかったのだと思わされる。自分は今までも、そしてこれからもずっと真理と共にあるのである。共にある真理に気づいていくこと。要は気づいていくことだけなのだ。それを通じて自分はますます目覚めていく。この無限階層的な夢の世界から目覚めていくのである。


4月もこれから終盤に差し掛かろうとしているが、相変わらず暖房が自動で入り、家全体を温めてくれている。暖房の存在があるおかげで毎日こうして快適に過ごせているのであるから、それには深く感謝せねばなるまい。感謝とはしても仕切れないものなのである。自らが諸縁に依って立つ存在であることが分かれば分かるだけ、感謝の対象は広がっていく。諸縁の1つ1つに対して感謝をし、諸縁全体に感謝をしていくと、不思議とそれらは自分に力を授けてくれる。それは強大な力であり、同時にその根底には優しさがある。諸縁は巨大で力強く、同時に全てを包み込む包容力がある。諸縁に気づけば気づくだけ、自己から囚われが溶解していく。縁起瞑想の効能はそれである。自己という存在は決して固定不変ではなく、それは諸縁によって成り立っている関係性の産物である。それに毎日至る所で至る時に気づいていくと、自我への囚われは自然と和らいでいく。同時に自分という仮の存在もまた関係性の網の目の中で他者にとっての縁として働いているという自覚から、自己の役割への自覚が芽生える。縁起瞑想は単に諸縁に気づいて感謝の気持ちを持ち、そして自我からの囚われを緩めていく働きをするだけではなく、自己という仮の存在が名前も顔をも知らない他者にとって何かしらの役割を果たしていることへの自覚を促す。自我を溶解させて虚無主義に陥るのではなく、むしろ自我への不要な囚われから脱却し、心身共に軽やかな気持ちでこの世界に関与していく養分を与えてくれるのが縁起瞑想なのだと思う。それもまた1つの真理なのだろう。縁起は仏教における1つの真理であり、真理に目覚めることは私たちに力を与え、自我への固執に伴う苦しみを和らげていくれる。地道な取り組むではあるが、これを毎日の生活の中で絶えず行っていくことが多いなる解放に向けた大きな足掛かりになるはずである。フローニンゲン:2024/4/17(水)05:37


12529. 日々の心身を根底から支えるヴィーガン食


時刻はまもなく午前7時を迎える。気が付けばもう随分と外は明るくなってきている。こうして毎日自分のライフワークにエネルギッシュに没頭できているのは、自ら定めた戒律的な規則正しい生活のおかげのように思える。食事・運動・睡眠という3つがまさにそれを支えてくれているのだが、やはり食事の重要性については何度も強調したい。多くの人たちが運動や睡眠については科学的なファクトを比較的すんなりと受けいられるのに対して、食事に関してはもう五感にこびりついてしまったものや食ビジネスの謳い文句に毒され、飼い慣らされてきた過去の経験からか、食生活を変えるのは多くの人にとって難しい。端的に自分の今の快調さを支え、心身共にエネルギーが満ち溢れている状態を生み出しているのはヴィーガン食によると言えそうだ。以前、Netflixの“The Game Changers (2018)(『ゲームチェンジャー: スポーツ栄養学の真実』)”というスポーツ栄養学に関するドキュメンタリーを視聴し、古くはローマ時代の屈強なグラディエーターたちがベジタリアンであったことが骨の分析から明らかになったことを思い出した。さらにはこのドキュメンタリーを通して、現代において様々な分野のトップアスリートたちがベジタリアン食やヴィーガン食に移行する形で高いパフォーマンスを発揮していることが窺える。興味深いのは、アスリートにとってキャリア寿命を左右する怪我に悩まされた後に肉食からベジタリアン食やヴィーガン食に目覚めることである。そしてひとたびそれらの食実践に移行すると、怪我とは無縁の状態が続いたり、怪我をしたりしても速やかな回復が実現されるという恩恵をアスリートたちが享受してることは注目に値する。自分も週に2回筋力トレーニングに従事しているが、その回復は随分と昔の肉食時代よりも遥かに早い。そして何よりも体の軽さが心の軽やかさを生み、頭の働きの良さを生み出していることは注目に値する。


ヴィーガン食を実践している有名なサッカー選手と言えばメッシやアグエロだろうし、テニス選手であればジョコビッチだろう。格闘家の中にもヴィーガンは多く、彼らの筋肉量を見ていると、ヴィーガンであっても問題なく必要な筋肉を付けていくことができることがわかる。今の自分の食生活において、タンパク質は主に大豆製品から取り入れている。納豆、豆腐、豆乳が主要なタンパク質源であり、それ以外にも良質なタンパク質としてはヘンプやクロレラからもたらされている。野菜としてはブロッコリーなどからタンパク質を得ている。そうして考えてみると、昼と夜の1日の食生活の中で十分なタンパク質を摂取していることがわかるし、実際にヴィーガン食を数年ほど継続する中でタンパク質を含め、他の栄養素の不足で何か問題が起きたことは今のところ一度もない。これまでの欧米での12年間の生活を振り返ってみると、完全にヴィーガン食に移行するまでにはいくつかの段階があったことがわかる。アメリカに渡った2年目の終わり頃から赤肉は一切食べなくなり、そこからは鶏肉だけを食べるようになった。そしてアメリカでの4年間の生活を終え、日本に1年間ほど滞在している間に白肉としての鶏肉の摂取量も徐々に減っていった。そこからオランダに渡り、週に1度か2度だけ鶏肉を食べるような状態がしばらく続き、オランダでの2年目の生活からはもう鶏肉を食べることは一切なくなった。そこからは時折魚を食べるような生活が続き、気がつけばもう魚を摂取することもなくなって、完全なヴィーガンになって今に至る。完全なヴィーガンになって何年が経つのかわからないが、この心身の良好な状態を見るにつけ、今後もヴィーガン食を続けていきたいと思う次第だ。おそらく五感と紐づいた食実践をどのような内容にするかは、慣習的なマインドを持っているのか後慣習的なマインドを持っているのかを分ける分水嶺になっているように思える。フローニンゲン:2024/4/17(水)07:15


12530. 真剣に生きるとは?真理を通じた命の輝きを求めて


時刻は午後3時半を迎えようとしている。つい先ほど部屋の掃除を終え、綺麗になった部屋で心もさっぱりした形で今という時間を迎えている。今日は良い天気で、今この瞬間には晴れ渡る空が広がっている。そうした空もまた自分の心を晴れやかなものにしてくれるのに一役買っている。


部屋の掃除の前には、「サイケデリック唯識ラジオ」の第62回の収録を行なっていた。今回は末那識が主要なテーマだったが、今朝方に書いた日記が影響してか、食実践の話題から始まった。食実践というのも唯識学と密接に結びついている。食というのもまた私たちの意思による選択と関わっているがゆえに唯識学のテーマとなり得るのだ。唯識学では具体的に食実践に踏み込んだ話をすることはない。というのも、唯識で扱うのはあくまでも心であり、心に人生の苦悩の根本原因を見出すからである。しかしながら、生きる上において食というのは非常に大事な要素であり、現代の栄養学を含め、食事に関する正しい知識を得ることは心身を軽やかにし、苦痛や病を与えないためにとても重要なことであろう。唯識学は非常に重要な教えが詰まっているが、それが専門とする対象はあくまでも心なのであり、全てを心だけの問題に還元するのではなく、心と関連した様々な分野の正しい知識を得ていく努力は豊かな人生を送る上で不可欠だと改めて思う次第だ。


今日のラジオの後半では、「なぜ真剣に生きるのか?」「真剣に生きるとはどういう意味か?」という非常に重要な問いが場に投げかけられた。これらの問いに対する答えは本来言葉を超えたものだが、あえて言葉を当てて回答する際にキーワードになったのは「命」と「真理」であった。自分にとって真剣に生きるというのは、この一回限りの人生に与えられたたった一つの固有の命を輝かせることであり、真理に向かっていくことである。また命と真理との関係を考えてみると、私たちの命は私たちが真理に触れているときに輝く。あるいは、私たちが真理と不可分一体になっているときにこそ命は輝くと言えるかもしれない。結局自分は真理に触れることを通じて自らの命を最大限に輝かせたいのであり、命を輝かせている人を1人でも多く見たいのだと思う。それは前回の第30回のシロシビン・セッションでも得られた気づきである「宇宙は多様な命が固有の輝きを放つのを見たがっている」ということにつながる。人生は人生そのものとして如性を持っており、それは作為性を超えた本来無為のものだと思うが、あえて有為の言葉を当てるならば、そうした性質を持つ人生を真剣に生きるというのは真理に触れながら自らの命を輝かせ、他者の命を輝かせることに貢献していくことなのではないかと思う。そして、触れる真理が深ければ深いだけ、自らの命はより輝き、他者の命がより輝くことを思うとき、真理のさらなる深みを求めずにはいられない。そんな気持ちで今日のラジオの収録を終えた。フローニンゲン:2024/4/17(水)15:38


12531. 真実に暗い現代人


今日の「サイケデリック唯識ラジオ」の冒頭では近況報告として、ちょうど今朝方考えていた食実践についてシェアをした。ラジオを終え、改めて以前試聴したNetflixの“The Game Changers (2018)(『ゲームチェンジャー: スポーツ栄養学の真実』)を再度見返してみた。そこで思ったのは、真実の厳しさ、真理の過酷さである。こちらがどのようなことを体験し、こちらがどのようなことを思ったとしても、真理は私たちの言葉による脚色を超えて事実を突きつけてくる。こうしたことからも真理を無闇矢鱈に突きつけることは危険でもあるが、しかしながらその真理が健康や命に関することであれば、それは多くの人に広く共有するべきものかと思う。そのような規範意識を自分は持っている。


仏教における諸行無常や諸法無我という真理は苦悩の根幹原因であるが、それらの真理は抽象性が高く、実感も湧きにくい。それゆえ、本来はそれらの真理は苦悩の解放という観点からすれば万人に伝え、理解してもらうべきものではあると思うが、伝えるべき人やタイミング、さらには伝え方をより慎重に選ぶ必要があるだろう。しかしながら、食に関する真実はそれらの真理より具体性があり、尚且つ命に直接関わるものであるがゆえに、そのような悠長なことを言っていられない。かつてスポーツの世界で水を飲むことが悪だとされていたように、かつてファッショナブルな象徴としてタバコが吸われていたように、そして集中力と生産性が高まるということから今でいう覚醒剤がヒロポンとして普通に薬局で売られていたように、科学的な事実に基づく真実はこれまで常に隠蔽されてきた。そして厄介なのは、そうした隠蔽が悪意なしで行われることが往々にしてあるということであり、同時にテレビコマーシャルを通じたマーケティングによってそれらが良いものだと思ったり、お洒落なものだと刷り込まれてしまうと、それらの物や行為を通じて体験物語が作られ、かつての良き思い出として保存され、その物語から脱却するのが難しくなってしまう。かつて肉を大量に食べ、ベジタリアンに移行したアーノルド・シュワルツネッガーが指摘するように、テレビコマーシャルが生み出す幻想は身体への害悪という事実を巧妙に隠蔽する。そのようなことを考えてみると、多様な発達領域のうち食実践という領域を考えてみると、現代人の多くの人たちは神話性合理段階(アンバー段階)に留まっているのだということが見えてくる。この段階ではいくら科学的な事実を目の前に差し出されても、地球が平坦ではなく丸いという事実が提示されても、刷り込まれてしまった記憶と自らの体験物語によってそうした事実を受け入れることは愚か、思考の対象にさえできなくなり、思考停止状態に陥ってしまうのである。こうした在り方は合理性段階のそれとはかけ離れており、神話性合理段階の思考特性である。


それ以外にも、唯識学と絡めて見れば、肉を中心とした食実践をするというのはその動物を殺す経済システムに加担していることである点に目覚めていく必要がある。食に関して縁起瞑想をするなら、そうしたことに気づくはずである。これはコーヒーやチョコレートといった先進国における嗜好品を対象としても重要なことであり、それらの背後に労働搾取などの問題がないかに意識を向けていくことは倫理的な実践にもつながる。


最後に、ドキュメンタリーの中で興味深い指摘があったことも書き留めておく。何やら肉食動物は人間のようには色彩豊かに世界を見ておらず、ほぼ単色しか把握できないらしい。肉食動物は基本的に食事の対象は1回につき1つであり、複数の異なる動物を捕食しない。ゆえに1つの色だけ見えた方が狩りには都合がいいのだろう。仮に多様な色が見えてしまうとそちらに目移りしてしまうことが考えられる。一方、人間が多彩な色を知覚できるのは、多様な色を持つ野菜や果物を識別して食べるためという生物学的な意味があるはずだと仮説を立てる科学者がいて興味深く思った。もちろんそれは仮説の域を出ないが、かなり妥当性がありそうな仮説である。肉食動物の眼識と人間の眼識にそのような違いがあるという点には、生存上の重要な秘密が隠されていそうである。真実に暗いというのは、まさに釈迦が述べた私たちの苦しみの根源である「無明」に他ならない。フローニンゲン:2024/4/17(水)19:06

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