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【フローニンゲンからの便り】18491-18494:2026年4月11日(土)

  • 2 日前
  • 読了時間: 11分


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タイトル一覧

18491

より深い前進のための意図的な引き戻し

18492

今朝方の夢

18493

今朝方の夢の振り返り

18494

エディンバラでの映画生活

18491. より深い前進のための意図的な引き戻し  

                 

一昨日の練習を通して、ひとつの明確な手応えと同時に、ある種の限界の輪郭が見えてきた。ジュリオ・サグレラスの教則本、特にBook4から6に取り組んでみたものの、音を追う以前に、指がその要求に応じきれていない感覚が強く残った。とりわけBook5と6に至っては、単に難しいというよりも、自分の現在の発達段階と楽曲の要求水準との間に、質的な断絶が存在しているようにすら感じられたのである。一小節の中で一つの音を的確に鳴らすことすら難しいという状況は、単なる練習不足というよりも、基礎的な身体運用や音のイメージ、さらには音楽的なフレージングの内在化が、まだ十分に統合されていないことを示しているのかもしれない。音符は読める、運指も理解できる、しかし実際の音として立ち上がらない。この乖離は、頭と身体、あるいは意図と現実のあいだにある微細なズレを浮かび上がらせる。そのズレは無理に埋めようとすればするほど広がり、かえって全体の音楽性を損なってしまう危険すら孕んでいるように思われた。そこでふと、これまで積み上げてきたBook1から3の楽曲や、ブランダン・エイカー氏の講座で扱われている楽曲群のことが思い起こされた。それらは決して簡単というわけではないが、少なくとも自分の手の届く範囲にあり、試行錯誤を通じて確実に音楽として結実させることができる領域である。ここで重要なのは、単に弾けるかどうかではなく、どれだけ精度高く、どれだけ音楽的に、そしてどれだけ身体に深く染み込ませることができるかという点であるように感じられた。高度な楽曲に触れることは確かに刺激的であり、未来の自分の可能性を垣間見せてくれる。しかし、その刺激に引きずられて現在の基盤を軽視してしまえば、結果としてどこにも根付かない演奏になってしまうのではないかという懸念も浮かぶ。むしろ、今の段階では、既に触れてきた楽曲の完成度を徹底的に高めること、すなわち一音一音の響きを磨き、無駄な力を抜き、音と音のあいだにある沈黙すら音楽として扱えるようになることの方が、はるかに本質的な営みであるように思われた。この選択は、一見すると後退のようにも見えるかもしれない。しかし実際には、より深い前進のための意図的な引き戻しであるのだろう。ダイナミックスキル理論の観点から言えば、これは新たなスキル水準に進むために、既存のスキルを再構成し、より高い安定性と柔軟性を獲得するプロセスであるとも解釈できる。表面的な難易度ではなく、内在的な統合の度合いこそが、次の段階への跳躍を可能にするのである。昨日の朝、小鳥の声に耳を傾けながら感じた静けさと同じように、音楽においてもまた、急ぐのではなく、今ここにある音に丁寧に向き合うことが求められているのかもしれない。華やかな技巧の先にあるものではなく、すでに手の中にあるシンプルな音の中にこそ、音楽の本質は潜んでいるのではないか。そのような予感を抱きながら、今日のところはあえて難曲から距離を取り、足元の音をもう一度見つめ直すことにしたのである。フローニンゲン:2026/4/11(土)06:53


18492. 今朝方の夢

                                 

今朝方は夢の中で、バスケの世界大会に出場していた。チームメイトは中学校時代のバスケ部の友人たちであり、彼らと初戦を戦っていた。初戦の相手チームの中に大柄な黒人選手がいて、彼が自分をマークしてきた。試合の進行に合わせて、自分のユニホームを掴んでくるなど徐々にラフプレーが見られ、それが頂点に達した時、自分は怒りを露わにして彼に詰め寄った。思わず彼に蹴りを入れてしまい、審判が止めに入った。自分の怒りが高まれば高まるだけ、プレーの精度が落ちていることは目に見えて明らかで、それは相手の戦略だったのかもしれないと思い、冷静になることにした。冷静になればまた普段通りのプレーができるだろうと思ったのである。


この夢の後には、実際に通っていた中学校に似た体育館でフリースローの練習をしていた場面がある。最初はもっと遠い距離からのシュート練習をしていて、その時傍にいた外国人の女性のコーチが膝をもっとうまく使う方法を教えてくれた。まるで膝がバウンドするかのように膝を使うと、シュートがこれまで以上に楽に飛ぶようになった。すると突然、体育館に全ての先生と全校生徒が集まっており、自分のフリースローを見に来たようだった。全員の視線を浴びながらのフリースローは緊張を強いられたが、本番と似たような緊張感はむしろ心地良く感じられた。ところが自分の一投目は、自分でも見たことがないぐらいに左に大きくそれ、リングにすら当たらなかった。これはどうしたものだろうと思い、先ほどのコーチの助言を思い出し、膝をもっとバウンドさせてからフリースローを放つことにした。その瞬間に、体育館の屋根は消え、先生を含めて全校生徒も消えて、隣には同じくバスケ部にいたのある友人(YU)だけがいた。彼と青空の果てしなく高い場所にあるゴールに向かってシュートを打つことにした。今度の一投目は、なんと見事ゴールに吸い込まれるように決まった。自分はその瞬間、深い爽快感を得た。


最後にもう一つ覚えているのは、サッカーの国際大会に出場している場面である。自分たちのチームは順当に勝ち上がり、ベスト8まで進んだ。しかし、そこでアンゴラに1点差で惜敗してしまい、ベスト4進出にはならなかった。そこでも自分をマークする選手のプレッシャーがきつく、普段通りのプレーをすることが難しかった。チームとしても連携に難があり、個人としてもチームとしてもさらなる成長に向けた課題が見つかったことはポジティブなことであった。こうした課題発見は、世界大会などの大きな大会で全力を出して真剣に戦ってみないと得られないことでもあるので、本当に貴重な経験をしたと思った。お隣の韓国はベスト4まで進出したようだったので、ここからは韓国を応援することにした。フローニンゲン:2026/4/11(土)07:05


18493. 今朝方の夢の振り返り

                          

今朝方の夢全体は、自分が「原点の身体」と「世界へ向かう現在」とのあいだで再調整を行っている過程を象徴しているのかもしれない。舞台が世界大会であるにもかかわらず、チームメイトが中学時代の仲間である点は、自分がいま大きな舞台に向かいながらも、力の根は昔の経験、初期の情熱、身体に染みついた感覚の中にあることを示しているようである。世界とは拡張された可能性であり、中学時代とは原型である。自分はその両方を同時に生きようとしているのかもしれない。最初のバスケの場面で印象的なのは、大柄な相手選手そのものよりも、自分が怒りによって自分の精度を失っていくことである。ここで相手は単なる敵ではなく、自分の平常心を奪う圧力、挑発、不条理、あるいは異文化的な強さの象徴である可能性がある。ユニホームを掴まれるというイメージは、自分の役割やアイデンティティそのものが乱される感覚を表しているのかもしれない。そして自分が蹴りを入れてしまう場面は、外からの攻撃に対して、自分の内側にもまだ未処理の闘争心が眠っていることを示しているように思われる。ただし、この夢はそこで終わらない。怒れば怒るほどプレーの質が落ちると自分で見抜き、冷静さへ戻ろうとする。この転換こそ、自分の成熟を表す核心であろう。感情を否定するのではなく、感情に呑まれた時に何が失われるかを自覚しているのである。次の体育館の場面は、より内面的で、より教育的である。中学校に似た体育館は、自分の成長の土台、自分を形づくった場へ戻ることを意味しているのかもしれない。そこに現れる外国人女性コーチは興味深い。彼女は外から来る新しい知恵、理屈ではなく身体の使い方を変える助言、あるいは自分がこれから出会う異国の学びそのものを象徴しているようである。「膝をバウンドさせる」という助言は、力むよりも、反発としなやかさを用いよという無意識からの教えであろう。人生においても、押し切るより、沈み込みから自然に立ち上がる動きの方が遠くへ届くのかもしれない。全校生徒と教師に見られる緊張の中で、一投目が大きく左へ外れる場面は、評価される状況で起きる自我のズレを表しているようである。しかしその失敗の後、自分は助言を思い出し、身体のリズムに戻る。すると屋根も観衆も消え、隣にはYUだけが残る。これは、自分が他者の評価の劇場から抜け出し、本当に必要な関係と本来の身体感覚だけが残る状態へ移ったことを示しているのかもしれない。青空の果てしなく高いゴールは、現実を超えた理想、高い志、あるいは人生目標そのものであろう。そのありえない高さのゴールに一投目で決めるのは、外から見られる自分ではなく、深いところで整った自分であれば、むしろ大きな目標に届くという感覚の象徴かもしれない。爽快感は、成功そのものよりも、正しい自己調整ができたことへの魂の快感であるように思われる。最後のサッカーの場面は、この夢をさらに現実的なものにしている。ここでは勝利よりも、限界が露わになることに意味が置かれている。アンゴラに惜敗すること、自分への厳しいマーク、チーム連携の難しさは、個人能力だけでは越えられない段階に来ていることを示しているのかもしれない。世界大会で真剣に戦ってこそ課題が見える、という夢の中の理解は非常に重要である。自分は失敗を恥ではなく、成長の入口として受け取り始めているのであろう。そして韓国を応援するという結びは、美しい。自分の敗北の後に、なお競技そのものや近しい他者の前進を祝福できる心が芽生えていることを示しているのかもしれない。この夢の人生における意味は、自分のこれからの歩みが「怒りに勝つこと」「評価の視線から自由になること」「身体の深いリズムを信じること」「敗北を素材にしてさらに大きく成長すること」へ向かっている、ということであろう。自分は世界へ出ていくほど、原点にある感覚と真の友と静かな技術へ帰る必要があるのかもしれない。フローニンゲン:2026/4/11(土)08:02


18494. エディンバラでの映画生活

                            

エディンバラでの生活を思い描くとき、ふとした瞬間に浮かび上がるのは、海辺の静けさと、その傍らに佇む映画館の存在である。近所のビーチ沿いにあるその場所に足を運び、興味を引く作品が公開されるたびに鑑賞するという習慣は、単なる娯楽以上の意味を持つ営みになるのではないかと感じている。学者としての営みは、どうしても概念の世界に深く沈潜していく性質を帯びている。テクストを読み、理論を構築し、抽象的な議論を積み重ねていく過程において、思考は洗練されていく一方で、感覚的な豊かさや情動の揺らぎが後景へと退いていく危険も孕んでいるように思われる。その点において映画は、視覚と聴覚を通じて、思考以前の層に直接働きかけてくる媒体である。言葉による分析を経る前に、世界のあり方を感じさせる力を持っているのである。とりわけ興味深いのは、映画が一種の「他者の意識の内部」へと没入する体験を提供する点である。異なる文化、異なる時代、異なる価値観を持つ人物の視点を、疑似的にではあるが体験することができる。このプロセスは、単なる共感を超えて、自分の認識枠組みそのものを揺さぶる契機となりうる。仏教思想における「自己」の非固定性や、唯識における認識の構成性といったテーマとも響き合う部分があるのではないかと直感される。さらに、映画は「時間の芸術」である点でも示唆的である。物語の展開、間の取り方、沈黙の意味づけといった要素は、単なる情報伝達ではなく、時間そのものの質を変容させる。これは、瞑想における時間経験の変容や、意識の流れに対する微細な気づきともどこか通底しているように思われる。映画館という閉ざされた空間の中で、一定時間、外界から切り離されてスクリーンに没入する体験は、一種の儀式的構造すら帯びているのかもしれない。また、海辺の映画館というロケーション自体も象徴的である。広がる海は、常に変化し続けながらも同時に一つの全体として存在している。その姿は、意識の流れや現象の無常性を思い起こさせる。映画を観終えた後、そのまま浜辺を歩きながら余韻に浸る時間は、スクリーン上で体験した物語と、自分自身の内的経験とをゆるやかに接続する場となるだろう。このように考えると、映画鑑賞は単なる息抜きではなく、学問的探究を支えるもう一つの回路として機能しうるのではないかと思われる。概念と言語によって構築される世界に対して、感覚と情動によって開かれる世界が補完的に作用することで、理解はより立体的なものへと深まっていくのである。エディンバラでの生活において、海と映画館とが織りなすこの小さな習慣は、思考を緩め、同時に新たな問いを芽生えさせる場となるのかもしれない。研究とは異なるかたちで世界に触れ直すこの時間を、静かに、しかし確かに大切にしていきたいと感じている。フローニンゲン:2026/4/11(土)11:42


Today’s Letter

Unhurried learning and practice are key to deepening them. Hastiness distorts our learning curve, while slowness is king in learning. Groningen, 4/11/2026

 
 
 

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