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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12341-12345:2024年3月20日(水)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12341. 基礎固めと日々の歩み

12342. 今朝方の夢から感じる成長実感

12343. 今朝方の夢

12344. 今朝方の夢の続き

12345. 興福寺と藤原家のつながりから/自利即利他行の実践の場としての「サイケデリック唯識ラジオ」


12341. 基礎固めと日々の歩み 

     

時刻は午前5時を迎えた。今週末からまた寒さが戻ってくるようだが、ここ最近のフローニンゲンは最高気温が10度を超えていて、暖かさを感じられるような日々が続いていた。この時間帯の気温も7度とさほど低くなく、日中は13度まで気温が上昇するらしい。行ったり来たりの気温変化を繰り返しながら、季節は着実にしかるべき場所に向かって運動を続けている。自分もそうした姿を見習って、一進一退を繰り返したりしながらでも自らの取り組みという運動を継続させていこう。一進一退や右往左往は表面的な現象に過ぎず、本質には絶え間ない運動があるのだ。それをこそ大切にしていく。


先ほどふと、自分は一体どれだけ社会の役に立っているのだろうかという問いが芽生えた。こうした問いが芽生えたのも、唯識学における利他行の重要性を学んでいるからだろうか。社会の中で生きている存在として、自分が他者や社会のためにどのような形でどれだけ役に立っているのかは真剣に考えていきたい。依他起性の観点からすれば、自分という存在がいることによって初めて存在するものがあるはずで、それに注目する形でその縁起の輪を広げていくようなことをしていきたい。今後形として残していきたいのは、唯識学の研究成果を広く多くの人に共有することである。学術研究の観点で言えば論文や専門書を執筆する形で主に学者に向けて研究成果を共有し、一般書や講義などを通じて一般の人に唯識学の実践的叡智を共有していきたいと思う。その思いは日ごとに募るばかりだ。とにかく今は基礎体力を養う時期である。基礎を固めるための読書を怠らないようにする。堅牢な土台が構築されることによって、その上に初めて積み重ねられていくものがある。とにかく今は楽しみながらも辛抱強く基礎を固めていく時期としたい。


今日の唯識学研究もまた。“Inside Vasubandhu's Yogacara: A practitioner's guide”に掲載されている『唯識三十頌』の音読から始める。それだけを音読するのではなく、三十頌を3回ぐらい音読したら、“Seven works of Vasubandhu: The Buddhist psychological doctor (2nd. ed.)”に掲載されている『唯識二十論』の続きを音読していく。直感的に、『唯識二十論』を何度も繰り返し音読するよりも、“Vasubandhu's 'Three Natures': A practitioner's guide for liberation”に掲載されている『三性論』を音読した方が基礎固めにふさわしいように思えている。というのも、唯識学の基本として八識と三性を挙げることができ、それらをまず押さえることが必要であり、その観点で言えば、『唯識三十頌』と『三性論』は唯識学のエッセンスと基礎を固めるのにふさわしいテキストだと思うからである。『唯識二十論』は程々にして、『三性論』の読み込みをしていきたいと思う。音読が済んだら和書に移り、今日もまた未読の書籍の初読を始めていく。本日の唯識学探究もまた発見に次ぐ発見であろうから、また一歩の成長を実感できるに違いない。新しいことを学びながらその都度その観点を用いて自己観察をしていこう。そうすれば学習即実践、そしてそれが即成長につながっていく。フローニンゲン:2024/3/20(水)05:25


12342. 今朝方の夢から感じる成長実感


時刻はゆっくりと午前5時半を迎えようとしている。まだ小鳥たちは鳴き声を上げていないようだが、おそらくもう30分したら鳴き声を上げ始めるのではないかと思う。そのようなことを思いながら、今朝方の夢を振り返っていた。


最初の夢の場面では、自分が出版した書籍に対して小中高時代の友人(YU)と予備校時代の少し年上の韓国人の友人からある箇所に対してフィードバックを受けていた。その箇所はピアジェの発達理論を解説した文章で、どうやら彼らにとってはそこが読みにくかったようだった。解説が難解と言うよりも、そこで述べた内容とは真逆のことを後ほど述べていることが彼らを混乱させてしまったようだった。ページ数で言うと261ページと290ページの内容に齟齬があるという指摘を受けたのである。自分からしてみると、それは意図的なことだった。まず最初によくあるピアジェの理論に対する誤解をまるで正しいように書いておいて、それを後からひっくり返す形で正しい理解を得てもらうというのが自分の意図だったのである。しかし2人の言い分を聞いていると、確かに少しページの間隔が空きすぎていて、もっと早い段階で正しい理解を促す文章を持ってきても良かったなと思った。2人のフィードバックには感謝しながらも、最初小中高時代の友人から指摘を受けたとき、自分の中の感情に波立つものを感じた。彼の物言いがどうも気に食わなかったのである。しかし、夢の中の自分もまた唯識学を学んでいるのか、彼の物言いが自分を馬鹿にしているように感じられたのは、それは自らの識が生んだ投影現象に過ぎないと冷静に理解し、客観的に彼の意見に聞く耳を持てたのである。昔の自分であれば、彼の意見に対して聞く耳を持たないか、あるいは反発して何か言い返すか、挙げ句の果ては手を挙げていたかもしれない。そのようなことを内省している自分がその場にいて、自らの成長を実感した次第だった。そのような場面があった。


この夢が示唆するように、どうやら無意識である阿頼耶識に日々の唯識学探究の成果が薫習されているようである。毎日触れる唯識学に関する専門書の内容が、そして視聴している動画の内容が正聞薫習として着実に自分を変えつつあるのを実感する。かつてこれほどまでに成長実感をもたらしてくれるものが他にあっただろうか。確かに成人発達理論とインテグラル理論は自分の成長に不可欠な役割を担ってくれたが、成長実感の度合いで言えば唯識学に完全に軍配が上がる。いつまでも私たちは成長していくことができるが、それでもこの年齢を迎えて、まだまだ成長実感をもたらしてくれる唯識学にはやはり目を見張るものがある。成長のための学習と実践における財宝を見つけたという気持ちでいっぱいであるし、この財宝を広く多くの人に分け与えていかなければならないという使命感が溢れてくる。フローニンゲン:2024/3/20(水)05:41


12343. 今朝方の夢


時刻は午前6時半に近づいており、この時間帯になると辺りは薄明るくなり始める。早朝に予想していたように、午前6時を迎える頃から小鳥たちが清澄な鳴き声を上げ始めた。その澄み渡る声のように、自らの心も澄み渡る鏡としたい。まさにそれは、唯識学の教えで言えば「大円境智」の境地である。


今朝方の夢についてまだ振り返っていないものがあるので、それらについても振り返っておきたい。ここ最近は不思議なことに、過去に見た夢の情景が日中にふと思い出される頻度が増えている。おそらくはシロシビン・セッションの継続的な実施が一番影響しているのだと思われるが、まさに無意識と意識の連動性がより高まっているのを実感する。ここからは唯識学の修練を通じて、無意識としての阿頼耶識の浄化により一層力を入れていきたい。阿頼耶識が浄化されればされるだけ、夢の内容にも変化が見られるだろうし、無意識と顕在意識の連動性はさらに高まっていくだろう。その連動性が高まった結果として何が起こるのかは定かではないが、いずれにせよ浄化された無意識を通じて、よりあるがままに真如として生きれるようになってくるのではないかと思う。


夢の続きとしては、父の車を見慣れない大型スーパーの駐車場にパーキングしている場面があったのを覚えている。免許は持っているが、免許取得以降ずっとペーパードライバーの状態が続いていたこともあり、駐車する技術は随分と衰えているのではないかという懸念があったし、父の高級車に何かあったらまずいなという思いがあった。そもそもなぜ自分が父の車をパーキングしなければならなかったのかと振り返ってみると、元々は両親とそのスーパーに買い物に来ていて、買い物の途中にふと携帯か何かを車の中に置き忘れたことに気づいたからであった。携帯か何か重要なものを車に置きっぱなしにしていて、それを取りに行こうとしたのである。駐車場に到着すると、父の車はとても目立っていた。そもそも駐車場に止められている車の台数が少なかったこともあるが、何よりも父が色々と改良を加えたその車は良い意味で異彩を放っていた。ただでさえ高級車なところ、さらに色々とアレンジを加えることで唯一無二の車になっていて、随分と目を引いたのである。助手席を覗くと、そこに携帯が置かれていて、自分のカバンは足元に置かれていた。携帯とカバンの両方を持っていこうと思い、ドアを開けてそれらを取り出そうとしたところ、無人の車が突然動き出して焦った。どうやらその車は高度な自動運転機能が搭載しているらしく、それが作動したようだった。しかし、今作動しなくてもいいその機能に困った思いになった。速やかに運転席側に回り、ハンドルを握って再び駐車ペースに車を停めようと思った。しかし、自分の技術では周りのスペースの都合上、同じ場所に駐車するのは難しそうだと思ったので、より広い場所に駐車し直すことにした。いざパーキングモードを解除し、ゆっくりと車を動かそうと思ったら、車が急速に動き出し、さらに自分を焦らせることになった。焦っても仕方ないとすぐさま思い、心を落ち着かせて、広いスペースに出て駐車を始めた。ゆっくりとバックしようと思ったのだが、意外と速度が出ていて、後ろに人がいたら大変だぞ思った。するとそう思うときには大抵人がいるもので、子供を連れた家族が後ろにいて、彼らにぶつからないようにしなければならないとすぐさま思った。彼らを少し驚かせたものの、彼らにぶつかることなく無事に駐車することができた。一応我ながら合格点は与えられる結果となったが、途中のプロセスはあまり褒められたものではなかった。もっと穏やかに駐車ができたはずであるし、もっと無駄な動きを削れたはずだという反省があった。パーキングを終えて車から出ると、両親が買い物を終えて駐車場に戻ってくる姿が見えた。近寄ってきた父が私に、「あれっ、なんで車の位置が変わってるの?」と尋ねてきたが、私は笑いながら事情を簡単に説明した。そのような場面があった。フローニンゲン:2024/3/20(水)06:37


12344. 今朝方の夢の続き


とにかく穏やかな環境世界に身を置いて生活できることの幸せ。北欧に近いオランダ北部のこの街は、昨日歯科助手の女性が述べていたように、オランダ南部の大都市とは異なった落ち着きがある。人々の気質も気候特性ゆえに異なるようだ。唯識学では、私たちが身を置く自然環境を器世間(きせけん)と呼び、それもまた阿頼耶識が生み出したものだとする。唯識学は決して外部の対象を否定しているわけではないことには注意が必要であり、外部の環境世界を認める。しかし、私たちはどこまでいっても外部の環境世界をそれそのものとして体験することができず、できるのはあくまでも私たちが持つ8つの識を通してなのである。器世間というのもまた阿頼耶識の投影されたものに過ぎず、私たちは1人1人が固有の宇宙の中に生きているのだ。今この瞬間の自分がフローニンゲンという町に対して落ち着きと平穏さを見出しているのは、自分の識がそこに投影されているのである。いずれにせよ、自らの識が織りなすこの平穏な環境世界で日々を過ごせることほど至福なことはないと改めて感謝の念を持つ。オランダでの9年目の生活がこの8月から始まろうとしており、それを祝福するかのように小鳥たちが囀りを朝の世界に響き渡らせている。


先ほど今朝方の一連の夢について振り返っていたが、まだ細かい場面で振り返れていないものがあったのでそれについても書き留めておきたい。いついかなるときに夢の内容が役に立つか分からないので、覚えているものは全て書き留めるに限る。明恵上人もユングも夢を記録することを通じて内面探究をしていたことを忘れてはならない。


夢の断片的な場面として覚えているのは、小中学校時代の2人の親友(YU & HS)のために昼食を購入し、それを彼らに渡そうとしていた場面である。1人の親友の方はタコライスを私に注文し、もう1人の親友の方は幕の内弁当を私に注文した。後者の親友には速やかに弁当を渡すことができたが、前者の親友にはすぐに昼食を渡すことができなかった。むしろ、彼に昼食を渡すよりも重要な事柄に気づき、それを行うことに意識が奪われていたのである。しばらくして、彼に昼食を渡さなければならないことに気づいたが、もう昼食の時間はとっくに過ぎていた。おそらく彼はどこかで昼食をもう食べ終えているのではないかと思った。幸いにもそのタコライスは明日か明後日まで日持ちがするようなので、できるだけ彼に早く渡して、明日か明後日にでも食べてもらおうと思った。すると、先ほど幕の内弁当を私が親友が自分を車で迎えに来てくれ、これから一緒に出かけていく用事があることを思い出した。ところが、その目的地には父に送ってもらうことになってもらうことにしていたので、すぐに彼に連絡をしようと思った。スマホを開くと彼からメッセージが届いていた。一緒に出かけていく先は波止場で、そこで一緒に釣りをしようということになっていた。そこでは珍しい魚が釣れるということを彼に伝えていて、一緒に釣りはどうかと尋ねたところ、「釣る釣る!」という文言の後に顔文字が入った形でメッセージが届けられていた。そのメッセージを見たとき、彼は最近歳のせいか髪の毛が薄くなってきていて、「釣る釣る」という言葉が「ツルツル」という言葉に脳内で変換され、思わず笑ってしまった。そのような笑いが込み上げてきたが、早く彼に返信をしようと思った。さもなければ彼が自宅を出発して自分の家に迎えに来る手間を取らせてしまうと思ったのである。しかし、彼のメッセージに対して返信画面を開くことができず、新規メッセージとしてまた新たにメッセージを打ち込まなければならないことに気づき、なぜそのような現象が起こっているのかが気になり、その原因の究明をしようと思った。原因の究明と彼のメッセージへの返信を先にするのかを天秤にかけながら、原因究明に少し時間がかかりそうだと思ったので、まずは最初に彼のメッセージへの返信を優先させることにした。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/3/20(水)07:14


12345. 興福寺と藤原家のつながりから/

自利即利他行の実践の場としての「サイケデリック唯識ラジオ」


早朝より和書を基にして唯識学の研究を進めていると、驚くべき事実に出会した。興福寺は法相宗の総本山の寺院であるが、興福寺はなんと加藤家の根幹にあたる藤原家の氏寺であることを知ったのである。今年の秋に一時帰国する際には奈良に足を運んで、興福寺を是非とも訪れようと思っていた。とりわけそこに所蔵されている運慶作の無著・世親の木像を是非とも拝見したいと思っていたのだ。当然ながら法相宗に関係のある元興寺にも足を運ぼうと思っている。しかし、元興寺以上に興福寺に何か強く惹かれるものが前々からあった背景には、興福寺が自らの家系と関係していたことに初めて気付かされたのである。


さらに調べてみると、興福寺は710年の平城遷都に際して、大化改新を起こした藤原家の始祖である藤原鎌足(614-669)の次男の藤原不比等(ふじわらのふひと:659-720)が現在の地に藤原氏の氏寺として建てた寺であることを知った。これもきっと何かのご縁かと思うので、引き続き興福寺について調査を続けていき、秋の一時帰国で訪問することを楽しみにしたい。


時刻は午前10時を迎えた。ここからまた昼までの時間唯識学研究に集中して打ち込んでいく予定である。午後には「サイケデリック唯識ラジオ」と先週に名前を改めたラジオの収録がある。今日が第58回の放送となる。このラジオは先週から唯識に関する書籍を取り上げて、本格的に唯識学の世界に入り始めた。毎週のラジオの場は、その週に学んだことを確認し、定着させていく優れた場になるだろう。また、ラジオの中での対話を通じて、さらにはリスナーの方々からのコメントや質問を通じて、唯識学に対する新たな智慧と洞察を得る最良の場になるだろう。ここからもラジオを大切にしていき、それを自利即利他行の実践の場としたい。このラジオを1回1回大切に積み重ねていけば、きっとまた良縁が自ずから立ち現れるだろう。そのような予感を持ちながら、毎回のラジオを自己を含めた関係する全ての人の心の成長につながる薫習の場にしたい。フローニンゲン:2024/3/20(水)10:18

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