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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12206-12211:2024年2月26日(月)



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タイトル一覧

12206. 新栽培キットの最初の収穫を終えて/公案の拈提

12207. 分厚い知識基盤へ/今朝方の夢

12208. 唯識思想の研究とサイケデリクスの研究/ふとやって来た無我の認識

12209. 無記としての結果からの成長実践/慈悲的大欲に立脚して

12210. 聞法としての読書/心の成長を実現させる実践技法としての唯識思想/サンスクリット語と中国語

12211. シロシビン・セッション翌日のジムでのトレーニングを終えて


12206. 新栽培キットの最初の収穫を終えて/公案の拈提       


時刻は間も無く午前4時を迎える。今日からまた新たな週が始まり、それと共に気分も新たにしている。そしてまた新たに生まれ変わった自分がいる感覚がする。この再生の感覚をもたらしてくれているのは昨日のシロシビン・セッションの影響が多分にあるだろう。それは文字通り死と再生を促す儀式であり、実践である。


昨日に思っていた通り、今朝方に起床した際に新栽培キットを眺めると、収穫に十分なほどのマッシュルームが大量にあった。なので先ほど1本1本丁寧に地中から抜き取り、軽くキッチンペーパーで水分を拭き取って、オーブンに入れて乾燥にかけた。これから20時間ぐらいかけてじっくりと完全乾燥させていく。収穫にはまだ早い大きさのものも結構あったので、それらについては明日か明後日に収穫することになるだろう。2週間後の第28回のシロシビン・セッションにおいては新栽培キットから収穫された別の品種を試すことになる。その品種も前回の品種と同じくシロシビン含有量が多く、効力としては同じぐらいであるため、効力以外のところでの体験の内容や質の違いに注目したい。


自分にとってシロシビン・セッションは仏道実践でもある。それは学術的な観点における意識の探究のみならず、唯識思想と絡めて自分の心の成長を促す最良の機会を提供してくれる。心の治癒が必要な部分と鍛錬が必要な部分の双方に毎回これでもかというぐらいに新しいことを数多く気づかせてくれるのがシロシビン・セッションである。そうした気づきに対してとりわけ唯識思想の枠組みを適用し、少しずつ心を癒し、鍛えている。それは今後もじっくりと時間をかけて続けていく。そんなことを考えながらふと、禅仏教における「公案の拈提(ねんてい)」のように、セッション前に自己や世界に関する真理に関する問いを用意しておいて、シロシビン・セッション中の深い意識状態を通じてその解答を探していく実践を心がけていこうと思った。シロシビン・セッションでもたらされる深い意識状態は他の実践における意識変容とは比べ物にならないぐらいに深いので、そうした状態の恩恵を活かさない手はない。毎回のセッションの前に自分が探求したいと思う真理についてリストアップしておき、それをセッションの中で探求していくという在り方を定着させたい。確かにこれまでもそれに近いことを毎回行っていたが、事前に言葉の形にするなど探求項目をより明確にしておきたいと思う。フローニンゲン:2024/2/26(月)04:08


12207. 分厚い知識基盤へ/今朝方の夢   


さて、今日からまた地に足を着けて自らの取り組みに従事していこうと思う。とりわけ唯識思想の研究を旺盛に進めていく。手元にある唯識思想に関する和書の再読も順調に進んでおり、再読するべき書籍も残り2冊となった。全ての書籍の再読が終わったら、3回目の読解に入る。こうして時間を置かずに繰り返し過去読んだ書物に触れることによって、徐々に確実に知識基盤を分厚くしていく。そしてここからは、特に午後には言語脳を変えて気分転換を図るためにも、唯識思想に関する英語の専門書も読み進めていく。こちらに関しては以前受け取ったままで未読のものが結構あるので、まずはそれらに関する初読を終えておきたい。初読が済めば、それが唯識思想に関するものである限りは、再読、3回目、4回目・・・と繰り返し読み返していく。どんな分野であろうと、自分はこの読書スタイルで知識基盤を確立してきた。サイケデリクスに関しても全く同様のアプローチを採用していた。

昨日のシロシビン・セッションの影響か、今朝方はさほど印象に残る夢を見ていなかった。とはいえ覚えているものがあるので、それについて振り返っておこう。


夢の中で私は見慣れない温泉宿に宿泊していた。そこは老舗の旅館で、歴史はあるが外装は新しく、それでいてとても広かった。どうやらそこには修学旅行の一環として宿泊しているようだった。朝食前に温泉でも入りたいなと思ったので大浴場に向かった。すると、その途中でアメリカの名門大学のビジネススクールの講義が行われていることに気づいた。大浴場に向かう途中にガラス張りの会議室があって、そこで講義が行われていたのである。私はその会議室の前の廊下で少し立ち止まり、中でどのような講義が行われているのかを聞き耳を立てて聞いた。どうやら欧米のある会社をケーススタディとして取り上げて、それについてみんなでディスカッションしているようだった。今からある学生がそのケースに対してまとめてきた事柄を発表するようだったが、自分の目的は温泉に入ることだったので発表を聞かずして温泉に向かった。大浴場に到着してみると、そこにはたくさんの人がいて驚いた。そこにいたのは修学旅行で一緒にやってきた男子学生ばかりであり、彼らが朝から元気一杯に盛り上がって話しながら風呂に入っていたのである。更衣室も人で一杯で、これは落ち着いて風呂に入れなさそうだなと思ったので、自室に引き返し、自室にある風呂に入ることにした。


すると、気がつけば私は旅館の外にいて、そこで友人たちと懐かしい遊びとして警泥(ケイドロ)をしていた。私は泥棒役になり、警察役の友人たちから逃げることを楽しんでいた。今朝方はそのような夢を見ていた。その他にも何か夢を見ていたような気がするが、総じて今日の夢の世界は穏やかだった。昨日のシロシビン・セッションを受けて、阿頼耶識の中に収められていたいくつかの種子が現行し、除去されたことと何か関係があるだろう。また、シロシビン・セッションの深い体験を続ければ続けるだけ、阿頼耶識の中の種子が浄化されていき、顕在意識と潜在意識の連結融合が深まり始めていることにも気づく。フローニンゲン:2024/2/26(月)04:24


12208. 唯識思想の研究とサイケデリクスの研究/ふとやって来た無我の認識


唯識思想の研究とサイケデリクスの研究。さらには相互の実践が調和的に絡み合って、ゆっくりと自分の中に知的基盤と実践基盤が構築されているのを感じる。サイケデリクスについては確かに様々な物質について網羅的に研究しているが、自分が一番焦点を当てているのはシロシビンである。物質としてシロシビンに注目し、その物質が含まれるシロシビン・マッシュルームの研究は今後もゆっくりと着実に進めていく。菌学者のポール・スタメッツ教授の一連の書籍と仕事は自分に大きなインスピレーションを与えている。また、スタメッツ教授はキノコの世界の素晴らしさを自分に教えてくれた。彼からの影響は多大なものがある。シロシビン・マッシュルームは他のサイケデリクス以上に自分と相性が良い。体験の深さもそうであるし、体験後の心身の状態を眺めてみても、それ以上に自分の成長を支援してくれる物質は今のところ他にない。もちろんDMTへの関心は引き続きあるが、それはオランダであっても合法的に摂取することは難しいので、DMTの研究は規制上その活用が認められている場所に移住してからにしたいと思う。


認識主体と認識対象の合一とそれらの千変万化を通じた無我の認識。自己の存在は仮であり、それは仮我なのだ。認識主体の存在は、認識対象があって始めて担保される。この現象世界においては、具体的な事物としての認識対象と具体的な形を持たない概念的な認識対象を含め、無限に認識対象が存在しており、 それらは絶え間なく生成消滅を繰り返している。私たちという認識主体は、そうした一刹那の中で明滅を繰り返す認識対象を捉える形で自己を保存している。否、自己の内部を観察してみると、肉体の中でも心の中でも多様な存在が生成消滅を繰り返していて、主体の構成要素も認識対象も全てが何一つとして固定化された実体を持たないことに気づく。その明確な気づきに基づいて、バラモン教に端を発するアートマンではなく、仏教が説く無我の思想を自分は支持したい。私たちには永遠不滅の固定化された個我などなく、縁起によって絶えず生成消滅を繰り返すダイナミックな仮我があるだけなのだ。仏教では、そうした仮我の存在は否定しない。それを否定してしまうことは「悪取空」であり、虚無主義に陥ることを招く。仮我を認めた上で、仮我の心の中にある煩悩や執着を利他行を通じて浄化していくこと。それに重きを置いた仏教の教えには本当に共感するし、自分が長らく求めていたのはそれだったのだと明確に気づかされる。フローニンゲン:2024/2/26(月)06:38


12209. 無記としての結果からの成長実践/慈悲的大欲に立脚して 


唯識思想研究が日々ゆっくりとした呼吸をしているかのように着実に進んでいるのに並行して、ハーバード神学大学院(HDS)の合格発表の日も近づいている。ふと思い出したが、今このシーズンは日本における大学受験の時期である。特に国立大学の二次試験が行われている時期かと思う。自分もかつて経験した大学受験を懐かしく思い出す。大学受験の制度については色々と言いたいことがあるが、今はとりあえずあの懐かしい思い出を回想し、その記憶世界の中での出来事から自分の今の心の有り様を見つめている。思い出の中に成長の機会がある。それが良き思い出であっても悪い思い出であっても、そこには心の治癒と鍛錬をもたらす種が無尽蔵にある。


HDSの合格発表はおそらく2週間後の今日になるだろうか。2週間後の月曜日であれば偶然にも、第28回のシロシビン・セッションの翌日ということになる。次回のセッションは、「英雄の服用量」を摂取する予定なので、相当に深い体験になりそうで、そうした体験の翌日に合格発表を受けることになるかもしれない。仏道の道に入ってから、出来事に対する捉え方がまた良い方向に変わっている。自分の心を育む形での捉え方がさらに行えるようになって来ているのだ。例えば、何かの結果を受けたとき、それそのものには善悪はなく、仏教で言うところの「無記」であるという智慧から、結果に対して右往左往することなく、その結果を受け止める形で次の一歩を踏み出すことが容易になり始めている。仏教においては因果関係を大切にする。結果には必ず原因があり、結果そのものは無記であるが、その結果をもたらした意図や行いが善であったかどうかを検証することを怠りたくはないし、原因としての縁に感謝することも忘れたくはない。これまでは偶然という概念を自分の人生に持ち込み、偶然を神秘化する傾向があったが、仏教を学べば学ぶだけ、偶然の存在を認めることなく全てを必然として、結果を生じた意図と行動の検証を行っている自分がいる。


HDSに晴れて進学する機会に恵まれたら、やりたいことが本当にたくさんある。2年間の修士課程ではそれら全てをやり切れないぐらいである。最優先するべきは唯識思想研究であり、それに付随する形でサイケデリクスの研究がある。前者に関しては博士課程の進学を念頭において、積極的に査読付き論文を執筆していき、仏教関係の学会で発表をしたい。アメリカ全土を飛び回るか、アメリカを離れて世界を飛び回る形で学会発表も積極的に行いたい。今の自分は唯識思想について研究することと、その成果を論文にまとめること、そしてそれを口頭で発表することに飢えている。それは自分の煩悩や執着から生まれたものだろうか。否、それは自他の救済と解放を目的にした慈悲的大欲から生まれたものである。この大欲が自分の活動の根幹にあり、それが無尽蔵の活動エネルギーを生み出している。フローニンゲン:2024/2/26(月)06:54


12210. 聞法としての読書/心の成長を実現させる実践技法としての唯識思想/

サンスクリット語と中国語


時刻は間も無く午後2時を迎える。仮眠後の読書もひと段落したので、今から準備をしてジムに行って体を鍛えてこようと思う。身体のエネルギーの通りを良くし、エネルギーに満ち溢れる器を作りに行く。


ジムから戻って来て夕食の準備までにまだ時間があるようであれば、唯識思想に関する洋書の書籍の初読の続きに取り掛かる。先ほど和書の再読が終わったので、ここから和書を1週間ぐらい寝かせ、その間に洋書の書籍の初読を旺盛に進めていこうと思う。唯識思想を含めた仏教思想に関する音声や動画を視聴することは重要な聞法であり、唯識思想に関する書物を読むこともまた聞法である。そうした聞法の道な継続が、徐々に阿頼耶識に薫習されていき、阿頼耶識の浄化に繋がり心の成長を導いていく。


唯識思想は単に学問的研究における重大な価値を有しているだけではなく、むしろそれが人々の心の成長と救済をもたらすという実践的な価値を大いに有していることに注目しなければならない。そのようなことを思いながら、私たちがよく苦しみを感じがちな人間関係の問題において唯識思想の実践的な叡智を共有していくことをいつか本格的に行いたい。それは具体的には、親子関係の問題や組織の中の人間関係の問題の解決とそれを通じた心の成長を実現させる実践技法としての唯識思想を紹介する講座のようなものになるかもしれない。そのようなビジョンが芽生えていた。


ここから唯識思想を本格的に研究していくにあたっては、幸いにも日本語においてもかなり分厚い研究がなされているので日本語も活用しながら、同時に唯識思想の原典で用いられているサンスクリット語をしっかり学びたい。そして、玄奘の翻訳を原語の中国語で読みたいことから中国語の学習にも力を入れる。サンスクリット語の原典はチベット語にも積極的に翻訳されているが、日本の唯識思想は中国から入って来たことを考えると、日本の法相唯識教学を本格的に研究するためにはチベット語よりも中国語を優先させて学びたいと思う。仮にいつか上座仏教の教えについても本格的に学びたいと思ったらパーリ語を学ぶ。まずはサンスクリット語と中国語の習得に向けた学習も近いうちに本格的に始める。それらの言語を学ぶ際にも唯識思想に関する文献であれば学習がしやすいだろう。その学習を手助けするためにも、まずは理解しやすい日本語と英語の唯識関連文献を片っ端から読み進めて分厚い知識を獲得しておきたい。フローニンゲン:2024/2/26(月)13:59


12211. シロシビン・セッション翌日のジムでのトレーニングを終えて


時刻は午後5時を迎えようとしている。先ほどジムから帰って来て、シャワーを浴びて今に至る。今日のジムでのトレーニングは、昨日のシロシビン・セッションを受けてあまり無理をしないようにした。とは言いつつも、普段とさほど負荷量は変わらず、気持ち追い込みすぎないようにした感じである。また、筋力トレーニング後の有酸素運動ではペースを3段階に変えることに留め、比較的ゆったり目のペースで呼吸を乱さず、走るリズムを感じながら精神統一することを心掛けた。これを5段階のペースで行うと、4段階目と5段階目では心拍数がかなり上がり、走ることに意識が向きがちで、今日からは3段階のペースの切り替えを通じて、精神統一することに主眼を置くことにした。まさに走る瞑想である。5段階のペースで走る時よりも無理がないので、結果として時間と距離が多くなったことも発見であった。月曜日の自主トレーニングは、木曜日のパーソナルトレーニングでカバーできなかった部位やもう少し集中して鍛えたい部位に刺激を入れることを目的にしている。また、木曜日のトレーニングを見越して無理しすぎないことも意識している。今日は幾分寒かったが、有酸素運動が終わる頃には気持ち良く汗をかいた。


ジムからの帰り道、おそらく再来週の今日にハーバード神学大学院からの結果が知らされるのではないかと思い、今はどちらの結果が出るかわからないというシュレディンガーの猫状態だなと思って思わず笑みがこぼれた。実際のところは、今回の出願に際して自分が過去に積み重ねて来た全ての行いによってもう結果は決まっているのかもしれない。しかし、まだそれが自分のもとに通知されていないという点において確率は1/2のように知覚される。これまでの行いが善いものであり、合格後の取り組みに対する意図が善いものであれば、その確率は高まってくれるのかもしれない。いずれにせよ、どのような結果であっても結果は無記であり、いずれの結果であっても自分の人生はここからますます発展していくだろう。そのようなことを考えながらノーダープラントソン公園を歩いていた。この公園を歩くのももう数は限られているのかもしれないと思うと一歩一歩がとても愛おしかった。フローニンゲン:2024/2/26(月)17:05

 


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