【エディンバラ大学からの便り】19377-19381:2026年10月13日(火)

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タイトル一覧
19377 | 小雨降りしきる朝に |
19378 | 今朝方の夢 |
19379 | 今朝方の夢の振り返り |
19380 | 『清浄道論』と唯識思想 |
19381 | 仏教の縁起思想は環境倫理の根拠となるのか |
19377. 小雨降りしきる朝に
時刻は午前5時半を迎えた。今朝方は小雨が降り注いでおり、換気のために窓を開けると、雨音が静かに聞こえてくる。ただ幸いにも、日の出の時間である午前7時半ごろにはもう雨が止んでいるようなので、大学に向けて出発する午前8時過ぎには雨を心配する必要はなさそうだ。とは言え、念の為、今日は折り畳み傘を持っていこう。日の出時間も随分と遅くなり、2週間後のサマータイムの終了も納得がいく。今日の予定として、午前9時から行われる仏教研究に関する研究手法のクラスに参加する。今日は、バングラデッシュ人のウパリ・スラマン博士が講義を担当してくれる予定で、彼の上座部仏教の研究の観点から学ぶことは多いだろう。事前課題にはすでに目を通しており、予習として今日のクラスで取り上げたい問いをいくつか用意している。クラスの流れを見ながら、それらの問いを場に出していけたらと思う。午前11時にクラスが終わると、プリントアウトするべきものをちゃんと大学のコピー機でプリントアウトすることを忘れないようにしたい。昨夜、それらを自宅のパソコンから大学のコピー機に転送しており、入学直後にロースクールの図書館で行ったのと同じ手順で、学内にあるコピー機からそれらを印刷しておく。それにしても、15年前にジョン・エフ・ケネディ大学に留学したとき、そして10年前にフローニンゲン大学に留学した際には、毎回文献を印刷して読んでいたので、自分の研究の進め方も随分とデジタル化されたものだと思った。この功罪について考えさせられるが、今は物を増やしたくないので、印刷された論文が増えることを避けるためにも、デジタル空間上で論文を読むことを優先させている。本当に繰り返し読みたい論文や書籍の場合に限り、物理的な紙の形で所有するようにしている。しばらくこの在り方が続くだろう。大学から帰ってきたら、仏教倫理に関する第一回のショートエッセイのドラフトを最終レビューし、それを最終版としてポール・フラー博士に提出したい。時間があるようであれば、昨日に第二回のショートエッセイのドラフトを完成させたように、第三回のショートエッセイのドラフトも完成させておきたい。エディンバラ:2026/10/13(火)05:48
19378. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、東京都内を走るタクシーの中にいた。タクシーの中年の運転手の男性はとても気さくで、社内では会話を楽しんでいた。目的地は都市部の駅で、自分はそこから空港近くのホテルに移動することになっていたようだった。目的地の駅に到着し、お金を払ってタクシーを降りようとしたときに、運転手の男性がふと、「プロ野球で応援しているチームはどこでしたっけ?あぁ、そうかヤクルトでしたね。それであれば優勝の可能性はあまり高くないかもしれませんが、仮にヤクルトが優勝した暁には盛大にお祝いをしましょう」と笑顔で述べた。私も笑顔で、「ぜひお祝いしましょう」と一言述べてタクシーを降りた。駅構内に入り、チケット売り場に向かった。そこでチケットを購入するだけではなく、重要な契約書の最初の2ページだけをプリントアウトすることにした。というのも、先方から最初の2ページだけでいいので、その箇所をくまなく読んでおいてほしいと依頼されたからである。チケット売り場で働いている女性が親切に声をかけてくれたが、全ての画面操作は自分1人でできると思ったので、その方には大丈夫だと伝え、1人で操作を始めた。エディンバラ:2026/10/13(火)06:09
19379. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分が人生の新たな目的地へ向かう過程で、他者との温かな関係、自分自身の判断力、そして未来に対する責任をどのように統合していくのかを象徴しているのではないだろうか。興味深いのは、夢全体が目的地への到着ではなく、異なる交通手段を乗り継ぐ途中の出来事によって構成されている点である。これは、自分が現在、完成された何者かになることよりも、変化し続ける存在としての自分を引き受けようとしていることを示唆しているように思われる。東京都内を走るタクシーは、これまで自分を運んできた経験や人間関係の象徴なのかもしれない。タクシーでは運転手が進路を決め、自分はその移動を委ねている。しかし、その関係は一方的な依存ではなく、会話を通じて心地よい交流が成立している。気さくな中年男性は、自分の人生において方向を示してくれた先達や、成熟した自分自身の一側面を体現しているとも考えられる。とりわけ印象的なのは、運転手がヤクルトの優勝という実現可能性の低い未来について語る場面である。ここには、結果の保証がなくても希望を共有できるという、人間関係の豊かさが表れているのではないだろうか。優勝とは、長年の努力が結実する瞬間の比喩であり、可能性が低いことは、その価値を減じるものではない。むしろ、実現するか分からない未来を笑顔で祝福しようとする姿勢は、成果を所有すること以上に、希望を他者と分かち合うことの意味を自分に教えているようである。タクシーを降りて駅構内へ入る場面では、夢の性質が親密な交流から制度的な手続きへと変化する。駅は複数の進路が交差する場所であり、空港近くのホテルは、さらに遠くへ飛び立つ前の一時的な滞在場所である。つまり、自分は最終目的地へ直接向かっているのではなく、次の飛躍に備える中間地点を目指しているのだろう。人生の転換期とは、まさに滑走路へ向かうまでの長い地上移動に似ているのかもしれない。そこで登場する重要な契約書は、自分が未来に対して結ぼうとしている約束を象徴しているように思われる。特に、最初の2ページだけを徹底的に読むよう求められる点が重要である。これは、壮大な将来像を一度に理解する必要はなく、まず足元にある基本的な条件を精密に読み解くことが求められている、という内面的な認識を映し出しているのではないだろうか。未来という巨大な書物を読み進めるには、冒頭の数ページに込められた意味を理解することが不可欠なのである。最後に、親切な女性の申し出を断り、自分一人で画面を操作する場面は、他者への信頼から自律的な判断への移行を示しているようである。ただし、これは他者の助けを拒絶する孤立ではない。運転手との交流が示すように、自分は他者とのつながりを大切にしながらも、自分が担うべき操作は自分の手で行おうとしているのであろう。夢全体を貫くのは、他者に運ばれる人生から、自分で進路を選び取る人生への静かな転換である。しかし、その転換は過去との断絶ではない。希望を共有する温かさを携え、契約書の細部を読み、まだ見ぬ空へ向かう。今回の夢は、自分にとって真の成熟とは、遠くへ飛ぶ能力だけでなく、飛び立つ前の一歩を丁寧に踏みしめる能力でもあることを暗示しているのかもしれない。エディンバラ:2026/10/13(火)07:20
19380. 『清浄道論』と唯識思想
今、エディンバラ大学神学部の図書館でこの日記を執筆している。先ほど、ウパリ・スラマン博士の授業で学んだ『清浄道論』(Visuddhimagga)について振り返りながら、これまで研究してきた唯識思想との興味深い共通点を感じた。『清浄道論』は、五世紀頃のブッダゴーサがスリランカの上座部仏教の伝統に基づいて編纂した修行論である。戒(sīla)、定(samādhi)、慧(paññā)を軸として、煩悩からの解放に至る道筋を体系的に説明する。特に七清浄という段階的な構成が特徴的であり、悟りを突然の神秘的体験としてではなく、行為、注意、理解を徐々に変容させていく過程として捉えている。この点は、唯識が単なる意識の形而上学ではなく、心の変容を目指す実践的な思想であることを思い起こさせた。『清浄道論』では、禅定によって心を安定させ、観(vipassanā)によって五蘊や縁起を観察し、無常・苦・無我への洞察を深める。他方、唯識の三性説では、主観と客観を実体的に捉える遍計所執性、因縁によって成立する依他起性、そして依他起性に遍計所執性が存在しないという円成実性を区別する。両者の哲学的枠組みは異なるものの、経験を正しく理解することを妨げる錯覚を、修行によって克服しようとする点で響き合っている。さらに興味深いのは、無我と心の連続性をめぐる問題である。上座部の註釈的心理学には、有分心(bhavaṅga)という概念があり、認識活動の合間や生涯にわたる心の連続性を説明する。一方、唯識の阿頼耶識(ālayavijñāna)は、業の種子が保持され、薫習され、後の経験を生み出す仕組みを担う。どちらも永遠不変の自己を想定せずに心の連続性を説明しようとするが、同じ概念ではない。特に種子と薫習の理論は、唯識独自の展開として区別する必要がある。異なる仏教伝統が共通の哲学的問題に対して、それぞれ独自の解答を発展させたことが興味深い。また、両者を比較する際、上座部は個人の解脱、大乗は他者への慈悲という単純な対比にも注意が必要だと思った。『清浄道論』にも慈・悲・喜・捨の四無量心が詳しく論じられている。ただし、唯識の菩薩道では、智慧の成熟と他者を利益する誓願との関係が、より中心的な課題となる。この違いを踏まえることで、良遍が唯識を大悲法門として理解した思想的意義も、より精密に検討できるのではないだろうか。今回の授業を通じて、二つの伝統を安易に同一視するのではなく、人間はいかにして認識の錯覚を克服し、心の習慣を変容させ、倫理的に生きられるのかという共通の問いから比較する可能性が見えてきた。特に、上座部の七清浄と唯識の転依(āśrayaparāvṛtti)を比較することは、今後の研究課題として魅力的である。前者は修行による段階的な浄化を詳細に説明し、後者は認識を支える基盤そのものの転換を問題にする。両者は歴史的にも教理的にも異なる伝統に属するが、解脱を心の変容として理解するための重要な視座を与えてくれる。『清浄道論』は唯識に至る一本道の前段階ではない。むしろ、同じ人間精神という山を異なる方角から測量した、もう一枚の精緻な地図なのだと思う。エディンバラ大学神学部の図書館:2026/10/13(火)11:12
19381. 仏教の縁起思想は環境倫理の根拠となるのか
今日もまた仏教倫理のショートエッセイに取り組んでいる。この最終稿を提出するのは11/20と随分と先だが、まずドラフトを作っておきたいと思う。今回の中心的な問いは、仏教が説く縁起や相互依存から、自然への配慮や環境保護の義務を直接導くことができるのか、というものである。これは一見すると当然のように思えるが、詳しく検討すると、存在についての哲学的説明と倫理的な義務の間には、重要な論理的隔たりがあることに気づいた。特に興味深かったのは、Ivesが福島の原子炉を例に挙げている点である。人間や自然が相互に影響を及ぼし合っているとしても、その関係が必ずしも互いを支え、育むものであるとは限らない。原子炉からの放射性物質も周囲の環境や人間に影響を与えるが、だからといって、その関係を望ましい相互扶助と呼ぶことはできない。つまり、相互依存という事実から、相互扶助という価値を直接導くことには問題があるのである。この問題をさらに深めるために、中観思想の空性(śūnyatā)と縁起(pratītyasamutpāda)の関係を検討したい。ナーガールジュナの『中論』第24章18偈では、縁起するものが空であると説かれる。ここで重要なのは、空性が存在そのものの否定ではなく、他に依存せず成立する自性(svabhāva)の否定だということである。しかし、あらゆる存在が無自性であることを認めても、それだけで誰が環境問題に責任を負い、どのような行動を取るべきかが決まるわけではない。そこで、環境責任を考えるうえでは、二つの異なる問いを区別する必要があると思った。一つは、誰が環境破壊を引き起こしたのかという過去の行為に関する責任であり、もう一つは、誰が現在の被害を軽減するべきかという将来に向けた義務である。例えば、環境破壊に直接関与していなくても、十分な資源や技術を持つ者には被害を減らす責任が生じる可能性がある。ただし、その義務を正当化するには、因果関係だけでなく、苦痛の軽減や公平性などの倫理的理由が必要になる。また、自性と内在的価値(intrinsic value)の区別も重要である。中観が否定するのは独立自存する本質であって、自然に倫理的価値を認める可能性そのものではない。この点を混同すると、空性を根拠に自然の価値を肯定する議論も、逆に否定する議論も、哲学的に不十分なものになりかねない。今回の課題では、Ivesの議論を中心に精読しながら、Garfield、James、Westerhoffらの研究を補助的に参照したい。特にJamesが検討する空性と環境的全体論の関係は、縁起から倫理を導く際の論理的飛躍を明らかにするうえで有益だと思う。最終的に主張したいのは、縁起や空性だけでは具体的な環境保護の義務を十分に導出できないものの、それらは倫理的責任を考えるための重要な哲学的基盤になりうる、ということである。空性は、独立した存在という錯覚を解体する。しかし、その洞察を具体的な行動へと結びつけるには、慈悲、非加害、実践的判断といった倫理的資源が必要なのである。仏教の環境倫理の可能性は、相互依存を無条件に賛美することではなく、その複雑な因果関係の中で、いかに適切な責任を引き受けるかを問い続けるところにあるのだと思った。エディンバラ:2026/10/13(火)14:02
Today’s Letter
My life flows with the beautiful rhythm of my breath. As long as my daily life continues to breathe in harmony with that rhythm, everything is fine. Edinburgh, 10/13/2026



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