【エディンバラ大学からの便り】19372-19376:2026年10月12日(月)

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タイトル一覧
19372 | 身体機能の発達/今日の予定 |
19373 | 今朝方の夢 |
19374 | 今朝方の夢の振り返り |
19375 | 思考を超えて |
19376 | 仏教倫理の第二回のショートエッセイ |
19372. 身体機能の発達/今日の予定
時刻は午前7時半を迎えた。今、辺りは随分と明るくなっており、朝焼けが見える。エディンバラに引越してきて、早くも1ヶ月半弱が経とうとしている。ここまでのところ、思っていたほどにエディンバラの天気は悪くなく、雨に見舞われることも非常に少ない。夜中に雨が降っていることはあるのだが、幸いにも日中で強い雨に見舞われることはないので不便していない。雨風が強い日はバスで大学に行こうと思っていたのだが、ここまでのところ一度もバスを使っておらず、全て歩きで通学できている。今朝方は少しゆっくり目に起床し、アパートメントのジムに午前6時半過ぎに行ったところ、すでに先客が2人いた。いつもより1時間遅いそれくらいの時間だと利用者がいるようである。今日のSprint8では、大きな変化を感じた。身体適応のプロセスの揺れが収まり、安定的を迎えたようだった。すなわち、身体機能の発達が進み、キツさを感じることなく、そしてフォームも綺麗なまま8セット行えたのである。もちろんHIITのトレーニングなので心肺に刺激があることは確かであり、心拍数が上がることは必然なのだが、トレーニングをやめたいと思うようなキツさはなかったということである。この調子で安定的をしばらく続け、またタイミングを見てレベルを1つ上げたいと思う。気づけば、レベル20のうちの18まであと一歩というところまでやって来ている。継続は力なりであり、塵も積もれば山となるというのは本当のようである。
今日は午前10時から知人の紹介を受けて、ある会社の方々とオンラインミーティングをさせていただく。どのような方々なのかとても楽しみであるし、意味のある協働が実現できたらと思う。それ以外の時間は、仏教倫理のコースの第二回目のショートエッセイのドラフトを作っていきたい。すでにエッセイの対象とする課題文献を一つ選んでおり、今回は唯識の観点からエッセイを執筆していこうと思っている。先ほどトレッドミルの上で走りながら、この文献に対してどのような一次資料と二次資料を活用してエッセイを書いていけばいいのかの構想を練っていたこともあるし、すでに第一回のエッセイを書き終えているので、慣れもあって今回は前回よりも執筆がスムーズであることを期待する。エディンバラ:2026/10/12(火)07:53
19373. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れないレストランにいた。そこにはデロイト時代のメンバーが数人いて、彼らと一緒に食事を摂っていた。自分以外のメンバーはお酒を飲んで酔っ払っているようだったが、自分は完全に素面だった。素面だったのだが、気分は陽気で、まるでお酒を飲んだかのような高揚感があった。飲み会が終わりに近づく頃に、同期のメンバーが、「これからオフィスに戻って、会社の新しいロゴのお披露目をいち早く目撃しよう」と述べた。時計を見ると、日付が変わる時間になっていて、そう言えば会社のロゴのデザインが変わるとアナウンスがあったことを思い出した。時刻はすでに遅い時間になっていたが、もうここまで来たのだから彼に付き合う形でオフィスに戻り、いち早く会社の新しいロゴを見てみようと思った。気づけばオフィスに到着していて、彼がパソコンを開き、ログインをして、会社のロゴをインターネットから検索すると、確かに新しいデザインになっていた。デザインが良くなったとも、悪くなったとも取れない中立的な気持ちに自分はいた。すると、オフィス全体が実は先ほどの店の中にあり、他のメンバーもオフィスのフロアに散らばって、引き続き談笑を楽しんでいた。そろそろ自宅に帰ろうと思って靴箱に行くと、自分の靴がないことに気づいた。しかし、誰かの靴を自分はすでに履いており、それを脱いで、自分の本当の靴を探すことにした。エディンバラ:2026/10/12(火)08:01
19374. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、過去に所属していた世界との再会を通じて、自分が何者であったかを振り返り、これから何者として歩んでいくのかを問い直す、自己同一性の再編成を象徴しているのかもしれない。夢全体には、宴席からオフィスへ、オフィスから靴箱へという移動が見られるが、その舞台は実際には一つの空間であった。この奇妙な空間構造は、過去と現在が別々の場所に存在するのではなく、自分の意識という一つの劇場で同時に上演されていることを暗示しているように思われる。見慣れないレストランでデロイト時代の仲間と食事をする場面は、かつての職業的自己との再会を意味するのではないだろうか。興味深いのは、周囲が酩酊しているにもかかわらず、自分だけが素面でありながら陽気な気分を味わっていたことである。酒は外部から注入される高揚感の象徴であり、素面での陽気さは、外的な刺激や集団への同調を必要としない内発的な充足を表しているのかもしれない。かつての仲間と喜びを共有しながらも、その喜びの源泉は異なっている。そこには、集団の一員でありながら集団に呑み込まれない、自律的な自己の成熟が映し出されているようである。日付が変わる瞬間に会社の新しいロゴを見に行く展開も象徴的である。午前零時は、一つの時間が終わり、別の時間が始まる境界である。ロゴは組織の顔であり、社会に向けて提示される自己同一性の仮面でもある。その変更を目撃する行為は、自分自身の変容を間接的に観察する儀式であったのかもしれない。しかし、新しいデザインに対して好悪の感情が湧かなかったことは重要である。かつて自分を規定していた組織の変化が、もはや自分の価値判断を大きく揺さぶらないのであろう。古い看板が掛け替えられても、すでに別の道を歩き始めた旅人にとって、それは風景の変化にすぎないのかもしれない。さらに、オフィスが実はレストランの内部に存在していたという空間の反転は、仕事と社交、義務と楽しみが、かつて一体化していた生活世界を象徴しているようである。そこでは仲間たちが談笑を続けている一方、自分だけが帰宅を意識し始める。この対照は、過去の世界を否定することなく、そこから静かに退出しようとする心理的な独立を暗示しているのではないだろうか。そして夢の核心は、最後の靴箱にあるように思われる。靴は人生の道を歩くための道具であり、自分の足で現実に接地するための媒介である。知らぬ間に他人の靴を履いていたことは、過去の所属組織や社会的期待によって与えられた生き方を、無意識のうちに身につけていた可能性を示唆する。しかし、自分はその靴が他人のものであると気づき、脱いで本来の靴を探し始めた。ここには、借り物の役割を脱ぎ捨て、自分に固有の歩き方を取り戻そうとする意志が表れているのかもしれない。夢が自分の靴を発見する前に終わったことも示唆的である。新しい自己同一性は、まだ完成品として靴箱に収められているわけではないのであろう。自分は今、かつての世界から自由になりながら、次の道を歩くための靴を探している。夢はその未完成さを欠落としてではなく、新しい人生の可能性が開かれている証しとして描いているのかもしれない。エディンバラ:2026/10/12(火)08:12
19375. 思考を超えて
ブランダン・エイカー氏の「速く弾けない箇所」に対する助言がとても印象に残った。ある曲をかなり弾き込んでいるにもかかわらず、たった一つの難所のために曲全体のテンポが決まってしまうことがある。そういうとき、自分はつい「その箇所をもっと速く、何度も練習すればよい」と考えてしまう。しかし、エイカー氏の指摘は、その直感を少し違う方向から捉え直すものであった。問題は、指そのものが遅いことではなく、次にどこへ行くのかを指が完全には分かっていないことかもしれないという。ゆっくりしたテンポでは、次の音やポジションを探すためのほんのわずかな時間がある。そのため、演奏者自身にも「探している」という感覚がほとんどなく、聴き手にもその迷いは聞こえない。ところがテンポを上げると、その小さな探索が途端に「ためらい」として表面化する。つまり、速さを阻んでいるのは筋肉の限界というより、判断の残存なのである。この説明を聞いて、語学との比較がとても分かりやすいと思った。外国語を話すとき、一語ずつ頭の中で検索しているうちは流暢には話せない。しかし、言葉が意識的な検索を必要としなくなった瞬間、発話は自然に流れ始める。ギターも同じで、指が次の場所を考えているうちは、本当の意味でそのパッセージを習得していないのだろう。運指が身体の中で一続きの地形として把握されて初めて、速度は結果としてついてくるのである。そのため、難所を練習するときには、まず十分に遅いテンポで弾き、どこか一瞬でも「次はどこだったか」と決め直している場所がないかを観察する必要があるという。その一瞬こそが、本当のボトルネックなのである。そして、その判断が完全に不要になるまでその箇所に留まり、そこからほんの少しだけテンポを上げていく。この方法は、一見すると遠回りのようで、実際にはもっとも直接的なのだと思う。「遅く弾くことは後退ではない」という点も重要である。遅くすることで、自分の演奏の中にある不確実性が顕微鏡の下に置かれる。難所全体が問題なのではなく、多くの場合、本当に曖昧なのはほんの一、二瞬にすぎない。その場所を特定し、判断ではなく確信で動ける状態に変えることができれば、速度はあとから自然についてくる。今日の助言を通して、速さとは力づくで獲得するものではなく、迷いが消えた結果として現れるものなのだと感じた。難所を「突破すべき壁」と見るよりも、「まだ地図が曖昧な場所」と見る方がよいのかもしれない。何度も歩き、その土地を身体で覚えてしまえば、やがてそこは難所ではなく、馴染みのある道になるのである。エディンバラ:2026/10/12(火)13:09
19376. 仏教倫理の第二回のショートエッセイ
仏教倫理のショートエッセイで取り上げる問いが、ようやく明確になってきた。誓願とは不思議なものである。ある瞬間に「こう生きよう」と決意しても、その決意を一日中意識しているわけではない。それでも、後になって誘惑や葛藤に直面したとき、以前の誓いが行動を踏みとどまらせることがある。では、いま意識されていない誓願は、どのような仕方で生き続けているのだろうか。この問いを考えるうえで、Meyersによる世親『倶舎論』の分析が重要になる。焦点となるのは無表色(avijñapti-rūpa)をめぐる議論である。誓願が目に見えない何らかの実体として持続すると考えなくても、当初の意図、記憶、反復的な修養によって、その後の心の流れが変化すると説明できるのではないか。たとえば怒りに駆られた瞬間、過去に立てた誓願が想起され、慚や抑制が働く。大切なのは、同じ意図が心の舞台に常駐していることではなく、必要な場面で再び現れる条件が形成されていることである。誓願は金庫に保管された物体というより、繰り返し歩くことで地面に刻まれる小道に似ている。ここで唯識思想との接点が見えてくる。種子(bīja)、現行、薫習(vāsanā)の循環は、過去の経験が現在の心的作用を条件づけ、その作用が将来の傾向をさらに形成するという説明を可能にする。Waldronの心の相続についての議論も、固定的な主体に依拠せずに持続的な能力を理解する手がかりになるだろう。ただし、ここで注意したいのは、Meyersが分析する修習(bhāvanā)を、後代の唯識における薫習と安易に同一視しないことである。両者の説明には連続性が見いだせても、概念が生まれた文脈や理論上の役割は同じとは限らない。Westerhoffによる思想史的な見取り図は、その差異を確かめる補助線として使いたい。さらに、誓願が持続する仕組みを説明することと、その誓願が倫理的に正しいと示すことは別問題である。反復によって形成されるのは善い習慣ばかりではない。偏見や攻撃性もまた習慣化されうる。だからこそ、心の相続に生じる変化を記述するだけでは足りず、行為の対象や結果を含めて評価する必要がある。また、通常の習慣形成と、煩悩の潜在的な力を断つ転依(āśrayaparāvṛtti)も区別しなければならない。構成についても少し考えた。導入に50語、Meyersの精読に260語、唯識からの補足に120語、限界と結論に70語を充てる予定である。つい唯識の概念を多く持ち込みたくなるが、それでは課題の軸がぼやけてしまう。むしろ、中心となる議論を丁寧に再構成したうえで、唯識を比較の鏡として短く差し出す方が、500語という制約を生かせるはずだ。わずか500語の課題ではあるが、扱う問題は小さくない。無我を認めながら、なぜ自分は昨日の誓いに今日も責任を持てるのか。この問いには、これから取り組む唯識の倫理的主体論にも通じる深さがある。今回は議論を広げすぎず、Meyersの精読を中心に据えたい。意図は消えるのではなく、未来の行為が生まれる条件を変える。その一点を明晰に示すことが、今回のエッセイの核心になりそうである。エディンバラ:2026/10/12(火)13:44
Today’s Letter
Slow, deliberate practice is highly effective for both classical guitar and spoken English. The more slowly and accurately I practise, the more natural, refined, and effortless my performance becomes. Ultimately, I want to move beyond conscious thought and reach a state where I can create and express myself freely, spontaneously, and effortlessly. Edinburgh, 10/12/2026



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