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【エディンバラ大学からの便り】19347-19353:2026年10月7日(水)

10月9日
読了時間: 16分


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タイトル一覧

19347

昨日の森里先生との面談を振り返って

19348

今朝方の夢

19349

今朝方の夢の振り返り

19350

英国における博士課程進学の特徴

19351

英国の博士課程進学について

19352

出版の重要性

19353

仏教倫理のファイナルペーパーに向けて


19347. 昨日の森里先生との面談を振り返って

             

時刻は午前5時半を迎えた。昨日はこの時間帯は10度ほどあったように思うが、今の気温は6度である。今日の最高気温は13度とのことで、早朝から昼までは快晴の状態が続き、そこから2時間ほどは小雨が降るかも知れず、小雨が去るとまた晴れ間が広がるようだ。今日もまた朝のクラスがあるので、朝日を浴びながらの散歩を楽しみたい。同時に、帰りに小雨が降るかも知れないので折り畳み傘を持参する。


昨日は、森里先生と2週連続で面談をさせていただいた。前回は30分ほどの面談だったが、先生が引き合わせてくださった中国からの博士課程の留学生も交え、さらには同じ仏教プログラムの友人のゲイブも後半から参加する形で合計2時間ほど話をさせていただいた。まず最初の30分のオフィスアワーでの面談においては、先生に事前に提出した修士論文の計画についてフィードバックをいただいた。先生からのフィードバックをもとに、メインのリサーチクエスチョンをよりシャープにし、よりオリジナリティのあるものにしたい。良遍の思想を俯瞰的に眺める研究はもっと後からでよく、欧米の学術世界では良遍のことは基本的にほぼ誰も知らないのだから、最初は良遍の思想を推していく形で、まるで推し活をするかのようなスタンスで論文を書いていくのがいいのではないかという貴重な意見をいただいた。そこからは、エディンバラ大学が数年前に新自由主義的な大学経営に乗り出して資金的に苦しい状態に陥っており、ストライキの問題も今も続いており、ここから数年間は博士課程の学生に十分な奨学金を出せない可能性が高いという話を聞き、英国の他の大学を含め、アメリカの大学も射程に入れながら博士課程の出願をしていくことを勧めていただいた。少し前にアメリカの大学は出願候補から外していたのだが、改めて先生の話を聞くと、資金が豊富なアメリカの大学への出願もやはり検討したほうがいいのかも知れないと考えを柔軟している。その他にも、欧米の大学におけるポスドクや教授職の就職の難しさについても貴重なお話を聞け、今回も大変充実した面談であった。話がひと段落しそうな時に、中国から1年間やって来た博士課程の女性の学生が入ってきて、そこからは彼女の研究や中国の学術世界の事情を中心に3人で話をした。彼女は儒教の四書を博士論文のテーマに挙げている。彼女の研究テーマについてあれこれ聞いていると、今度はオーストラリア人のゲイブがオフィスアワーの面談にやって来て、自分たちも引き続き先生の研究室に残らせていただき、4人で話をした。ゲイブは非常に知性が高く、気も合うので、彼とは親友の関係になれそうである。そんなゲイブは、鈴木大拙の思想に着目し、彼の思想を現代の目線で探究していくことと、仏教思想と環境哲学の架橋にも関心があるとのことで、彼の研究内容について話を聞いていると、こちらの知見もより広がっていくのを感じる。エディンバラ:2026/10/7(水)06:00


19348. 今朝方の夢

                 

今朝方は夢の中で、哲学者のザカリー・スタイン(ザック)と今住んでいるアパートの受付スタッフの男性のジェイが登場していた。彼ら以外にもう2人、彼らの友人が登場し、4人は日本に観光旅行に来ていた。彼らが日本観光を楽しんでいる様子を私は近くで常に見守っていて、ふとしたきっかけで、彼らが日本の賞金がかかったクイズ番組に参加した。その番組で特にザックは活躍をしていて、あれよあれよという間に100万円の大台に乗るところまで到達した。彼はそこで降りることなく、引き続き問題に挑戦する気満々のようだった。しかし、気づけば番組は終わっていて、番組を収録していたレストランから彼らが出ようとしていた時に、シャドーワークの重要性と潜在的危険性について自分が英語で話をすると、ザックはそれに深く共感的に頷いていた。そこから私は、彼にシャドーワークについて少し語ってもらうことにした。


次に覚えているのは、実際に通っていた中学校の3年生の時に使っていた教室の右隅の席で、小中学校時代のある友人(MS)と話をしていた場面である。厳密には、話というよりも、彼が自分に嫌がらせの言葉を投げかけてきて、自分はそれに苛立ちを募らせていた。しばらく我慢をしていたが、我慢の限界に到達したので、彼の首元にシャーペンを突き刺し、そこから彼の両腕を複雑骨折させることを考えた。彼は野球をしていたので、両腕が使えなくなることは彼にとって致命的であり、それを踏まえての画策だった。しかし、自分は彼に対して少しばかり慈悲の心を示し、両足を複雑骨折させることはしないようにしようと考えていたのだった。歩けなくなると健康にも悪いと思ったし、メンタルにも悪い影響を与えるので、両足の代わりに両腕をしばらく回復できないほどに複雑に折ることにした。エディンバラ:2026/10/7(水)06:30


19349. 今朝方の夢の振り返り    

                 

今朝方の夢は、自分の内側で進みつつある「知的成熟」と、その成熟によってかえって照らし出され始めた攻撃性との対面を象徴しているのではないかと思われる。前半と後半は別々の夢というより、シャドーワークという一本の地下水脈によってつながっているように見える。ザックが日本を旅し、クイズ番組で100万円まで勝ち進む場面は、自分が現在蓄積している知識や思考力が、未知の問いに答える能力として急速に強化されていることを示しているのかもしれない。賞金は金銭そのものというより、知的挑戦によって得られる「価値」の象徴であろう。しかもザックは途中で降りようとしない。これは、自分の中にも安全圏で成果を確定するより、さらに難しい問いへ進もうとする傾向があることを映している可能性がある。哲学者であるザックは、いわば自分の前を歩く「思考する未来像」のような存在なのかもしれない。一方、ジェイを含む4人が日本にいることも興味深い。現在の生活世界に属する人物が日本へ移動しているため、自分の現在地と過去・文化的原点とのあいだに橋が架けられているようである。その旅を自分が「参加者」ではなく近くから見守っていることは、自分自身の人生を一段高い場所から観察するメタ認知的な姿勢を示しているのかもしれない。決定的なのは、番組終了後に自分からシャドーワークを語り始めることである。ここで夢は知識のゲームから心理の地下室へ降りていく。ザックが深く頷く場面は、自分の理性的部分が「次に扱うべき問題は外の知識ではなく、自分の影である」と承認しているようにも読める。すると直後に、中学三年生の教室が出現する。これは偶然ではないかもしれない。夢はシャドーワークについて語るだけでは足りず、実際の教材として過去の怒りを舞台上に引きずり出したのであろう。MSへの極端な暴力の想像は、現実の願望というより、長く抑制されてきた攻撃性が劇画的に増幅された象徴である可能性が高い。シャーペンという学校用品が武器になる点も象徴的であり、本来は知識を書くための道具が傷つける道具へ反転している。理性の鉛筆が、影の槍へ変形したような構図である。さらに奇妙なのは、自分が両腕を壊そうとしながら「足までは壊さない」という慈悲を働かせている点である。ここには、怒りの内部にまで倫理的計算が入り込んでいるように見える。つまり自分の影は単純な暴力ではなく、「相手を罰したい自分」と「完全には破壊したくない自分」が同居する複雑な影なのかもしれない。この夢全体は、自分が知性という明るい塔を高く築くほど、その塔が落とす影も長くなっていることを示しているのではないか。シャドーワークとは、その影を消すことではなく、それが自分の足元から伸びていることを認める作業である。この夢はまさに、その入口を自分自身に見せた夜だったのかもしれない。エディンバラ:2026/10/7(水)07:07


19350. 英国における博士課程進学の特徴

                                        

昨日、森里先生から英国における博士課程進学の特徴について興味深い話を聞いた。日本や米国の博士課程とは少し異なり、英国の人文学系では、出願前の段階から「誰に指導してもらうのか」がかなり重要になるという話である。博士課程の進学というと、大学全体の入試を受けて合格し、その後に指導教員が決まるようなイメージを持ちやすい。しかし英国では、むしろ自分の研究テーマに合う研究者を見つけ、その研究者が「この学生を指導したい」と考えてくれることが、出願の重要な土台になる場合が多いようである。実際、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院などを調べてみても、程度の差はあるものの、指導教員候補との事前接触を重視する大学は多い。特にケンブリッジ大学では、分野によっては出願前に指導予定教員へ連絡し、研究計画や指導可能性を確認することが事実上不可欠になっている。一方、オックスフォード大学のように、特定の教員から事前承諾を得ることが必須ではない大学もある。それでも、研究テーマと教員の専門性との適合性は依然として重要である。つまり森里先生の話は、「教員が了承すれば自動的に合格する」という意味ではないが、「教員から強い支持を得られることが、博士課程進学において大きな意味を持つ」という点で、かなり実態に近いのだと思った。ここで特に重要だと感じたのは、入学許可と研究資金を分けて考えることである。たとえ指導教員が研究計画を高く評価し、大学から博士課程への入学許可を得られたとしても、授業料や生活費を支給する奨学金は別の競争になる。英国の博士課程進学は、一本道というより、いくつかの関門が連続する山道のようなものである。まず研究テーマに合う指導教員を見つけ、その教員から支持を得る。次に正式な出願を通過する。そして最後に、全額支給や一部支給の奨学金をめぐる競争が待っているのである。この仕組みを知ると、現在の修士課程で何を優先すべきかも少し見えやすくなる。自分の場合、日本法相・唯識、良遍、徳一、最澄、中観との関係といった専門性の高いテーマを扱いたいので、単に大学名だけを見て進学先を決めるより、「誰がこの研究を本当に理解し、育ててくれるのか」を探す方が重要である。そして、その研究者に見せたときに説得力を持つ修士論文、査読論文、学会発表、一次資料研究を今のうちから積み上げていく必要がある。昨日の話を通して、博士課程進学は単なる「受験」ではなく、研究者としての関係形成の始まりなのだと感じた。大学に入るのではなく、研究共同体の中で、自分の問いを誰と育てていくのかを選ぶ。その意味で、今の修士課程は博士課程への準備期間であるだけでなく、自分の研究者としての輪郭を外に示し始める時期なのだと思う。エディンバラ:2026/10/7(水)07:25


19351. 英国の博士課程進学について 

                           

英国の博士課程進学では、指導教員との適合性と奨学金をめぐる競争が重要だという話を整理したが、その先にあるポスドク以降の就職事情についても調べてみた。博士号を取ればそのまま大学教員への道が開けるというより、むしろそこからが本格的な競争の始まりなのだと感じた。特に仏教学は専門性が高いため、「仏教学」という名称そのものの常勤職は限られている。実際には、日本宗教、東アジア宗教、宗教学、アジア研究など、少し広い分野名で募集される職に自分の専門性を接続していく必要があるようである。スタンフォード大学の仏教学センターが現在まとめている求人情報を見ても、仏教学そのものに加え、日本宗教、中国宗教、東アジア宗教など周辺領域の職を横断的に追跡している。博士号取得直後には、まず博士研究員を経る可能性が高い。給与を調べてみると、思っていたより極端に低いわけではない。英国ではオックスフォード大学の研究職が年39,424ポンドから、ケンブリッジ大学の研究員が概ね年37,694~46,049ポンド程度である。アメリカの仏教学専門の博士研究員では、スタンフォード大学のHo Centerが2026年募集で年77,000~79,000ドル、カリフォルニア大学バークレー校のNumata Centerが約70,000ドルを提示している。ドイツでは、大学の博士研究員によく用いられるTV-L E13が、2026年時点で月額約4,759ユーロから始まる。したがって、博士研究員そのものは研究者として生活できる程度の給与が設定されている場合が多い。ただし問題は、給与よりも任期である。多くは1~3年程度で、その間に論文、書籍、授業経験、学会発表を積み上げ、次の職へ移らなければならない。さらに難しいのが、その先の常勤職や終身在職権審査付きの職である。仏教学だけを教えられればよい求人は少なく、「仏教を専門としながら宗教学入門も教えられる」「日本仏教を研究しながら東アジア宗教全般も担当できる」といった広さが求められるようである。ここでは語学力も単なる付加価値ではなく、一次資料研究を行う研究者としての信頼性そのものになるのだと思う。また、査読論文だけでなく、博士論文を単著へ発展させられるか、複数の授業を設計できるかという点も重要になる。この事情を知ると、自分の今の研究計画の見え方も少し変わる。良遍や中世日本法相という非常に細い一本の針を深く刺すことは必要だが、それだけでは就職市場では細すぎる可能性がある。その針から、日本仏教、東アジア仏教、唯識、中観、宗派間交渉という複数の糸を伸ばしておく必要があるのだろう。研究者として生きることは、一つの専門を捨てて広くなることではなく、一本の深い井戸から複数の水路を引くことなのかもしれない。そう考えると、今取り組んでいる査読論文や修士論文も、単なる学位取得の課題ではなく、将来の博士研究員や大学教員の公募に向けて、自分がどのような研究者なのかを示す最初の履歴書になっていくのだと思った。エディンバラ:2026/10/7(水)07:37


19352. 出版の重要性 

                                     

昨日、森里先生から、大学院で良い成績を収めることはもちろん重要だが、それ以上に「とにかく出版すること」が大切だという助言をいただいた。印象的だったのは、「出版こそ正義である」という言葉である。少し極端な表現かもしれないが、研究者としての将来を考えるほど、その意味はよく分かる気がした。大学院の成績は、自分が授業内容を理解し、一定水準の研究能力を持っていることを示す。しかし成績表は基本的に大学内部での評価であり、それだけでは、自分が独立した研究者としてどのような問いを立て、どのような新しい知見を学界に提供できるのかまでは十分に示せない。一方、査読論文として出版された研究は、自分の研究が専門家による審査を通過し、学界の共有財産として外部に提示されたという証拠になる。この違いはかなり大きい。実際、博士号取得後の研究職を見ると、この助言の意味がさらに明確になる。英国の主要な博士研究員制度は、若手研究者が研究実績を積み、将来の常勤職につながる履歴を形成することを目的としており、オックスフォード大学のBritish Academy Postdoctoral Fellowshipの案内でも、研究・教育実績を強化して恒久的な職への可能性を高める制度として説明されている。ケンブリッジ大学のResearch Fellowshipでも、極めて優れた学術記録と独創的な博士研究が選考の中心に置かれている。ただし、「出版が最大のファクターか」と考えると、進路の段階によって少し違うように思う。博士課程への入学では、研究計画、指導教員との適合性、成績、推薦状、語学力なども非常に重要である。ところが博士研究員や大学教員へ進むにつれて、出版実績の比重は急速に大きくなる。そこで問われるのは、将来研究できそうかという可能性だけではなく、「すでに何を研究し、何を世に出したのか」という実績だからである。出版は研究者としての名刺というより、研究者として実際に歩いてきた足跡に近いのだと思う。そう考えると、森里先生がおっしゃるように、修士課程の今から査読論文の出版を目指す意味は大きい。修士論文だけを書いて博士課程へ進むのと、修士論文とは別に一本でも査読論文を形にして進むのとでは、自分の研究者としての輪郭がかなり違って見えるだろう。しかも出版を目指せば、先行研究の調査、一次資料の読解、論証、査読への応答という研究者として必要な一連の訓練を早い段階で経験できる。森里先生の「出版こそ正義」という言葉は、単に論文数を増やせという意味ではないのだと思う。研究を自分のノートの中に留めず、他者の批判にさらし、学界の議論へ実際に送り出すことが研究者になるということである。今取り組んでいる一本一本の論文は、単なる成果物ではなく、博士課程、博士研究員、そして将来の大学教員へと渡っていくための橋を一本ずつ架けているのだと思った。エディンバラ:2026/10/7(水)07:45


19353. 仏教倫理のファイナルペーパーに向けて  

                             

時刻は午後3時を迎えた。今日は結局小雨が降らなかったどころか、朝からずっと雲がない快晴に恵まれていた。肌寒さはあたったが、むしろそれが心地よく感じられた。大学には片道歩いて30分ほどかかるので、出発して最初の頃こそ寒さを感じることもあるが、途中からは体が温まってくるので、もうしばらく上にジャケットを羽織る必要はないように思う。


今日は午前9時に仏教倫理のレクチャーに参加し、隔週で行われる正午からの大学院生向けのセミナーにも参加した。午前中のレクチャーにおいては、いつものように積極的に質問をし、自分の理解を深めながらにして学部生を含むクラス全体に貢献するようにした。正午のセミナーは、本来は別のプログラムに在籍しているアメリカ人のジャニータが参加するはずだったが、今日は彼女の姿を見ることはなく、仏教プログラムに在籍しているイーサン、ゲイブ、自分の3人でのセミナーになった。大学院生向けのセミナーはこのように少人数なのでレクチャーの時よりもさらに密な議論ができることが有り難い。仏教倫理のコースでは、合計4回にわたって課題文献から一つを選んで500字で批判的に論じていく形成評価的課題が課せられており、総括評価としてのファイナルペーパーは自分で仏教倫理のトピックを一つ選んで3000字で自由に論じることができる。このファイルペーパーに関して、倫理主体を実体化することの問題から出発し、その問題に対して中観派の空の思想を通じて実体化を防ぎ、同時にそれだけだと倫理主体の不在という虚無主義に陥る可能性があるので、とりわけ護法の有の唯識思想の観点から倫理主体を実体化させないながらも仮に立てることを通じて倫理的な実践に向かわせるという形で論じていくというアイデアが浮かんでいる。ファイナルペーパーは3000字という字数制限があるので、ここまでしか論じられないが、これを7000-8000字ほどの査読付き論文に発展させるアイデアとして、護法の有の唯識思想を良遍はどのように解釈し、どのような独自の倫理思想を打ち立てたのかに展開させていくことを考えている。まずはファイナルペーパーでは、手持ちの課題文献から倫理主体について論じているものを取り上げ、それが往々にして倫理主体の実体化に陥りがちであるという問題を指摘し(250-500字ほどで問題提起)、そこから論文を二部に分けて、前半を中観思想からの応答、そして後半を護法唯識思想からの応答に当てたい。エディンバラ:2026/10/7(水)15:13


Today’s Letter

I’m organizing my thoughts on a couple of assignments for my graduate courses. I intend to develop these essays into future publications, so I want to make them as polished and sophisticated as possible from the outset. Edinburgh, 10/7/2026

 
 
 

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