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【エディンバラ大学からの便り】19333-19338:2026年10月4日(日)

10月6日
読了時間: 14分


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タイトル一覧

19333

拡張する仏教研究

19334

今朝方の夢

19335

今朝方の夢の振り返り

19336

長い呼吸のような歌う旋律を目指して

19337

ILL(図書館相互貸借)というサービスの多大なる恩恵を感じて

19338

ブランダン・エイカー氏のライブセッションからの学び


19333. 拡張する仏教研究

                                

時刻は午前6時半を迎えようとしている。今日もまた穏やかな朝の一日が始まった。今日は日曜日ということもあってか、いつも以上に静けさを感じるような気がしている。今日と明日は最高気温が17度に達するが、来週は11度から13度の間で気温が推移する日が多い。エディンバラの気候も相転移に向けて準備を始めているようだ。それに伴って、自分の身体、そして知性も何かしらの相転移を起こすだろう。とりわけ仏教研究における自らの知性の相転移の訪れは、きっとそう遠くないように予感している。そうした相転移に向けて、今日もまた仏教研究を前に進めていく。今はとにかく11月の中旬に向けて提出予定の査読付き論文の執筆に集中したい。もちろんそれと並行してエディンバラ大学のコースワークをこなしているのだが、両者は決して競合するものではなく、むしろ調和を成している。確かにコースワーク上の文献の全てが査読付き論文に使えるわけではなく、むしろ使えるものはそれほど多くないかもしれない。それもそのはずで、今学期に履修しているもの、さらには来学期履修する予定のコースは、自らの仏教理解を水平的に広げていくためのものだからである。すなわち、自分がこれまで関心を持ってこなかったが、同時に知りたい領域でもあるものを選んで受講している。これは今後仏教研究者として、幅を持った研究をするために必ず役に立つだろう。今と将来の双方を見越した判断をしたわけである。そもそも欧米の学術世界で日本法相唯識はおろか、唯識思想を体系的に取り扱うコースを提供している研究者は、自分の知る限り1人もいない。そうなってくると、必然的に大学院でのコースワークは、自らが真正面から扱う専門領域とは違ったものになり、そのズレが逆に自分の知識と研究の幅を繋げることに役立っていると実感している。今日は論文の執筆に向けて、引用予定の一次資料と二次資料の最終確認をし、入手できていないものをエディンバラ大学のデータベースから入手し終えたら、いよいよ本格的に論文の執筆に着手する。エディンバラ:2026/10/4(日)06:35


19334. 今朝方の夢  

                                 

今朝方は夢の中で、2人の日本人の歳の差カップルの結婚に関するニュースを眺めていた。2人と自分は実は知り合いで、2人が交際をしていたことは知っていたので、結婚は驚くことではなかったが、世間は随分と驚いているようだった。女性の方はまだ現役の大学生で、年齢は19歳である。男性側は、非常に有名な俳優で、年齢は44歳だった。2人の歳の差は倍以上あるが、年齢差を感じさせない仲の良さを自分は感じていた。一方で、彼らがこれからの長い結婚生活を本当にうまくやっていけるのかを心配している自分がいることも確かだった。2人の間には発達の差や発達速度の違いあるような気がしていて、それが今後顕著になると離婚の可能性も十分にあると思っていた。


次に覚えているのは、日本のプロ野球の巨人軍に対して自分1人で試合を挑んでいる場面である。巨人に所属する選手は錚々たるメンバーで、実力的には圧倒的なのだが、同時に戦い方として自分からすると汚い部分が見られるのが気になっていた。自分はそこに憤りを感じ、巨人に対して1人で真っ向から挑むことで打倒し、巨人に生まれ変わってもらおうと試みた。野球は本来1人ではできないスポーツだが、文字通り孤軍奮闘の戦いをし、まずこちらの攻撃から試合が始まったので、先頭打者の自分は出塁し、次のバッターは姿の見えない何らかの存在で、こちらのチームで人間としてグラウンドに立っているのはやはり自分だけだった。自分はすかさず盗塁をして塁を進めたところ、巨人の女性のオーナーが話をしている最中に盗塁するとは何事だと巨人側は怒っていて、オーナーが話をしている時には盗塁は認められないという勝手なルールを作っていることにまた怒りが湧いてきた。自分は彼らが作った勝手なルールに従うことなく、それらをことごとく破りながら、なんとか無事に盗塁だけを重ねて先制点を奪った。エディンバラ:2026/10/4(日)06:52 


19335. 今朝方の夢の振り返り 

       

今朝方の夢は、自分の中で進んでいる「発達速度の異なるものをどう統合するか」という問題と、「既存の権威やルールにどこまで従うのか」という問題が、前半と後半で別々の物語として現れたものかもしれない。前半の歳の差婚では、19歳の大学生と44歳の著名俳優という組み合わせが象徴的である。二人は単に年齢が離れているのではなく、「これから大きく変化していく存在」と「すでに社会的な形を確立した存在」の結合を表しているのかもしれない。自分が二人の交際を以前から知っており、世間ほど驚かなかった点も重要である。これは、自分の内部ではすでに結びつき始めている二つの自己を、自分自身だけは以前から察知していたことを示しているように思われる。一方は大学院で新たな学問世界に入り、まだ形成途上にある自分であり、もう一方は教育、執筆、仕事などを通じて長く社会経験を積んできた成熟した自分である可能性がある。しかし自分は、その結婚そのものよりも「発達速度の差」を心配している。ここには、現在の統合が永続する保証はないという洞察が表れているのかもしれない。今は仲良く歩いている二人でも、一方が急速に成長すれば歩幅が変わる。自分の人生もまた、二本の異なる速度で動くエスカレーターを一本の橋でつなごうとしているような状態なのではないか。夢は統合を祝福しながらも、その統合を固定化するなと警告しているように見える。後半では、その問題が個人的統合から社会的対決へと転じている。巨人軍は単なる野球チームというより、圧倒的な実績、権威、制度、慣習を背負った「巨大な既存秩序」の象徴かもしれない。それに対して自分は一人で挑んでいる。興味深いのは、自分が巨人を破壊したいのではなく、「生まれ変わってもらおう」としている点である。したがってこの戦いは反抗そのものではなく、改革のための対決なのであろう。さらに、相手が試合中に自分たちに都合のよいルールを追加する場面は象徴的である。「オーナーが話している間は盗塁禁止」という規則には合理的根拠がない。それでも権威が語れば規則になる。この場面には、自分が近頃強く意識している「伝統そのもの」と「伝統を守るために後から作られた慣習」を区別しようとする姿勢が投影されているのかもしれない。そして自分が勝つ方法はホームランではなく盗塁である。ここがこの夢の核心であるように思われる。巨大な相手を真正面から力で凌駕するのではなく、隙間を見つけ、既定路線を外れ、一塁ずつ進むのである。それは城門を破壊する戦いではなく、城壁の構造を読みながら内部へ入り込む戦いである。姿の見えない味方が存在することも含め、この夢は「孤独に見える戦いにも、自分を支える思想、先人、学び、あるいはまだ形になっていない未来の仲間がいる」と示唆しているのかもしれない。二つの場面を貫いているのは、自分が既存の形をそのまま信じないという姿勢である。結婚も権威も、成立した瞬間に完成するものではない。自分はいま、「異なるものを結びつけながら、その結びつき自体も絶えず更新する」という生き方へ移行しつつあるのではないか。夢全体は、固定された秩序に住むのではなく、動き続ける秩序を自ら作ろうとしている自分の姿を映しているように思われる。エディンバラ:2026/10/4(日)07:13 


19336. 長い呼吸のような歌う旋律を目指して 

                         

ブランダン・エイカー氏のメッセージを読んでいて、クラシックギターという楽器の本質的な難しさを改めて考えさせられた。ギターは「歌う」ことを目指す楽器でありながら、その構造上、声のように音を持続させることができない。弦を弾いた瞬間から、音はすでに消え始めている。にもかかわらず、優れた演奏を聴くと、音と音のあいだに切れ目がなく、一つの長い呼吸のように旋律が続いていく。この矛盾の中に、ギター演奏の美しさと難しさがあるのだと思う。自分もこれまで、一つ一つの音をどう出すかにはかなり意識を向けてきた。右手のタッチが正確か、狙った音色になっているか、左手が次のポジションに間に合っているか。しかしエイカー氏が指摘するのは、音の誕生だけではなく「音の死」に耳を澄ませることの重要性である。次の音を出すことに気を取られ、前の指をほんの少し早く離してしまえば、そこには小さな沈黙が生まれる。その沈黙が意図されたものでなければ、旋律は細かな断片へと砕けていくのである。言葉の比喩がとても分かりやすい。「一語。ずつ。正確に。話す。」のであれば、単語自体は間違っていなくても、文章としては不自然になる。音楽も同じなのだろう。一音ずつ正しく弾けていることと、一つの音楽的な文を語れていることは別なのである。演奏とは、点を並べる作業ではなく、点と点のあいだに見えない糸を通していく営みなのだと思う。興味深いのは、エイカー氏が「すべてをレガートにせよ」と言っているわけではない点である。音と音を切り離すことも、沈黙を置くことも、それ自体は立派な音楽表現である。ただし、その空白が「表現として選ばれた沈黙」なのか、それとも単に左手の指が早く離れただけなのかでは、意味がまるで異なる。偶然生まれた空白と、意図して置かれた空白との違いである。これはギターに限らず、自分の研究や日常にも通じるように思う。何かを始める瞬間には意識を向けやすいが、何かが終わっていく過程には意外と注意を払っていない。音が生まれる瞬間だけでなく、消えていく瞬間にも音楽があるように、出来事の始まりだけでなく、終わり方や次への移り方にも生の質が宿っているのであろう。次にギターを弾くときには、「次の音をどう出すか」だけではなく、「今の音をいつ、どのように手放すか」を聴いてみたい。一つの音が静かに消え、その余韻の中から次の音が生まれる。その連鎖が自然になったとき、ギターは単なる撥弦楽器ではなく、本当に歌い始めるのかもしれない。エディンバラ:2026/10/4(日)08:18


19337. ILL(図書館相互貸借)というサービスの多大なる恩恵を感じて

     

今日も良遍と日本法相教学の研究に必要な文献を探しているうちに、エディンバラ大学が提供するInterlibrary Loan(ILL、図書館相互貸借)というサービスのありがたさを改めて実感した。研究を進めるうえで、大学図書館に所蔵されていない文献の存在は避けて通れない。特に、日本の仏教研究に関する古い論文は電子化されていないことも多く、海外から入手するのは容易ではない。しかし、ILLを利用すれば、大学図書館が他の図書館に依頼し、必要な資料を取り寄せてくれるのである。このサービスの大きな魅力は、単に書籍を借りられるだけでなく、学術雑誌の論文や書籍の一章をデジタルコピーとして入手できる点にある。例えば、今回探している楠淳證の論文のように、1980年代から1990年代に出版された日本の仏教学文献も取り寄せの対象となる。ただし、すべての文献を入手できる保証はなく、所蔵館の事情や資料の状態によっては依頼が成立しないこともある。驚いたのは、修士課程の学生には年間30件まで無料のILL利用枠が用意されていることである。この年度は8月1日から翌年7月31日までとなっており、未使用の枠を翌年度へ繰り越すことはできない。30件を超えても利用を続けられ、150件までは追加の取り寄せに1件当たり5ポンドが必要となる。150件を超えると、1件当たり18ポンドになる。研究に必要な文献を比較的少ない経済的負担で収集できるのは、実に恵まれた制度である。申請の手続きも、それほど難しくない。大学図書館の検索システムであるDiscoverEdにサインインし、最初に必要な資料が大学に所蔵されていないことを確認する。そのうえで、Inter Library Loan Requestから申請フォームを開き、著者名、タイトル、出版年、出版社、掲載ページ、ISBNやISSNなどの書誌情報を入力する。日本語の文献の場合には、原題や著者名に加え、英語表記やINBUDSの識別番号を補足すると、資料の特定に役立つだろう。注意したいのは、ILLにも著作権上の制約があることである。原則として、雑誌であれば同一号から一つの論文、書籍であれば一章または全体の10%のうち、いずれか多い分量までが複写の対象となる。また、通常の研究目的で提供された複写物を、許可なく他人に配布することは認められない。研究の自由を支える制度であるからこそ、著作権を尊重する姿勢が求められるのである。取り寄せに要する時間は、資料によって大きく異なる。一般的な雑誌論文なら2~3営業日で届く場合もあるが、希少な文献では数か月を要することもある。大学は最低でも2週間の余裕を設けるよう推奨している。電子的に提供される場合には、専用のURLとパスワードが送られてくるが、閲覧期間は30日間に限られるため、受け取ったら早めに確認する必要がある。今回の経験を通じて、図書館は単なる書物の保管場所ではなく、世界中の知識を結びつける知的なネットワークであると感じた。英国にいながら日本の仏教学者が数十年前に発表した研究にアクセスできるのは、そのネットワークを支える人々のおかげである。かつては現地に足を運ばなければ入手できなかった資料が、国境を越えて自分の研究机に届く。ILLは、地理的な制約を乗り越え、過去の研究成果を現在の学問的探究へとつなぐ、研究者にとって心強い架け橋なのである。エディンバラ:2026/10/4(日)19:10


19338. ブランダン・エイカー氏のライブセッションからの学び  

                             

今日は夕方に、ブランダン・エイカー氏の即興演奏プログラムの3回目となるライブセッションに参加した。今回も自分の質問に対して、即興演奏の可能性を広げるための有益な助言を得ることができた。特に印象に残ったのは、単純なコード進行に転調の技術を組み合わせること、そして、必ずしもギターに馴染みのない調を無理に使う必要はないという二つの助言である。これまで自分は、即興演奏の表現の幅を広げるために、複雑なコード進行や普段あまり使わない調に挑戦することが重要だと考えていた。しかし、エイカー氏の助言は、必ずしも和声的な複雑さを追求することだけが音楽的な成熟につながるわけではないと気づかせてくれた。むしろ、基本的なコード進行を十分に理解したうえで、そこに小さな変化を加えることによって、豊かな音楽的展開を生み出せるのである。その一つが転調(modulation)という技術である。転調とは、ある調から別の調へと音楽の調性的な中心を移すことであり、同じ和音でも、その前後の文脈によって異なる機能や響きを持たせることができる。例えば、ハ長調のC–Amという進行からD7–Gへと進めば、ト長調への転調が可能となる。この場合、Amはハ長調ではvi、ト長調ではiiとして機能し、二つの調を結びつける共通和音(pivot chord)となる。さらに、D7に含まれるF♯が新しい調の到来を予感させ、Gへの解決によって調性的な中心が移動する。もちろん、転調を明確に成立させるには、その後の和声や旋律によって新しい調を確立する必要がある。このように考えると、転調とは単なる和音の置き換えではなく、音楽の風景そのものを変化させる技術である。同じ道を歩いていても、曲がり角を一つ越えるだけで、突然まったく異なる景色が広がるようなものである。基本的な和声を深く理解することによって、わずかな変化から新しい音楽的な物語を紡ぐことができるのだろう。もう一つ印象的だったのは、ギターに馴染みのない調を無理に使う必要はないという助言である。ギターは開放弦の配置や運指の構造によって、調ごとに演奏のしやすさや響きが大きく異なる楽器である。例えば、ホ短調やイ短調、ハ長調、ト長調などは、開放弦を活用しながら豊かな共鳴を生み出しやすい。反対に、開放弦を使いにくい調では、運指やポジション移動に多くの注意を向けなければならず、即興演奏の自由度が制限される場合もある。もちろん、馴染みのない調を学ぶことにも、指板の理解を深め、音楽的な視野を広げる価値がある。しかし、即興演奏の目的は技術的な困難を克服すること自体ではなく、音楽的な想像力を音として表現することである。まずは自分が十分に使いこなせる調の中で、旋律、和声、リズム、音色、声部進行などを工夫するほうが、創造性を育むうえで効果的なのかもしれない。今回の学びは、即興演奏における自由と制約の関係についても考えさせてくれた。自由とは、必ずしも選択肢を無限に増やすことではない。限られた和音や調の中に潜んでいる可能性を深く探究することによって、かえって表現の自由が広がるのである。今後は、基本的なコード進行を土台としながら、共通和音を利用した転調や、旋律の自然な展開を意識して練習していきたい。技術の複雑さを追い求めるのではなく、単純な素材から豊かな音楽を生み出せるようになることこそ、自分が目指す即興演奏の成熟した姿なのだと思う。エディンバラ:2026/10/4(日)19:25


Today’s Letter 

I had a wonderful and deeply fulfilling Sunday. I was able to devote myself to both my academic research and classical guitar. These two pursuits are wonderful companions, nurturing and enriching each other through their interdependent relationship. Edinburgh, 10/4/2026

 
 
 

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