【エディンバラ大学からの便り】19316-19320:2026年9月30日(水)

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タイトル一覧
19316 | やって来るエディンバラの冬に向けて |
19317 | 今朝方の夢 |
19318 | 今朝方の夢の振り返り |
19319 | 刺激的な新たな探究仲間との出会い/カルマの理解 |
19320 | 仏教倫理の宇宙 |
19316. やって来るエディンバラの冬に向けて
時刻は午前5時半を迎えた。辺りはまだ真っ暗だが、今日は珍しく小雨が降っているようである。換気のために窓を開けていると、シトシトとした雨音が聞こえてくる。今朝は小鳥たちの鳴き声が聞こえず、とても静かである。天気予報を確認すると、このシトシトとした雨は朝の途中頃まで降り続けるようなので、折り畳み傘を持って大学に向かおうと思う。今日参加するクラスは、仏教倫理学の2回目の授業である。今日もまたすでに事前に質問やコメントをいくつも用意しており、その中からその場に適したものを選んで積極的に発言をしていき、ポール・フラー博士からどのようなコメントが得られるか楽しみにしている。
昨日、指導教官候補の森里先生から親身に色々な助言を与えてもらったことに改めて感謝している。先生は同じ日東京の出身ということで、その点でも話が盛り上がり、先生も快活な性格をしておられるので、話をしていて大変心地良かった。ここから少しずつさらにお互いを知ることを通じて、より深い関係性を築けていければと思う。先生が笑いながら述べてくださったある助言が印象に残っている。それは、最初から飛ばし過ぎないように、というものである。とりわけ1月や2月は、長く続くどんよりとした天候、および日照時間の少なさから、エディンバラの多くの学生がガス欠状態になるとのことだった。これは自分でも笑ってしまったが、こと自分に関しては、すでに同種の気候を持つフローニンゲンで10年生活してきたので、この時期の北ヨーロッパの天候がどのようなものであり、その期間にどのように過ごすと良いかを経験的に知っているので、こと自分にとっては当てはまらない現象かと思う。思い返してみると、確かにフローニンゲンでの1年目は、長く続く日照時間の少ない厳しい冬に面食らうことがあったが、2年目からはもうその適応と対応が進んでいた。エディンバラ大学もフローニンゲン大学と同様に、多様な国から集まる多くの留学生がいるので、彼らが最初にエディンバラの冬の気候と直面したら、心身の調子を崩してしまうというのもうなづける。もちろん、いくら自分がフローニンゲンで同種の気候に慣れているからといって、やはりエディンバラには固有の機構があるので、その点はたかを括らず、心身の状態を常に最善にしておいて、無理をしないが、それでも絶えず自身をストレッチしながら継続的に研究を続けていくようにしたい。エディンバラ:2026/9/30(水)05:51
19317. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、自分の部屋ではあるが、見慣れない感じの部屋の中にいた。ただし、どこか小中学校時代の社宅の自分の部屋のような雰囲気があった。そんな部屋に置かれていた本棚が、4階建てぐらいのとても高い高さを持っていて、自分は本棚のてっぺんから地面を眺めていた。父と母の気配を後ろに感じ、2人の声が背後から聞こえていた。父曰く、自分の部屋に何者かが侵入したようで、すぐさま確認したほうがいいとのことだった。本棚の下の方を見ると、大きなクモが別々の高さのところに2匹いるのを発見したが、人らしい姿を確認することはできなかった。不審者が侵入してきたというのは気持ちの悪いことだったので、意を決して本棚から飛び降りて、大きな声を出して不審者を探し、その男性を成敗しようと思った。いざその男性を見つけたら、相手からの攻撃よりも先に先制攻撃を仕掛け、一気に制圧しようと考えていた。ところが、地面に降り立ってもやはり不審者を見つけることができず、それらしい気配も全くなかった。父の気のせいだったのかもしれないと思ったが、今後不審者が本当に入ってこないように戸締りはきちんとしておこうと思ったところで、一度目を覚ました。
そこからまた眠りの世界に降りていき、次に覚えているのは、アメリカで進学塾の講師をしていた時の教え子の女の子に関する夢である。当時中学2年生だった彼女は、性格がとても明るく、そして優しさもあった。それを象徴するかのように、彼女が自宅に戻ってきた時に、タクシーの女性の運転手に畑で採れた人参を渡し、車内で人参の大きさに例えながら父と弟を気遣う話をしていたとタクシーの運転手から聞いた。ひょんなことから、しばらく彼女の家で生活をしていた自分は、彼女の到着を楽しみに待っていて、彼女が自宅に戻ってきた時には、以前よりもさらに立派な女性になっていたので驚いたし、それを嬉しく思った。彼女は、最近病気になってしまって痩せこけている父を細い人参に例え、元気一杯の弟を太い人参に喩えたらしく、そのエピソードには心温まるものがあった。エディンバラ:2026/9/30(水)06:07
19318. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内面で「過去から受け継いだ世界」と「現在育ちつつある世界」との境界線が引き直されていることを象徴しているのかもしれない。最初の部屋は現在の自分の部屋でありながら、小中学校時代の社宅の面影を帯びている。これは、自分という存在の現在地に、幼少期から形成されてきた感覚や家族との関係が薄い地層のように重なっていることを示しているように思われる。その中央にそびえる4階建てほどの本棚は、自分が長年積み上げてきた知識、経験、思想の塔なのかもしれない。自分はその頂上に立って地上を眺めている。近年の自分が、日常そのものよりも、知識や思想という高所から人生を俯瞰する位置へ移動していることの比喩とも読めそうである。ところが、その知の塔の下に二匹の大きなクモがいる。クモは糸を張り、見えない関係を網状に結びつける存在であるため、自分の無意識に残る古い関係性や思考のネットワークを象徴している可能性がある。不審者について警告するのが父である点も興味深い。これは現実の父そのものというより、自分の内部に残っている警戒心や防衛機能が、何か外部のものが自分の領域へ侵入していると告げているのかもしれない。しかし、自分は知の高所から思い切って飛び降り、戦おうとするにもかかわらず、敵は存在しない。ここには重要な反転があるように思われる。自分が脅威だと想定していたものの一部は、実際には外から来た敵ではなく、自分の内部で作られた影だった可能性がある。夢は、まだ姿のない敵に剣を抜くより、自分の家の戸締まり、つまり境界線を整えることの方が重要だと示しているのかもしれない。そして第二の夢では、世界の色調が一変する。侵入者を探していた自分が、今度は誰かの成長を待つ自分になるのである。かつての教え子は、自分が過去に蒔いた種が、自分の知らない場所で育った姿なのかもしれない。彼女が持ち帰る人参も象徴的である。人参は土の中で育つため、目には見えない時間の蓄積そのもののようである。細い人参で病んだ父を、太い人参で元気な弟を語る彼女の姿には、生老病死を深刻さだけで捉えず、優しさとユーモアによって包み込む成熟が表れているように思われる。二つの夢を一本につなぐと、自分の心は今、「守ること」から「育つものを見守ること」へ重心を移しているのかもしれない。前半の本棚は上へ伸びる知性であり、後半の人参は下へ伸びる生命である。自分はいま、高く積み上げる知だけではなく、土の中で静かに成熟する人間性にも目を向け始めているのではないか。夢全体は、自分という家を守りながら、その庭で他者と自分自身の成長を見届ける段階へ入りつつあることを描いた、一枚の内的風景画なのかもしれない。エディンバラ:2026/9/30(水)06:21
19319. 刺激的な新たな探究仲間との出会い/カルマの理解
時刻は午前10時を迎えた。今、仏教倫理のレクチャーを終え、Rainy Hallという神学部の食堂でこの日記を執筆している。先週のレクチャーは、仏教倫理の概要だったので、今日から本格的にその内容に入っていった。50分のレクチャーはあっという間で、レクチャーの後は学部生用のセミナーがあり、大学院生向けのセミナーは後日別の日にある。今日のレクチャーで隣に座っていたアメリカ出身のカナーとの出会いは印象的である。彼がクラスの中で鋭い質問をいくつも投げかけていたこと、そしてふと彼のノートに視線をやると、日本語のひらがなを書いていたので、レクチャー後に声をかけたところ、彼とは森里先生を同じ指導教官に持っていることを知ってそこから会話を楽しんだ。彼は哲学科の博士課程に所属しており、仏教形而上学に関心があるとのことだ。とりわけ空の理解に関して、西洋哲学の観点ではなく、とりわけ京都学派の観点から、空に関心がある西洋の仏教哲学者が見落としている空の意味や深みを明らかにする研究に着手しているそうだ。彼の博士論文は来年には完成するらしいので、ぜひ拝読させてもらおうと思う。アトランタ出身のカナーに加えて、ジャニータというこれまたアメリカ出身、ニューヨーク出身の女性が仏教倫理のコースを同じく受講している。数としては、25人ぐらいの学部生がいて、イーサン、ゲイブ、カナー、ジャニータ、自分の5人が大学院生である。ジャニータには尋ねていないが、おそらく博士課程からの参加はカナーだけなのではないかと思う。いずれにせよ、彼らとはまた後日大学院生用のセミナーで密な議論ができることを楽しみにしている。
今日のレクチャーを通して、カルマというのは単純な因果応報法則として捉えるのではなく、カルマの語源に立ち返ると、それは意図的なアクションであるという理解をまず持っておくことが重要だと思った。もちろんここで、無意識的なアクションをどう扱っていくのかという問題もあるが、まずはカルマを意図的なアクションとして捉えることで、そこから仏教倫理のディスコースの世界に親しんでいこうと思う。大学院生用のセミナーで引き続きディスカッション項目として、クラスの中で言及した「善い行いの対象と善い行いの範囲をどのように決定していくのか?」という問いがまだ未解決なので、それを取り上げていきたい。また、継続して唯識思想における固有の倫理思想や倫理思想への貢献として何があるのかも探究していきたい。エディンバラ大学神学部の食堂(Rainy Hall):2026/9/30(水)10:21
19320. 仏教倫理の宇宙
仏教倫理について考えていて、今日のクラスで言及されていた「仏教倫理の宇宙」という言葉が頭に浮かんだ。倫理というと、普通は何をしてよいか、何をしてはいけないかという規則の体系を想像する。しかし、仏教倫理はそれだけではない。むしろ、人間の行為、心、関係、時間、そして世界そのものが互いに絡み合う、一つの宇宙のようなものではないだろうか。たとえば、殺してはいけない、盗んではいけない、嘘をついてはいけないという戒律だけを見ると、仏教倫理は行動規範のように見える。しかし、その奥には貪り、怒り、無知という心の動きがある。つまり、仏教は行為だけを見るのではなく、その行為がどのような心から生まれたのかを見ようとする。倫理の中心に法律ではなく心があるのである。ここがとても面白い。しかも、その心も孤立して存在しているわけではない。自分の怒りは他者との関係の中で生まれ、他者への言葉となり、その言葉がさらに別の感情や行動を生み出していく。業も同じように、一回の行為で終わるものではなく、未来へ向かって波紋を広げていく。池に落とした小石が何重もの円を作るように、一つの意志や意図が、自分の人格、他者との関係、さらに未来の経験まで形づくっていくのかもしれない。そう考えると、仏教倫理の宇宙には直線的な因果だけではなく、ネットワーク的な因果があるように感じる。自分が誰かに親切にする。その人の気持ちが少し軽くなる。その人が別の誰かに優しくする。最初の行為はすでに見えなくなっているのに、その影響だけが遠くまで伝わっていく。逆に、怒りや差別や暴力も同じように増幅されうる。善悪とは、自分一人の内部で完結するものではなく、関係の網の目の中を伝わるエネルギーなのかもしれない。さらに興味深いのは、仏教倫理では「誰が善い人間なのか」よりも、「どのような条件から、この行為が生まれたのか」と問えることである。縁起の視点を取れば、加害者でさえ孤立した悪の主体ではない。その人の欲望、恐怖、無知、社会構造、権力関係、文化的物語など、無数の条件が行為を生み出している。ただし、条件によって生じたからといって責任が消えるわけでもない。この「責任」と「非実体性」の緊張関係こそ、仏教倫理の非常に深いところだと思う。そして最後には、倫理と解脱がつながってくる。善い行為をすることは、単に社会的に立派になるためではなく、自分を縛っている貪りや怒りや無知を少しずつ弱めることでもある。倫理は解脱への入口であり、同時に他者とよりよく共存するための技法でもあるのだろう。こうして考えると、仏教倫理の宇宙には、戒律、業、心、縁起、慈悲、智慧、社会、そして解脱までが星座のようにつながっている。一つだけを切り取ると単純に見えるが、線を結んでいくと巨大な星図が現れる。仏教倫理を学ぶ面白さは、その星図を少しずつ読み解いていくことにあるのかもしれない。エディンバラ大学神学部の食堂(Rainy Hall):2026/9/30(水)10:41
Today’s Letter
I’m taking two courses this semester, both of which are morning classes. Walking to university in the morning activates both my mind and body, which is healthy and provides good exercise. Commuting to university also creates a wonderful rhythm in my daily life. Edinburgh, 9/30/2026



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