【エディンバラ大学からの便り】19274-19278:2026年9月21日(月)

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タイトル一覧
19274 | 新学期の本格的な始まり |
19275 | 今朝方の夢 |
19276 | 今朝方の夢の振り返り |
19277 | LibKey Nomadという便利なツールについて |
19278 | 大量の課題文献の読み方の工夫 |
19274. 新学期の本格的な始まり
時刻は午前6時を迎えた。この時間帯はまだ真っ暗で、気温は11度である。今日は20度まで気温が上がるようなので、暖かさを感じられるのではないかと思う。ここからしばらくは、最高気温が16度から19度を行き来するという過ごしやすい状態が続く。連日雨マークが付されることが多いが、雨が実際に振っている時間はごく僅かであり、まるで霧のような雨なので大変助かる。この様子だと、今学期はバスを使うことはほとんどなく、歩いて大学に行けるのではないかと思う。
今日から新たな週を迎え、今週から本格的に講義が始まる。プログラムディレクターのポール・フラー博士も述べていたように、ここからクリスマスにかけては授業と課題で忙しくなるはずなので、そのつもりでいよう。とはいえ、先々を見越して少しずつ予習や課題を進めていけば、忙しさがうまく分散され、てんてこ舞いになることはないということをこれまでの留学経験から学んでいるのでそれを活かそう。主専攻仏教研究、副専攻クラシックギターという形で、今日も両者を往復していく。前者に関していえば、まずは履修予定の仏教倫理のコースの来週の課題文献に目を通しておこうと思う。その時には単に漠然と読み進めていくのではなく、すでにコース専用に取り始めたノートに自分の考えや質問をまとめていく。仮に仏教倫理の来週分の課題文献を全て読み終えることができたら、その勢いで、“Envisioning Buddhist Studies: Methods and Themes”というコースの再来週の課題文献をどのようのやり方で読み進めていく。エディンバラ:2026/9/21(月)06:11
19275. 今朝方の夢
新天地のエディンバラに来て以降、夢の質感に相転移が見られるような気がしている。言葉にするのは難しい感覚なのだが、とりわけ夢の中にいて、夢が終わりに差し掛かり、覚醒に向かう通路の最中に、夢の世界にいることに特別の意味を見出している自覚があるのだ。もう少し説明を加えるならば、夢が持つ固有の治癒と変容の力をより鮮明に感じ始め、治癒と変容といった事柄を超えて、夢の世界もまたれっきとしたリアルな世界であるという認識が強まり、その世界を生きることを味わっている自分の存在感が増しているという感覚がある。今朝もそのような形で起床した。
そのような形で起床した今朝は、次のような夢を見ていた。夢の中で私は、様々なワークショップを落ち着いた建物の一室で受けていた。そこで受講者が講師側になるという循環が常に見られ、自分もまたワークショップを単に受けているだけではなく、提供する側に立つこともあった。あるワークショップの中で、2人の若い日本人の女性と知り合いになり、彼女たちが持つ学びの姿勢が大変素晴らしく思えた。彼女たちは自分に積極的に質問をしてきて、スポンジのように知識を吸収していた。彼女たちには学びに対する義務感は一切なく、常に笑顔を浮かべながら楽しく学びを進めていたのがとても印象に残っている。また、毎週末のゼミで一緒に探究をしている受講者の1人が、自分にワークショップの講座のリストを見せてくれ、どれに参加するのが良いか意見が欲しいとのことだったので、忌憚のない意見を述べたところ、とても参考になったと嬉しそうな表情を浮かべて、次の講座に向けてその部屋を出て行ったことも覚えている。エディンバラ:2026/9/21(月)06:23
19276. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢でまず印象的なのは、夢そのものに対する自分の感覚が変化していることである。夢が単なる睡眠中の映像ではなく、一つの固有な世界として厚みを持ち始めているという感覚は、自分の意識の中で「現実」と呼ばれる領域の境界線が少しずつ柔らかくなっていることを示しているのかもしれない。覚醒へ向かう直前の通路で夢の価値を強く感じるという現象は、二つの世界のあいだに架けられた橋の中央で立ち止まり、両岸を同時に眺めているようでもある。エディンバラへの移住は外的な土地の移動であると同時に、意識の地理そのものを書き換える移住になっている可能性がある。その意味で、今回のワークショップの建物は興味深い象徴である。そこでは教師と受講者が固定されておらず、学ぶ者が教える者となり、教える者が再び学ぶ者になる。これは現在の自分が置かれている状況そのものを、夢が一つの小宇宙として描いているように思われる。大学では自分は学生でありながら、これまで長く講師として他者の学びを支えてきた存在でもある。夢の建物は、教師と学生という二つの部屋を隔てていた壁を取り払い、その間を自由に往来する新しい学びの家なのかもしれない。二人の若い女性も象徴的である。彼女たちが義務感ではなく喜びによって学び、スポンジのように知識を吸収していたことは、自分自身の中に再び立ち上がりつつある「初心者の精神」を体現している可能性がある。長年何かを研究し、教えてきた者には、知らぬ間に知識が鎧のようにまとわりつくことがある。しかし彼女たちは鎧ではなく、乾いた大地のように知識の雨を受け取っている。その姿を魅力的に感じた自分は、これからの仏教研究においても、蓄積した知識以上に、嬉々として問いを発する力を大切にしたいと感じ始めているのかもしれない。同時に、ゼミの受講者から講座選択について意見を求められる場面は、これまで培ってきた教師としての役割が消えるのではなく、新しい環境の中でも静かに生き続けていることを示しているように思われる。ここで重要なのは、自分が相手の進路を決定するのではなく、率直な意見を渡し、相手自身が次の部屋へ向かっていくことである。自分の役割は誰かを目的地まで運ぶ列車ではなく、旅人が方向を確かめるための灯台へと変化しつつあるのかもしれない。こうして見ると今回の夢は、「学習と教育の循環」を描いているように思われる。エディンバラでの新生活によって、自分は再び深く学ぶ者になった。しかしそれは教師でなくなることを意味しない。むしろ学ぶことと教えることが呼吸の吸気と呼気のように一つの運動へ統合され始めているのではないだろうか。夢の質感の相転移とは、もしかすると夢そのものの変化というより、世界から意味を受け取り、また世界へ意味を返していく自分の意識の循環が、新しい段階へ入りつつあることの徴なのかもしれない。エディンバラ:2026/9/21(月)08:23
19277. LibKey Nomadという便利なツールについて
昨日、エディンバラ大学の図書館サービスの中で、今後かなり重宝しそうなLibKey Nomadについて確認していた。最初は単なるブラウザ拡張機能の一つにしか見えなかったが、内容を読んでみると、これは研究生活の小さな摩擦をかなり減らしてくれる道具なのだと分かってきた。普段、論文を探していると、Google Booksや出版社のサイト、PubMedなど、さまざまな場所に行き着く。そのたびに「この論文は大学の契約で読めるのか」「DiscoverEdに戻って検索し直す必要があるのか」と確認するのは、意外と細かな負担になる。研究というのは、こうした数十秒、数分の寄り道が積み重なると、思考の流れそのものが途切れてしまう。LibKey Nomadは、その寄り道を減らしてくれる装置なのだろう。仕組みは実に単純で、ブラウザに拡張機能を入れ、所属機関としてUniversity of Edinburghを選んでおけばよい。すると、対応しているウェブサイト上で「Download PDF」「View E-book」「Article Link」といったボタンが現れ、大学が購読している資料やオープンアクセス資料に、その場から直接アクセスできるようになる。まるで研究室の机の横に、小さな司書が常駐していて、「その論文なら大学経由で読めますよ」と静かに教えてくれるような仕組みである。これは、これから仏教学の文献を大量に読む自分にとってはかなりありがたい。特に、出版社のウェブサイトやGoogle検索から論文を見つけたとき、そのまま本文に入れるのは大きい。検索、認証、再検索という往復運動を減らせれば、その分だけ文献そのものを読むことに集中できる。ただし、Nomadにボタンが表示されないからといって、その文献を大学が所蔵していないわけではない点には注意したい。その場合はDiscoverEdで改めて確認すればよい。つまり、LibKey NomadはDiscoverEdの代替ではなく、入口を増やしてくれる補助線のような存在なのだと思う。研究環境というのは、壮大な理論や高度な方法論だけで成り立っているわけではない。こうした小さなツールを一つずつ整えていくことで、思考の流れが滑らかになり、読むこと、考えること、書くことにより深く潜れるようになる。LibKey Nomadは、そのための地味だが優秀な橋渡し役になりそうである。エディンバラ:2026/9/21(月)11:25
19278. 大量の課題文献の読み方の工夫
今週から、いよいよ大学院の授業が本格的に始まる。各コースのリーディングリストを眺めていると、かなり多くの課題文献が並んでいる。大学院での読書は、試験のために教科書を一字一句覚えるようなものではない。むしろ、広大な森の中に入り、どこにどのような木が生えていて、どの道がどこにつながっているのかを把握していく作業に近いように思う。一本一本の木の樹皮まで詳細に観察する必要がある場所もあれば、遠くから森全体の輪郭を確認するだけでよい場所もある。すべての文献を同じ密度で読むことは、時間的にも現実的ではないし、かえって重要なものとそうでないものの区別を失わせてしまう可能性がある。そう考えると、授業前の段階では、少なくともその文献がどのような問いを立て、著者が何を主張し、その主張をどのような資料や方法によって支えているのかを理解しておくことが重要である。そして、それ以上に大切なのは、その文献に対して自分自身の問いを持っておくことだと思う。要約だけで終われば、著者の思考を頭の中にコピーしただけである。しかし、そこから「これは本当にそう言えるのか」「日本仏教の場合にも当てはまるのか」「唯識の立場から見るとどうなるのか」と問いを返した瞬間に、その文献との対話が始まる。これまで授業の準備として行ってきた、短い要約を作り、それに自分のコメントを加え、最後に授業で使える問いへと変換していく作業は、かなり理にかなっているように思う。これは単なる効率化ではなく、研究者として読むための訓練でもあるのだろう。文献を読むという行為は、情報を吸収することではなく、他者の思考に一度入り込み、そこから自分自身の問いを携えて戻ってくる往復運動なのかもしれない。また、今読んだ文献のすべてを今すぐ完全に理解する必要もないのだと思う。今はまず知的な地図を作る時期であり、将来、自分の修士論文や博士研究に関係する文献に再び出会ったとき、その場所へ戻って深く掘り下げればよい。大学院での一年間は、知識を完成させる期間というよりも、これから何年もかけて歩いていく研究世界の地形を身体に覚え込ませる期間なのだろう。そう考えると、今学期の読書目標も少し明確になる。すべてを読み切ることではなく、「この文献は何を言っているのかを説明できること」、そして「それについて自分なりの問いを一つ持っていること」である。その二つを積み重ねていけば、授業が終わった後にも使える、自分自身の研究の羅針盤が少しずつ出来上がっていくのではないかと思う。エディンバラ:2026/9/21(月)11:39
Today’s Letter
From this week, the official academic term has begun. I’ve started reading the course materials more strategically, and I’m gradually getting the hang of it. Edinburgh, 9/21/2026


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