【エディンバラ大学からの便り】19269-19273:2026年9月20日(日)

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タイトル一覧
19269 | Sprint8への適応と仏教倫理のコースについて |
19270 | 今朝方の夢 |
19271 | 今朝方の夢の振り返り |
19272 | 即興演奏のための「定石」採集 |
19273 | 主専攻「仏教研究」副専攻「クラシックギター」の新章の開幕 |
19269. Sprint8への適応と仏教倫理のコースについて
時刻は午前6時半を迎えた。今日もまたアパートメントのジムに午前5時半過ぎに行ったところ、先客は誰もおらず、始終1人でジムを使うことができ、プライベートジムとしてSprint8のプログラムを楽しんだ。レベル16の内容はもう随分と板についており、負荷量を上げるために次のレベルに進んでもいいように思えた。当初の予定では、再来週の日曜日からレベル17に上げようと考えており、今は無理をせず、レベル16のプログラムでしっかりと体を作っておきたい。ここでしっかりと身体的な土台を作ることができたら、そこからは少しずつレベルを上げていく形となるので、身体の微調整の曲率が低くなるだろう。こうした適応の工夫は何も、日々の運動だけに当てはまるのではなく、明日から本格的に始まる大学院での研究活動にも当てはまるはずだ。今学期は必修のコースを除いて、仏教倫理のコースを受講する。仏教プログラムのディレクターであるポール・フラー博士は、本当に親身なサポートをしてくださる方であり、エディンバラ大学に決めた理由の一つは彼の存在でもあった。彼にはなんでも相談でき、速やかに返信が返ってくる。その点に大変有り難さを感じている。フラー博士が担当する仏教倫理の授業は、倫理に関する様々な領域と側面を扱うため、仏教倫理に関心を持ち続けていた自分にとって大変実りあるコースになるだろう。ただし、2ヶ月強、厳密には11週間のコースで課せられている文献量は100を超えるため、かなりハードである。もちろん、それらの全てが必読文献ではいが、それにしても多い量である。なぜこのような分量が設定されているかというと、教授側も11週間の間に学生が全ての文献を読んで、深く理解することはできないということを前提にして、コース終了後、そしてさらには卒業後までも見越して、将来の探究に向けて、コースで扱う領域の学術文献を一気にリストアップしているのである。この姿勢は大変教育的かと思う。自分としては、毎週の必読文献は当然ながら、1つか2つは推薦文献を読み、必読文献と同様に、1つの文献に関して幾つかクラスの中でディスカッションするための問いや考察を毎回準備しておこうと思う。それに加えて、毎週の講義が終わるたびに、速やかにその週の該当する最終課題の問いについて文章を執筆していこうと思う。エディンバラ:2026/9/20(日)06:53
19270. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、実家の食卓で父と話をしていた。父が作ってくれた料理を食べている最中に、父の頭のてっぺんが随分と禿げていることに気づいた。これまで父は年齢を重ねても髪がたくさんあったので、どうしたのかと心配していたところ、母の話によると、過度なストレスで髪がごっそり抜け落ちしてしまったのだと知った。それを聞いてさらに心配な気持ちになったが、父は自分の前では弱さを見せず、何も問題ないというふうに振る舞っていた。気がつくと、私は見慣れない和食屋にいた。周りは旅館街で、その一角にある有名な料亭で母方の叔父と食事をしていた。叔父がご馳走をしてくれるということで、豪勢な料理を有り難くいただいていた。数人が腰掛けられるような長いテーブルに2人だけで座り、叔父と対面する形で料理を食べ始めた。各人のコースの料理の数が多く、叔父と真正面に向き合って座ってしまうと、お互いの料理がぶつかりそうになったので、あえて斜めにずれて座ることにした。美味な料理を堪能し、話に花を咲かせていると、突然意識が飛んだ。どうやら食事を食べ終える直前で睡魔に襲われ、そのまま深い眠りに落ちてしまったようだった。深い眠りから覚めると、頭はまだ少しぼーっとしていたが、逆に残存する変性意識状態のおかげで特殊な能力を発揮することができ、そこからは空を飛んで旅館街の上空から美しい景色を堪能していた。エディンバラ:2026/9/20(日)07:19
19271. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢には、「支える者の脆さ」と「支えられる自分」、そして最後にそこから離陸していく意識の運動が一本の流れとして描かれているように思われる。冒頭の実家の食卓は、自分の人格形成を支えてきた最も古い基盤を象徴しているのかもしれない。そこで父が料理を作り、自分がそれを食べているという構図は、父から受け取ってきたものを自分が今なお内面化していることを示しているようにも見える。ところが、その父の頭頂部から髪が失われている。髪は生命力や社会的な強さの象徴として現れた可能性があり、普段は頑健に見える父の「見えない消耗」が、夢の中で初めて可視化されたのではないだろうか。しかも父自身は弱さを見せない。そこには、自分が幼い頃には岩盤のように感じていた存在にも、実際には亀裂が入り得るという発見が表現されているのかもしれない。自分の意識が、親を「自分を守る者」から「自分が気遣う対象」へと捉え直し始めている可能性もありそうである。そこから場面が母方の叔父との料亭へ移るのは興味深い。父系的な支えから母系的な支えへと、夢が別の血脈へ橋を架けているようにも見える。叔父に料理を振る舞われる場面もまた、自分が何かを受け取る構図である。しかし今回は実家ではなく旅館街の料亭であり、「家」から「旅」へと舞台が移っている。これは自分が現在、古い生活圏を離れ、新たな土地と知的世界へ移行している状況を象徴しているのかもしれない。叔父と真正面ではなく斜めに座り直す場面も象徴的である。真正面から向き合えば料理同士がぶつかるため、少し位置をずらす。この動きは、人間関係や思想との関わりにおいて、自分が「正面衝突」ではなく、適切な距離と角度を探し始めていることを示しているようにも思われる。人生とは時に、相手を見るために真正面に座るよりも、少し斜めから眺めた方が豊かに見える庭園のようなものなのかもしれない。そして最も重要なのは、食事の終盤で突然眠り、その後に飛翔が始まる点である。食べることが知識や経験の摂取であるなら、眠りはそれらを深層で消化する過程なのだろう。その直後、自分は変性意識の余韻を利用して空を飛ぶ。これは、何かをさらに努力して獲得するのではなく、いったん意識を手放したときに、逆に新しい視座が開けるという心の動きを表しているのかもしれない。地上では父の苦悩や人間関係の距離を気にしていた自分が、最後には旅館街全体を上空から眺めている。今回の夢は、自分が今、人生の個別的な出来事に巻き込まれる視点から、それらすべてを一枚の風景として眺める視点へと移行しつつあることを示唆しているように思われる。父の頭頂部から始まった「上」という方向が、最後には自分自身の飛翔へ転じている点も、静かだが美しい構造である。エディンバラ:2026/9/20(日)09:53
19272. 即興演奏のための「定石」採集
既存楽曲との向き合い方について考えていると、単に楽譜どおりに弾けるようになることを最終目的にするのではなく、そこから即興演奏のための「定石」を採集するという発想が大切なのではないかと思えてきた。将棋棋士が名局をただ再現するのではなく、「なぜこの局面でこの手なのか」を読み解き、その手筋を別の対局へ持ち込むように、自分も既存曲を音楽的な棋譜として読むのである。もちろん、最初から勝手に変えてしまうのではなく、まずは原曲を丁寧に演奏する必要があるだろう。作曲家がどのように旋律を動かし、どこで低音を変え、どの和音からどこへ進み、どのように緊張を作って解決しているのかを身体に入れる。その段階は、将棋の定石を一度そのまま覚える作業に近い。しかし曲に慣れてきたら、今度は「保存すべきもの」と「変更可能なもの」を分けてみたい。例えば旋律は残しながら伴奏型だけ変えてみる。同じ和音進行の上で旋律を少し装飾してみる。低音だけ別の動きを与える。二音の和音を同時に鳴らしたり、意図的にずらしたりする。ある小節だけリズムを変える。同じ終止形に別の道筋から到達してみる。こうして一曲を毎回少しずつ変奏して遊ぶことは、即興の練習として非常に理にかなっているように思う。完成された建物を眺めるだけでなく、一度壁を外して内部構造を調べ、自分なりに別の部屋を増築してみるような作業である。その際に特に収集したいのは、個々の音符ではなく「再利用可能な音楽的な型」である。例えば「属和音の前にこの低音進行を置くと緊張感が高まる」「旋律を一度上昇させてから三度下降すると自然な呼吸になる」「終止直前で一拍ためると着地感が強くなる」といった小さな手筋である。こうしたものを一曲から三つでも四つでも発見できれば、それが自分の即興語彙になっていく。さらに面白いのは、集めた定石を元の曲とは全く異なる即興の中で使うことである。ある曲で覚えた低音進行を別の調に移し、その上に自分で旋律を作ってみる。別の曲から学んだ装飾法をそこへ重ねてみる。そうすると、他人の作品から採集した複数の定石が、自分の中で交配を始める。ここから初めて模倣が創造へ変わっていくのだろう。だから既存曲を弾く時間と即興する時間を完全に分離する必要もないように思う。一曲を普通に弾き、その次には少し変奏し、さらにその曲から一つの定石だけを抜き出して数分間即興してみる。この循環を繰り返せば、レパートリーを増やすことと即興能力を高めることが同じ学習になる。既存曲とは、完成品として鑑賞するだけのものではなく、過去の作曲家たちが残してくれた巨大な定石集なのかもしれない。楽譜を忠実に再現する段階から、その背後にある音楽的判断を盗み、それを崩し、組み替え、自分の即興へ移植していく。そうなれば一曲を学ぶたびに、自分の中に新しい一手が増えていくのである。エディンバラ:2026/9/20(日)15:19
19273. 主専攻「仏教研究」副専攻「クラシックギター」の新章の開幕
振り返ってみると、今週は大変実りの多い一週間であった。エディンバラ大学のオリエンテーション・ウィークが始まり、この一週間で随分と多くの刺激を享受させてもらった。いよいよ明日からは本格的に授業が始まるので、心機一転の気持ちで臨もう。明日から授業が開始されるといっても、明日はまだ自分が履修するコースの授業はなく、来週は基本的に火曜日と水曜日に大学に行くことにある。来週だけは木曜日に研究手法に関する特別な講義が一度だけあり、隔週の金曜日で水曜日の仏教倫理の授業を補足する形でのセミナーが行われる。明日は丸一日休みとなるので、明日は来週分と再来週分の予習をさらに進めていきたい。当然ではあるが、毎日授業がないこともあり、空いている日で余力があれば、どんどんと先々の課題文献を読み進めていき、該当の週がやって来たらまた前日やその日の朝に課題文献を読み返すようにして、理解を増強させていきたいと思う。
今日は夕方に、ブランダン・エイカー氏の即興演奏のコースのライブセッションを受けた。元々このコースはブランダンに直接メールで開講をお願いしていたものであり、こうして今日、オンライン上ではあったが、同じ時間を共有することができて大変嬉しく思う。ライブセッションは、今週末の日曜日から4週間に行って開催される。開催されるアメリカの時間帯とこちらの時間帯が見事にマッチしているので、4週連続で参加できそうである。かねてよりこのセッションをの楽しみにしていて、事前に質問を用意していたので、早速質問したところ、自分の質問を一番最初に扱ってもらうことができた。それ以降もさらにもう一つ質問をしたのだが、今日のセッションでの収穫は、今回のコースでブランダンはあえて使いフレットの場所を制限し、和音やコード進行もシンプルなものを私たちに教えることを通じて、パラメーターに制限がある中で美しい即興演奏をすることに習熟してほしいという意図があったと知れたことである。つまり、これは以前から自分も述べているように、制限のあることによる創造性という考え方である。その点を肝に銘じ、あえて今回のコースで習った基本的な事柄に集中し、それを少しずつ自分なりにアレンジや工夫をして、即興演奏の能力を拡張させていくことが賢明だと思った。ブランダンが指摘していたように、即興演奏は外国語を習うように、毎日触れることが重要で、工夫を楽しみながら練習する過程の中で自然と表現の幅が広がっていくと述べていた。また、音楽はメロディーに加えてリズムも重要な要素なので、メトロノームを使いながらの練習や、足裏で地面をタップしながらリズムを掴みつつ即興演奏することの大切さも教えてくれた。それ以外にも、とにかく歌うことを意識した即興演奏をすることの重要性を指摘してもらったので、今夜の即興演奏からこれらの点を意識して練習をの楽しみたいと思う。明日からのエディンバラ大学での本格的な仏教研究の開始に伴い、それを主専攻としながらも、副専攻としてクラシックギターを学んでいる感覚があることは嬉しいことだ。エディンバラ:2026/9/20(日)18:48
Today’s Letter
My major is Buddhist Studies, and my minor is classical guitar. These two pursuits complement each other beautifully and have a positive, developmental influence on one another. I’m so grateful to have both of them as part of this new chapter of my life in Edinburgh. Edinburgh, 9/20/2026


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