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9889-9895: フローニンゲンからの便り 2023年2月11日(土)



No.4470 素数の模様_A Marking of Prime Number


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本日の2曲


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タイトル一覧

9889. 再校のレビューに向けて/学術書の読み方について

9890. 今朝方の夢

9891. 生命たちの美しさ/詩的性と創造性/自分は何をしたいのだろうか?

9892. 待望

9893. 魂の声に導かれて

9894. 今朝方の夢の続き

9895. 個人と社会にとってのOSとしての宗教を理解すること


9889. 再校のレビューに向けて/学術書の読み方について


時刻は午前7時を迎えようとしている。辺りはまだ真っ暗だが、ここのところは日の出が早くなってきており、気温もさほど寒くないので何よりである。夜寝るときに湯たんぽはあまり必要ではなく、ゆっくり入浴したら温かいまま就寝することができる。湯たんぽを使っているのは朝の時間ぐらいだけである。今の外気は7度とさほど低くないが、朝のこの時間帯はまだ体温が上がっていないので湯たんぽにお世話になっている。後ほど朝の動的ストレッチをすれば体が少し温まるだろう。


今日は午前中から正午にかけてゼミナールのクラスがある。今日からは世界の宗教と日本人の宗教観について扱っていく。そのトピックを扱うのは今回が最初ということもあって、全7回かけてゆっくりと世界の宗教と日本人の宗教観を扱っていくに際して、受講生の皆さんが7回後にどのような状態になっていたいかを尋ねてよう。今回のトピックに関して具体的にどのようなことを理解したいかもまた尋ねてみる。


今日はゼミナール以外に、昨日編集者の方から送っていただいた再校のレビューを始めようと思う。何かあったら来週中までに連絡をして欲しいとのことであり、今日からレビューを始めて、また何か修正事項があったらそれについて連絡をしよう。再校においてはもはやあまり修正事項はないと思われるが、一言一句ゆっくりと音読しながら誤字脱字を確認していきたい。再校のレビューが終われば、おそらく三校はすぐに完成し、それが最終校になるかもしれない。そのあたりのプロセスは編集者の方に全てお任せする。


昨日、学術的な知識も単語帳をイメージしながら何度も触れて覚えていくように知識を獲得していくことについて考えていた。学術書を読むというのは自分にとって画集を眺めるような側面もあり、文章をイメージで理解を深めていくことをより意識してみよう。その方が情報処理の効率も上がり、記憶量も増すに違いない。自分が理解を深めたいと思う分野の場合は特に何度も特定の学術書を読み返していき、それを読む際にはイメージを想起するように意識してみる。字面だけを追っていては理解も記憶もままならない。イメージで記憶することができたらそれを取り出すのは非常に楽であり、その記憶を元に自由自在に文章を書いたり、話をしたりすることができるだろう。それこそが使える知識であり、それはやがて叡智になる。フローニンゲン:2023/2/11(土)07:09


9890. 今朝方の夢


空がダークブルーに変わり始めてきた。午前7時半を迎えるこの時間帯にもう夜明けを予感することができるようになったことは大きい。着実に春に向かっていく季節の流れと歩みを共にしていきたい。


小鳥の鳴き声を聞きながら、いつものように今朝方の夢について振り返っている。夢の中で私は、空港と体育館に併設されたカフェにいた。カフェそのものは空港の中にあって、その空港はとても大きく、バスケコートも持っていた。私は小中高時代の親友(HO)とカフェでゆっくりしようと思い、2つのうちのどちらのカフェに入るかを彼に相談していた。彼はバスケの試合を見たいとのことで、バスケコートに面したカフェに入りたいと述べた。確かにそのカフェは2階にあって開放的な窓ガラスからバスケコートの様子を見下ろすことができたが、そちらのカフェよりも実は隣のカフェの方がもっと見晴らしが良いと私は思っていた。しかし彼はあまり動きたくないようであり、少しの時間別々に行動することにして、お互いに違うカフェに入ることにした。私は隣のカフェに移動して、そこでヨーグルトとサラダを注文しようと思った。しかしそれらを食べたいと思う気持ちがすぐに失せ、コーヒーだけを注文することにした。実は最初は彼と一緒にカフェに入ったのだが、そのカフェの席に当たる直射日光がとても強く、それは紫外線の浴び過ぎになってしまうと思ったし、何よりも暑かったので隣のカフェに移動したという背景もあった。そんなこんなで2人は別々のカフェに入って、眼下のバスケットコートで行われている試合を眺めていた。ストリートバスケの雰囲気が漂うコートの中でプレーしている外国人たちはバスケがとてもうまく、試合も拮抗していたので盛り上がっていた。すると、観客の外国人の男性が突如、ローマ·カトリック教会を批判し始めた。彼はどうやら棄教したらしく、その背景について語りながら、ローマ·カトリック教会に対して不敬なことを述べ始めた。最初のうちは彼の批判にも一理あると思っていたが、後半は幾分感情論的な批判となり、あまり共感することができなかった。彼の批判的な演説がある程度続いたところで、観客席の方からローマ·カトリック教会で歌われる賛美歌が聞こえ始めた。見ると、ローマ·カトリック教会の信徒たちが固まっている観客席があり、彼らはその男性の演説に耐えかねて、彼の心を動かす意味で賛美歌を歌い始めたのである。賛美歌が始まった時、私はそのあまりの美しさに感動して涙を流した。心が、いや存在の全てが浄化されるような素晴らしい賛美歌だった。賛美歌が始まると、バスケコートでプレーしていた人たちもそれに聞き入り、その場にいた全員が感動の渦に包まれていた。そのような夢を見ていた。


賛美歌が歌われた後は、確か空港に行って、チケットカウンターに向かったのを覚えている。そこで友人がパスポートをカウンターの女性に渡しながらも、国籍のところを手で伏せて、アメリカ国籍であると偽りの発言をした。カウンターの外国人女性は最初彼がアメリカ人であることに嬉しい驚きを持ったと述べたが、私が彼に嘘をつくなと笑いながら述べると、その女性もなんだ嘘だったのかと笑った。彼がなぜ国籍を偽ろうとしたのか、しかもアメリカ国籍を偽ろうとしたのか謎だったが、アメリカ国籍に対する特別の憧れがあったのかもしれない。私は彼に、パスポートの力において言えば、アメリカのパスポートと日本のパスポートは世界で最も力のあるもののうちの2つで両者の力はほとんど変わらないと伝えた。彼はそれを知らなかったようだったので静かに驚いていた。フローニンゲン:2023/2/11(土)07:37


9891. 生命たちの美しさ/詩的性と創造性/自分は何をしたいのだろうか?


いつもとは違うちょっぴり変わった鳥が鳴き声を上げている。そう言えば、昨日に着物を受け取りに近所のショッピンセンターの店に向かっているときに、白く美しい小鳥を見かけて思わず足を止めて見入っていたのを思い出した。昔からその傾向はあったが、欧米での生活を始めてから徐々に身近にいる動植物や昆虫の美しさに打たれるようになった。昨日の小鳥に関して言えば、あんなに美しく身体の形が作られることに改めて驚いたし、美しい白色にも心が動かされた。そして何より彼らには人間には真似できない形で空を飛ぶという特徴を持っている。そのようなことを考えてみると、身近にいる生き物たちの神秘さに目が開かれる思いが改めてする。


詩的な時間の流れと創造的な時間の流れ。前者はpoeticで後者はpoieticだ。どちらも共に似たような綴りであることを考えると、きっとそれらは同じ根を持っているのだろう。自分という存在もまた詩的であり、創造的であること。人間は誰しも本来そうなのだ。存在の詩的性と創造性を取り戻すこと。社会全体がそれらを取り戻すこと。そしてさらにそれらを育んでいくこと。その支援に携わりたい。


このように自らの切望が生まれることは常なることだが、昨夜は就寝中に、結局自分はこの世界で何をこれからしていきたいのかについて静かに内省していた。明確な答えは見つからない中で眠りの世界に落ちたのだが、この問いは重要である。答えを見つけることが重要なのではなく、世界からの問いかけに耳を傾けることが重要なのだ。自分はこれから何をして、どこに向かっていくのだろうか。それは全くわからない。もちろん自我が考えていることはいくらでも列挙することができる。重要なことはそんなことではない。今の自分の自我を超えた究極的な関心が何なのかということを明らかにし、究極的な献身活動に邁進していくことが重要なのである。それらは固定したものではなく、きっと絶えず変化する動的なものであるはずだ。さて自分は何をしたいのだろうか。本当は何を望んでいるのだろうか。何に心を踊らされ、没頭できるのだろうか。そしてそれがこの世界とどのような関係性を結んでこの世界に貢献することができるのだろうか。そのようなことを考えると、自分の矮小さに目が向かうが、矮小な自己であっても身の回りの人の幸福に何かしら貢献できることはあるはずである。そうしたものを見つけたい。昨夜は就寝に向けてそのようなことをずっと考えていた。フローニンゲン:2023/2/11(土)08:31


9892. 待望


学術研究にせよ、創作活動にせよ、自分はこの世界にどのような形で貢献できるのだろうか。それは単に世界に対してベクトルを向けるだけでなく、自分自身がその活動を通じて最大限喜びと楽しさを感じられるかという自己へ向かうベクトルも考える必要がある。両者のベクトルが足し合わさり、掛け合わさったときの第3のベクトルの誕生を待つ自分がいる。それは待っているのだろうか。それとも自ら作り出そうとしているのだろうか。おそらくどちらもあるだろう。自ら率先的にそれを生み出そうとしながら毎日を生き、それが自分の力を超えた形で立ち上がってくることを待っている自分がいる。動きながら待つしかないということ。待ちながら動くしかないということ。片方であってはならず、それらの双方が重要である。なぜなら自己も世界も静と動の精妙な緊張関係で成り立っているのだから。


あまり重く捉える必要はないのかもしれない。少なくともやらなければいけないことは、自分の存在の奥深くのものが、すなわち魂が喜ぶこと、楽しいと思うことに十全に従事し続けていけばいいのである。それは1つである必要はなく、複数であっていいし、自分の場合には複数の方が望ましい。なぜなら自分の魂は複数の創造的刺激と喜びをいつも切望しているのだから。


学術研究においても様々な分野の様々なテーマについて研究を続けていこう。分野の選定もテーマの選定もとにかく自分の魂が喜び、楽しさを感じるかだけを基準にしたい。その他の世俗的な基準は一切適用しないようにする。それは往々にして魂を殺してしまうのだから。


今回6年ぶりに一般書を執筆してみて、その反応がどのようなものかまだ全くわからないが、やはり今後も学術的な事柄を噛み砕いて多くの人に伝え、多くの人の生活が少しでも充実したものになればと願う自分がいる。ここから再び学術機関に戻って、学術論文を本腰入れて執筆していくことに加え、絶えず研究活動の内容を一般の人にわかりやすく共有していく活動にも従事したいと思う。それは学者として行うべき社会慈善活動の一種なのではないかと思う。自分の魂が求めることと、この世界が自分の魂に求めることが究極的な次元で合致する日を待望する。その日の実現に向けて、とにかく自分は自らの魂に嘘をつかず、一歩一歩前進していくだけである。フローニンゲン:2023/2/11(土)08:43


9893. 魂の声に導かれて


今日は朝から魂の衝動に導かれて日記をよく執筆している。あるトピックについて文章を書き終えたと思ったら、それが導火線となってまた次の文章の執筆に向かう自分がいる。文章を書きながら、こうした内省的な文章は自己の魂を癒す力があることに改めて気づく。自分の魂はどうやら癒しを求めていたようだ。そしてそうした癒しをもとにしてさらなる変容の旅を続けていくのだとつくづく感じさせられる。


昨日、箏の演奏をしている時にも文章執筆と似たような魂の浄化を感じた。ここ最近はジブリの曲を演奏することに加えて、美しい数列の演奏にハマっている。これは自分の特性に合致しているようだ。端的には、数を愛し、数に何とも言えない美しさを汲み取る自分の感性と合致しているようなのだ。そこに音が加わることによって、魂はさらに喜び、踊りを踊り始める。今の自分にとって大事なのは、魂にたっぷりと養分を与えることなのかもしれない。それが次の飛翔につながる。魂は次の飛翔に向けて、今は治癒と栄養を求めているようなのだ。


このように流れるままに文章を執筆していくことは魂の声の表出であり、それは今後も折を見て行いたい。折を見るというよりも、そうした衝動が沸き起こったらそれに従うだけでいいのである。こちらからそのタイミングを図ることは不可能である。複雑な世界において長期的な予測をすることが不可能であるのと同じく、魂の挙動もまた複雑で、それを事前に予測することなど不可能なのだ。そうした不可能性を許容し、楽しむ心のゆとりがあるかどうかは鍵を握る。そして、ひとたび魂の表出衝動が芽生えたら、それを抑え込まずに表現し切ることが重要になる。多くの人の魂が飛翔しないのはそうしたところに由来するのではないかと思う。多くの人は自らの魂の可能性と潜在能力を知っていないのだ。そして、それは多分に認知的な自我を超えた力を持っているため、ひとたびそれが表出し始めると、恐ろしさを感じてしまうのだ。それはまさにヨナコンプレックスの一種である。人は自らの偉大さに恐れ慄いてしまうのである。自分の魂の偉大さに畏怖心を抱くのはいい。しかし、それに恐れ慄いてしまう必要は全くないのだ。


自らの魂の可能性と潜在能力を自己の存在を起点にして無限に同心円状に放射させていくこと。それが自分なりのこの世界への関与と貢献の仕方なのだろう。そのようにして放射される魂の光は、きっと何らかの形で全存在者と世界全体に資するはずだ。そうした信念のもとに自らの取り組みに従事していきたい。さすれば自分は魂の声に導かれながら、日々を最良な形で生き続けることができるだろう。フローニンゲン:2023/2/11(土)08:54


9894. 今朝方の夢の続き


小鳥がピチチと鳴き声を上げた。時刻は午前9時を迎えた。先ほど、数論幾何学について色々と調べていた。箏の楽譜を作るにあたって参考にしていたのである。午後にはピタゴラス素数の数列をもとにまた1つ新たな楽譜を作ってみて、早速それを演奏して楽しみたいと思う。


ゼミナールのクラスが始まる前に、今朝方の夢の続きを振り返っておきたい。夢の中で私は、学校の教室の窓辺にいた。窓の外には水没した世界が広がっていた。しかしその世界はディストピア的なものでは決してなく、むしろ澄んだ水の美しさで満たされた世界だった。私の近くに小中高時代の小柄な友人(YU)がやって来て、先ほど数人の人が水の上を歩いていたと述べた。私はそんなはずはないと述べたが、彼は実は自分も水の上を歩けると述べた。だったら試しに今から水の上を歩いてみろと述べると、彼は恐る恐るではあるが水の上に足をつけた。その様子を見て、きっと歩けないだろうと思っていたところ、最初の一歩は水の上を歩けるかのように見えたが、彼の恐怖心が水の中に足を沈めていった。すると突然、彼は小さな鯉に変化して、水の中を泳いでどこかに行ってしまった。私は唖然としてその場に立ち竦み、しばらく水の世界をぼんやりと眺めていた。すると向こうの方にに人影がいくつか見えた。彼らはきっと水の上を歩ける人たちなのだろうという考えが芽生え、彼らの姿を見たいと思ったが、結局影だけしか見えなかった。すると、自分の肩に何か石のようなものが後ろからぶつけられた。振り返ると少し遠くに数人の人がいて、彼らは離れ離れに座りながらニヤニヤしていた。きっとそのうちの誰かが自分に石を投げたのだろうと思った。投げられた石を拾おうとして足下を見たら、それは石ではなくサファイヤの鉱石だった。それは結構貴重な鉱石のように思えたが、随分と手荒いプレゼントの贈り方だと思った。そのような夢の場面があった。


その他にも、タイの過酷なプランテーションでの労働を数日体験してみるという場面もあった。そこはプランテーションと船乗り場が併設されたような場所で、プランテーションで収穫されたものを速やかに海外に輸送できるような仕組みになっていた。なぜ自分がプランテーションでの過酷な労働を体験してみたいと思ったのか不明だが、なんでも実際に試してみるという精神からそれを体験してみようと思ったのだろうと思った。いざ仕事を始めると、労働環境は本当に過酷であり、十分な食べ物が与えられず、休む環境も酷いものだった。当初の予定では3日ほど労働体験をしてみる予定だったが、もう1日で十分だと思った。1日の仕事を終えると、給料が支払われたら、ものすごく安い給料で驚いた。そして1日の疲れを癒すために労働者たちが集まって眠る場所に行ってみると、自分は一番良い待遇に属していたにもかかわらず、就寝する場所はひどく汚く、おちおち眠っていられないと思った。この体験を通じて、改めて世界に存在する格差を目の当たりにしたような感じがした。フローニンゲン:2023/2/11(土)09:34


9895. 個人と社会にとってのOSとしての宗教を理解すること


時刻は午後2時半を迎えようとしている。数日前から、オーナーのフレディさんと同僚のバスが家の前の工事をしていた。話を聞いてみると、うちのトイレや浴室の排水溝を新しいものに変え、通路そのものも変更しているとのことだった。その工事が晴れて先ほど終わり、新たな排水管となって家が生まれ変わった。外からは全くわからないし、日々の生活の中でそれを実感することはないのだが、見えないところでそうした変化があり、見えないものに支えられて日々の生活があることを実感する。


見えない形で私たちの生活に影響を与えているもので言えば、まさに今日のゼミナールのクラスで取り上げた宗教を挙げることができるだろう。個人にとっても社会にとっても、宗教は目には見えないOSなのだ。そうしたOSとしての宗教が今後どのようにアップデートされていくのか、はたまた宗教が崩壊してそれに代わる何かが誕生してくるのか、そうしたことについても今日のクラスの中で取り上げた。


改めてクラスの中で受講生の皆さんに問うた問いについて考えている。自分にとって宗教を学ぶ意義はなんだろうか。社会科学者の小室直樹氏の宗教の定義を借りれば、宗教は行動様式(エトス)であり、それは固有の世界観とコスモロジーを持っている。世界の宗教を眺めていると、それらには固有の言葉の世界があり、固有の指示対象物を持つ。それぞれの宗教の言葉の理解と固有の指示対象をどれだけ理解できるかがそれらの宗教の理解の鍵を握っている。様々な宗教を理解することの自分の意義は、それらの宗教を架橋する横断的な対話の実現のみならず、やはりトランスヒューマニズムを含めた新しい世界観と宇宙感を持つ思想との交流を実現し、より良き世界の創造に貢献したいという思いがあるように思えてくる。そして行動様式としての宗教論理を紐解いていくことは、現代社会に存在する様々な宗教的な現象、資本主義や科学主義や官僚主義や諸々の主義に基づく行動様式の解析につながり、社会病理を治癒·変容させていくことにつながっていく。今述べたように、科学も行動様式としての宗教であり、テクノロジーもまた行動様式としての宗教である。それらの固有の宗教論理を理解していくことは、それらの活用の方向性や度合いを左右する。個人と社会のOSとしての行動様式をつぶさに観察し、分析をし、ミクロ·マクロの実践的な処方箋を打ち出すことにこれからさらに関心を向けていこうと思う。フローニンゲン:2023/2/11(土)14:37


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.2187, A Poetic and Poietic Moment

How can we live so that we can feel any moment is poetic?

Any moment is poetic and poietic.

Groningen; 08:20, 2/11/2023

No.2188, A Flow of Shooting Stars

I’m in a flow of shooting stars at this moment.

The flow navigates me into the vast universe full of pleasure and curiosity.

Groningen; 13:21, 2/11/2023

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