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8640-8644: フローニンゲンからの便り 2022年6月21日(火)



No.3738 宇宙の羽_Feathers of the Universe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1628, Positivity and Negativity

In this society, positivity is dominant and omnipresent.

I value negativity to maintain myself authentically.

Groningen; 15:42, 6/21/2022


No.1629, A Ray of Light

A ray of light reached the pinnacle of the mountain of my soul.

A tremendous amount of light came from there.

Groningen; 18:43, 6/21/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8640. 躍動する世界から

8641. 今朝方の印象的な夢

8642. エロス的体験と他者性

8643. 川面凡児全集を受け取って

8644. 川面凡児全集に背筋を正されて


8640. 躍動する世界から


時刻は午前7時を迎えた。今、朝日が燦然と輝いている。旅から戻ってきてのフローニンゲンは、連日天気が良い。恵まれた天気の中で、観想的な日々を過ごすことができている。静けさと平穏さに包まれた日々を静かに営んでいる。こうした生活が実現されていることに深く感謝したい。


今この瞬間は、風が全く吹いておらず、書斎の窓からの景色は静止画を眺めているかのようだ。しかし、よくよく目を凝らしてみると、虫たちが飛んでいる姿が見えたり、ごくわずかだが微風が木の葉を揺らしている姿が見える。するとたちまち目の前の世界が動画のように見えてくる。やはり世界は絶えず躍動しているのだ。仮に動いていないように思えたとしても、自分の心が絶えず動いていれば、目の前の世界もまた動いて見えるのだ。自分の心の躍動と世界の躍動は連動しているのである。お互いが共鳴し合い、お互いの躍動を支え合っているのだ。


昨日、ビョンチョル·ハンの書籍を読み進める中で、ハンは元々、カトリック神学を探究していたこともあり、その影響が思想の中に窺えることを見出していた。自分としては、川面凡児の神道神学を絡めて、ハンの論考を引き継ぎながら、独自の文明論に結びつけていきたい。カトリック神学だけでは指摘できない事柄があるであろうから、そこを神道神学の観点から指摘していくような独自の試みをしたいと思う。ちょうど昨日、近くの配送センターに川面凡児全集が届けられたようなので、明日にでも書籍の受け取りをしたいと思う。ここからしばらくは、ハンの書籍とその全集を読み込んでいく日々が続くだろう。それを待ち望んでいる自分がいるところを見ると、この探究もまたきっと何かの形でいつか実を結ぶだろう。


今日もまたハンの書籍を読み進めていこう。今日は、“The Transparency Society”の続きを読み、それを読み終えたら、“What is Power?”の続きを読み進めていく。前者に関しては昨日から精読を始め、後者に関しては旅に出かける前に精読を始めていた。それらの書籍を読み進める前に、今日も午前中には、オットー·ラスキー博士との協働プロジェクトに向けて音声ファイルを作成したいと思う。昨日40本近く音声ファイルを作成し、計画していた項目の大半の音声ファイルを録り終えることができた。今日は残りの項目について全て音声ファイルを作成してしまおうと思う。合計で15本か20本くらいになるだろうか。フローニンゲン:2022/6/21(火)07:23


8641. 今朝方の印象的な夢


今この瞬間と同じく、昨夜は小鳥たちの鳴き声に包まれる形で就寝に向かった。朝と夜にこのように小鳥たちの鳴き声が聞こえることをとても嬉しく思う。実際には、夕方にも小鳥たちの鳴き声が聞こえるので、ほぼ一日中彼らから癒しを受けていると言える。いつか彼らに何かしらの返礼をしなければいけないと思う。今は一方的に彼らの厚意を受けているだけなのだ。生態系の保護と涵養を射程に入れば文明学の探究が、その小さな返礼の1つになればと思う。


今朝方は1つ印象的な夢を見ていた。夢の中の自分が確かに大きく感動していたことを覚えている。その瞬間がどのようなものであったかを順に振り返っておきたい。


夢の中で私は、おそらく日本であろう国の田舎にいた。そこは山が豊かで、山の中に自分の住む家があった。厳密にはそこは、父方の祖父母の家であり、そこに自分が住まわせてもらっていた。現実世界においては今は亡き祖父がそこにいて、とても元気そうに生活をしていた。祖母はいつものように優しく、その家での暮らしはとても快適だった。ひょんなことから私は、知人の女性と結婚することになり、彼女をその家に迎え入れる形で生活が始まった。彼女がその家にやってきた最初の日に、記念に4本の木を植えることになった。それぞれの木は、春夏秋冬に対応していて、それぞれ種類の異なる木だった。それぞれの季節に固有の木を庭に植えたのである。木を植え終えると、彼女と私は顔を見合わせて笑った。すると突然、彼女はどこかに消えてしまった。それと同時に、月日が一瞬にして過ぎ去り、その家にはもう祖父母はいなくなっていった。そこで私は、彼女も祖父母もあの世に行ってしまったのだと思った。その家に1人取り残された私は、部屋の掃除を始めた。寝室には仏壇があり、そこには祖父の写真が飾ってあった。その写真を眺めながら、祖父のことを懐かしく思い出し、ふと庭に目をやると、彼女と一緒に植えた木が立派に育っていることに驚いた。それは天にも届きそうなぐらいに大きく育っていて、てっぺんが見えないほどの高さであった。私はすぐに庭に出て、その木を仰ぎ見た。本当に立派に育った木を見て嬉しくなったのと同時に、妻である彼女と木を一緒に植えた時のことを思い出した。私は一番左にあった春を表す木のところに近寄って、木を撫でた。すると突然、彼女が木の上の方に現れ、こちらに向かって手を振っているのが見えた。私は一瞬目を疑ったが、嬉しくなり、すぐさま木を登り始め、彼女のところに行こうと思った。木を登っていると、木の香りが春の香りそのものであり、とても恍惚とした気持ちになった。そんな木と戯れながら登っていくと、彼女が待つところにやって来た。そこで彼女との再会を喜び、自分は再会を心底待ち望んでいたので、嬉しくなって感動の涙が溢れそうになった。彼女の方は自分がもうこちらの世界にいないことは知っていないようで、昔と同じく明るく振る舞っていた。しばらく木々の上で積もる話をし、そこからは一緒にゆっくり木から降りた。地面に到着する間際に、彼女は何かを思い出したように、「行かないといけない場所があるの」と笑顔で述べて、またどこかに消えてしまった。今朝方はそのような夢を見ていた。この夢の中で、春の木に触れた時に感じた感覚と得た香りがもたらす恍惚感は、ビョンチョル·ハンが指摘する、エロス的体験の産物のように思える。ポルノ社会化している現代社会の病に対する有効な処方箋として、エロス的体験をいかに積むかは極めて重要であり、それが夢の中で現れたことの意味についてさらに考えを深めていきたいと思う。いずれにせよ、そうした体験を夢の中で味わったことはとても貴重なことであった。あの瞬間は間違いなく、自己は木と化し、彼女と化していたように思う。フローニンゲン:2022/6/21(火)07:44


8642. エロス的体験と他者性


小鳥たちの鳴き声は止むことを知らない。それは、寄せては返すさざ波のように、空間を満たしている。自分はそうした空間の中に佇んでいて、心が満たされている。ここにも、満ちたものに関する共鳴と共振がある。


今朝方の夢について先ほど振り返っていたのだが、その振り返りをさらに振り返ることをしている。それだけにあの夢は印象的なものだった。覚えていることを全て書き留めたつもりだが、実際にはもっと細かな情景描写や感情描写が可能だったはずであり、それができないのは自分の筆力の限界であろうし、夢の記憶の保持力の限界でもあった。春夏秋冬を象徴するように植えられた4本の木。それらの木の意味についてぼんやりと考えている。4本の木のあの立派さ。とても見事な佇まい。そして、それぞれの木に固有の肌触りと香りが今でも記憶に焼き付いている。とりわけ、春の木の香りは桜の香りだったのだろうか。あの木は間違いなく、妻を象徴し、それと同時に母を象徴していた。あの木は女性性の象徴だったのだろうか。そうかもしれない。春はまた生命の誕生の季節でもあり、そこに母性的なものとの重なりを見る。夢の中で体験した恍惚感もまた忘れらない。あのような恍惚感は初めて味わったかもしれない。自然物と自分ではない人間の双方と同一化するというのは、これまで経験したことがないのではないかと思う。あれはまさに脱自的体験であり、それゆえにエロス的体験であった。自我が溶解し、他者と同一化するエロス的体験と、自我が残存·固執し、他者と同一化を果たせないセクシャルな体験とは一線を画すものであることを述べる必要などないであろうが、夢の中の体験はまさに前者のものであった。他者性が喪失する現代社会の中にあって、エロス的体験がますます得られにく時代になってきている中において、こうした体験をいかに積むか、そしていかに他者性を回復していくかは時代の要請と言えるだろう。それはかなり急務なことのように思える。フローニンゲン:2022/6/21(火)08:30


8643. 川面凡児全集を受け取って


先ほど、待ち焦がれていた川面凡児の全集を受け取った。当初の予定では、明日に受け取り先に出向こうと思っていたのだが、待つことができずに今日受け取りに行った。日本から船便で送ってもらっていたので、到着までに随分と時間が経ったが、旅と同じく、こうして時間をかけて届けられた品物を受け取ると、喜びもひとしおである。大体の重さを把握していたが、川面凡児は多産な神道家であったから、全集の分量も多く、段ボールで受け取ってみて初めてその重さを実感した。受け取り先までは、行きはジョギングをして行ったのだが、帰りは段ボールを両手で抱えながらだったので走ることはできず、ゆっくり歩きながら帰った。それは重たいダンベルを持ち上げながら歩くかのようであって、随分と前腕が鍛えられた。ここ最近は武術の鍛錬と筋力トレーニングの見直しを行なっていて、武術の動きを損ねない形でどのように身体を鍛えていくかに意識が向かっている。ブルース·リーがどのように身体を鍛えていたのかを参考にしながら、今一度トレーニングメニューを見直している。


さて、今日いよいよ川面凡児の全集を受け取ったので、今夜から早速読み進めていこうと思う。午前中から夕食までにかけてはビョンチョル·ハンの書籍を読み進め、夕食後に川面凡児の全集を読み進めていく。ここからの焦点は、ハンの文明批判の枠組みと川面の神道神学をうまく組み合わせていくことである。そうした着想を持った自分がその仕事をなさなければならない。これは是非とも大学院で論文の形として結実させたく、またその成果を一般書の形で共有できたらと思う。とにかく今は楽しみと期待しかない状況だ。フローニンゲン:2022/6/21(火)16:35


8644. 川面凡児全集に背筋を正されて


学術研究というのは、本当に恐ろしいものである。道を誤れば、人生をいとも簡単に棒に降ってしまうことができるものなのだ。本日受け取った川面凡児全集の梱包を紐解き、中身を眺めながらそのようなことを強く思った。さて、これからどのように研究を進めて行こうか。本書の出版年は、昭和14年(1939年)であり、文章の日本語が現代の日本語ではなく、非常に難解である。また、川面凡児が漢文の才能があり、漢文の教育を積んでいたこともあり、漢文の文章が随所にある。当時の川面は、欧米人にその思想を伝えるよりも、中国人にその思想を伝えることが先決だと考えていたようであり、それゆえに漢文の文章が多いのだ。漢文と擬古文の読みこなしをしなけれならないというのは、大学入試以来のことである。正直なところ、英語の学術書を読み解く方が圧倒的に容易である。険しい道に飛び込んでしまったものだ。今、背筋が正されるような思いがある。格闘しがいのある全集が届けられ、身も心も引き締まっている。この全10巻の全集を最初から最後まで読み通そうとすると、それだけ人生が終わってしまうだろう。それを避けるためには、テーマを決めて、迷宮に迷わないようにすることが賢明そうだ。まずは川面神道神学の真髄とも言える霊魂観の理解を深めていこうと思ったところ、全集第1巻の第2章の霊魂観だけで400ページもあることに気づいた。それを精緻に読み解いていくだけでも英語での博士論文が書けてしまいそうである。だが、今この瞬間の自分の知識と読解力では到底手に負えなさそうであることが即座にわかる。それであれば、今の自分の最大の関心事項で文明学に近しいテーマとして、「社会組織の根本原理」の章から読み進めていくのがいいだろうか。全集第7巻の根本原理編が、人間本性と社会の根本原理について取り扱っているので、まずは第7巻から読み進めるのがいいかもしれない。進みやすい道を選ぶのか、茨の道を選ぶのか、非常に難しいところだが、道の易難で意思決定するのではなく、研究の意義を最優先させたい。いずれの章から出発したとしても、読み方を工夫しなければならないだろう。それには試行錯誤が要求される。明日からはまずは、全集第7巻から読み進め、絶えずビョンチョル·ハンの文明批判とのつながりをまずは意識してみようと思う。


今回お世話になった東洋堂書店さんの迅速な対応と丁寧な梱包に感謝をしたい。ゆっくりと梱包を紐解きながら、この全集を郵送してくださった東洋堂書店さんの思いを感じる。この全集を開いてみて驚いたのだが、古書のはずなのだが、とても状態が良い。おそらく前の持ち主はこの本を読み解くことができなかったのだろう。全く読んだ形跡がないほどなのだ。上述の通り、この全集の分量と難易度を考えたら、それも無理はない。だが、自分はこの全集を必ず読み解いていく。神道神学とその世界観を通じて、独自の観点から文明の治癒と変容に向けた文明批判を行なっていくのである。早く論文や書籍が書きたい。その焦る思いを抑えながら、今は耐えに耐える形で文献読解を進めていく。ひたすらに。ひたすらに。ただひたすらに。フローニンゲン:2022/6/21(火)20:03

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