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8396-8402: フローニンゲンからの便り 2022年5月15日(日)



No.3640 セレンディピティの数珠_A Rosary of Serendipity


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1522, Unification

The more I relax myself, the more transparent the ego becomes.

Then, the self and the world merge together.

Groningen; 08:57, 5/15/2022


No.1523, Infinity and Finitude

Without infinity, finitude would not exist.

Without finitude, infinity would not exist.

Both bolster and prove each existence.

Groningen; 10:59, 5/15/2022


No.1524, The Shared Center Point

Every existence has a center point.

All center points share one point,

Which is the origin of everything and the ultimate source of creation.

Groningen; 11:12, 5/15/2022


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本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8396. 朝の輝きの中で

8397. 今朝方の印象的な夢

8398. 夢を改めて振り返って

8399. マヨルカ島とマルセイユを想って/中心点の重なり

8400. 時の始まりと時の終わり/書くことと死の超克

8401. 土の存在と土と触れ合うことの大切さ/主客の実相

8402. 今こことの和合/存在の往還過程/輝きと化す自己と世界


8396. 朝の輝きの中で


時刻は午前7時を迎えた。この時間帯でもすでに朝日が燦然と輝いていて、目の前の世界には希望が満ち溢れている。家の目の前の木々の葉が、朝日を浴びて黄金色に輝いている。とても美しい光景が目の前に広がっている。それは本来何の変哲もない光景なのかもしれないが、透き通った心でそれを眺めてみると、景色は輝きだす。だから「光景」というのだろうか。そうなのかもしれない。景観には元々光が内在していたのである。あるいは、景観とは光であるとも言えるかもしれない。そうした美しい光景の背後で、小鳥たちが小さく鳴き声を上げている。これがまたすこぶる美しい。彼らの鳴き声に耳を澄ませていると、黙想的な気分になる。まるで瞑想をしているかのように、自然と深い意識に誘われる。人間の脳と意識は自然の産物であり、自然と一体となることによって、それは自然と深い意識状態に変化するのかもしれない。そのようなことを改めて教えてくれる朝だ。


素晴らしい朝の時間に浸りながら、昨日訪れたフローニンゲン大学博物館について思い出していた。やはり昨日足を運んで良かったと思う。昨日は読書は程々にして、午後の時間はフローニンゲンの街の中心部で過ごしていた。博物館で過ごした時間が大半だが、この博物館での時間に関する特別展示からは大いに学びを得た。細かな知識についてここで列挙しても仕方ないのでそれをすることはしないが、日々の時間との向き合い方において色々と考えさせられることがあったのである。それは反省というよりも、これまでの時間との向き合い方を肯定するようなものが大半であり、今の時間との向き合い方をこれからも継続させようと思ったのである。あるいは、さらに密に時間と接してみようという思いも持った。今日からはそれが体現された時間の過ごし形になるだろう。より一層時間を充実感と至福さに満たされたものにしていきたい。


今日もどうやら天気がすこぶる良いようだ。目の前の木々の葉に目を凝らしてみると、若干葉が揺れている。それくらいに微風のそよ風が吹いている。そうした風の美しさに気づく時、それは美風となる。自らが美風と化し、どこまでも飛んでいきたい気持ち。魂が美風となって、魂はどこまでも果てしなく望むところに出かけていくことができる。自分の魂は美風として生きていくことができる。そんな直感がある。


それでは今日もまた、自分の取り組みに励んでいこうと思う。今日からはまた川面凡児の神道神学に関する書籍を読んでいこうかと思う。それは今回再読にあたるので、ゆっくりと丁寧に読み進めていこう。フローニンゲン:2022/5/15(日)07:21


8397. 今朝方の印象的な夢


時と一体化となり、進行しない時の流れと化している自己。時の表層は流れゆくが、時の深層は流れない。時の深層に自己はいて、時と同化している。


今朝方は1つ印象的な夢を見ていた。夢の感覚が残っているうちに忘れないように書き留めておこう。夢の中で私は、大学の支部会に参加していた。支部会は海外にもあるが、その時に参加していたのは大阪の支部会だった。その席で、ある日本の大型書店のCEOの大先輩と仲良くなった。その方と私は父以上の年齢差があり、その方はもう70歳近かった。その方は私に好意を持ってくださったらしく、今度CEOを退任したら、代わりにCEOになってくれないかと優しい微笑みを浮かべながら述べた。私は、それは完全に冗談だと思っていたのだが、その大型書店は海外展開もしていて、アメリカに住んでいた時にもお世話になっていたことを思い出した。自分にとって、その書店はとても愛着のあるものだったのだ。なので、冗談でもCEO就任の話をいただけたことは嬉しかった。その話は冗談だと思っていたので、私はその方に、「自分でよろしければいつでも」と微笑みながら述べた。すると、なんとその場でそのCEOの方は退任宣言をし、「それでは明日からよろしく」と私にCEOの座を譲ったのである。あまりにも突然のことだったので、私は唖然としてしまった。しかし、どうやら私は本当にCEOに就任してしまったようだった。


気がつくと、私の体はその大型書店のオフィスにあった。本社のビルはすこぶる立派であり、その最上階がCEOの部屋だった。社長秘書の女性が部屋に入ってくると、驚いたことに、秘書のその女性は小中学校時代の友人だった。その友人は結構気が強く、何やら以前自分が出版した書籍の最後のページの解説の箇所を彼女が執筆してくれた時に、今回のCEO就任を予言していたと突然話し始めた。そんなこともあったかなぁと思っていると、彼女は目の前にその書籍を突き出してきて、自分に見せた。すると、確かに彼女が執筆した文章の中に、今回のCEO就任の予言めいたことが書かれていたので驚いた。そして、改めてそれを認め、彼女の慧眼を褒めた。すると、少し彼女は機嫌を良くして、これからCEO就任にあたってやるべきことを教えてくれた。まずは今から役員ミーティングがあるらしく、そこで最初の年俸が決まるとのことだった。私はすでに投資を通じて資産形成を終えていたので、役員報酬は別に期待していなかった。それよりも、この会社のCEOになってやりたいことがいくつもあり、早くそれらをやっていきたいと思っていた。


いざミーティングが始まると、自分の初年度の役員報酬は3000万円に設定された。私がまだ若く、この業界の経験がないために、それくらいの金額に抑えられることになった。まぁそんなものだろうと思っていたので、私は特に交渉することもなく、その金額で承諾した。ミーティングを終え、私はすぐに国内の自社の全ての書店を巡りたいと思った。国内出張の形で、それらの書店に挨拶に行き、書店の店員たちと一緒になってより良い書店作りがしたいと思ったのである。そのためには、まずは現場を見ることが大事だと思ったのだ。この案が承諾されるかはわからなかったが、とりあえず秘書に伝え、日程を確保してもらうことにした。そこでふと、CEOに就任する前にすでに予定を立てていた海外旅行が台無しになってしまうことに気づいた。CEOに就任したので、ふらっと海外に旅行に行くことは難しくなってしまい、予約したホテルやフライトをキャンセルしなければならないと思ったのである。それはとても残念であり、やはり会社組織に所属してしまうと、本質的な自由は享受できないと再確認させられた。そして、それは自分にとってやはり苦痛であった。10日ぐらいならCEOなしでもなんとか会社を回せるのではないかと思ったが、さすがに黙ってふらっと海外に行くのは、就任早々物議を醸しそうだったので、旅行は見送ることにした。すると、自分と同い年ぐらいの若い社員が社長室に入ってきて、今日のこれからの仕事の話をしてくれた。何やら早速、得意先の会社の社長たちにそれぞれ挨拶に出かけていく必要があるらしく、ビルの一階に向かった。ビルの一階には、社長専用の車があり、それに乗り込んだ時に、書店に併設されている映画は、社長であれば見放題なのかとその若い社員に尋ねたら、「社長だったら大丈夫だと思いますよ」と笑いながら答えてくれた。歴代のCEOはどうやらそのようなことはしてなかったらしいが、社長であればそういう細やかな特権があるようだったので、少し嬉しくなった。


しかしながら、実はCEOに就任するよりも先に、自分は映画俳優の仕事を引き受けていたのである。私は、映画マトリックスの最新作に主演の1人として参加することになっていて、ネオ、トリニティ、モーフィアスを演じるそれぞれの名俳優たちと親交があって、彼ら3人が今度の最新作に出演してみないかと声を掛けてくれたのである。それもまた冗談かと思ったので、私はそこでも勢いで承諾の返事をしていた。すると、彼らは本当に私に出演依頼をしていたらしく、CEOに就任した今日がちょうど撮影日の初日だった。私は書店の部下に、CEOと映画俳優の仕事を両立させることは可能かと尋ねたところ、部下たちはきょとんとした目をしていた。どうやらそれは前代未聞のこととのことであり、それが可能なのか不可能なのかもわからないということだった。


本社は日本にあるはずなのだが、ビルを出発した車はなんとニューヨークの街を走っていた。すると、ある信号機のところで無理やり車が止められた。みると、そこにはマトリックスの撮影部隊がいて、私は彼らに引っ張られる形で、今から撮影に参加することになった。その日は寝癖も直しておらず、ヒゲも剃っていなかったので、そんな身なりで大丈夫かと思ったが、編集技術があるので問題ないとのことだった。私は、その場にいた3人の主演俳優に挨拶し、久しぶりの再会を祝った。もう映画の中にいるような感覚で彼らに接していたので、彼らのことは劇中の名前で呼んでいた。ネオには、今からの撮影場面の舞台設定について質問し、セリフを覚えるコツを聞いた。すると、セリフを覚えることに関しては何も心配いらないとのことだったが、そのコツを1つ聞いた。そのコツをもとにすれば、自分でもなんとか演じることができそうだと思った。


いざ撮影が始まる時に、交差点の向こうから大量のランナーが走ってきた。どうやら今日はニューヨーク市を上げたマラソン大会の日のようだった。ランナーが大量に流れ込んできて、信号機が赤になると、後続のランナーたちは信号機のところで止められた。にもかかわらず、さらに後続の2人のランナーが信号機を無視して交差点に侵入し、危うくトラックに轢かれそうになったが、なんとか無事にすり抜けた。そもそもマラソン大会がある時は交通規制がされているはずであり、信号機が変わったりすることはなく、ランナーは道路を安全に走れるはずなので、目の前の光景の不思議さを思った。いずれにせよ、2人のランナーは無事だったが、そばにいた係員が彼ら2人は交通ルールを違反したので失格にしなければならないと述べていた。そこからようやく撮影が始まることになり、いざ撮影が始まろうとした瞬間に、自分はCEOを引き受けたことも、映画俳優を引き受けたことも後悔した。どちらも思っていた以上に大変そうであり、自分がこれまでの生活で享受していた自由を一度手放さないといけないとわかったのである。そこで私は、やはりこれまでの自由を謳歌していた生活が一番理想的だったと思い、以前の状態に戻りたいと心の中で願った。すると目が覚め、寝室のベッドの上で、元の自由な生活がここにあることを知って、心底ホッとした。フローニンゲン:2022/5/15(日)07:56


8398. 夢を改めて振り返って


輝く朝日と静けさに包まれた日曜日の朝の世界が目の前に広がっている。自己はそこに心底寛いでいる。自己が世界の中に溶け出し、世界と一体となっているかのようだ。


今朝方の夢を今改めて思い出してみると、実に示唆深いものであったことがわかる。主題として、自由を扱うものであった。CEOに就任し、映画俳優の仕事も引き受けた自分は、最初それらの仕事を担うことに乗り気だった。というのも、変化を求めていた自分がいたことは確かなのだ。しかしながら、いざCEOの仕事を初めてみると、ものの数時間でその仕事がいかに窮屈なものであるかを知った。企業の代表を務めるというのは、いくらやりがいがあるといっても自由を束縛する側面が非常に強いことを即座に感じ取ったのである。俳優の仕事に関しても同様だった。舞台裏では意外と地味なことに時間を使う必要があり、それをしなければ良い演技ができないことを知った。また、演技をするまでの待ち時間が自分にはどこか無駄なように思えてしまい、1回の撮影による拘束時間が自分の自由をひどく束縛するものであることを知った。夢の中の最後の方では、それらの仕事を引き受けたことを後悔していたぐらいだ。自分はやはり、毎日気ままに読書や創作活動をし、自由に旅に出かけていくことを本分とする生き方をしたいと改めて思った。目覚めた時、そうした自由が享受できる世界に戻ってきたことを心底喜んだ。今の生き方には、自分が望む自由が体現されている。そんなことを思ったのである。


ここで、夢の中の自分が変化を求めていたことについて改めて考えている。確かに、今の自分も変化を求めているように思う。いや、変化を求めるというのは自己の本質であり、絶えず自分は何かしらの変化を求めていると言えるだろう。夢の中では、変化を組織に所属することや数多くの関係当事者と協働しなければならない仕事に求めてしまったことに問題があったのかもしれない。自分が求めている変化は、そうした自己を拘束するようなものではなく、自己をさらに自由にするような変化のはずである。今後変化を起こす際には、その点について注意しなければいけない。来年から仮に神学大学院に進学することになったら、その変化はどのように意味づけることができるだろうか。学術機関に所属するというのは自分にとって、確かに窮屈な側面がある。ただし、今度の場合は、自己を窒息させるような窮屈さではなく、ある意味学術機関を型として活用することで自分の研究を進めていきたいという思いがある。それは、深い自由を体現する上で必要な型だという認識をしている。自由に好きな研究をするために必要不可欠な型を求め、型を習得することを念頭において、再度学術機関に所属しよう。そのような思いを新たにする。フローニンゲン:2022/5/15(日)09:37


8399. マヨルカ島とマルセイユを想って/中心点の重なり


青空を眺めていると、ふとマヨルカ島へ足を運んでみたくなった。ここはスペインの風光明媚な島であり、以前より一度訪れてみたいと思っていたのだ。幸にもフローニンゲン空港からマヨルカへは直行便があり、フローニンゲンから行くには便利である。今年の年末年始は、冬でも比較的暖かいモナコ公国で過ごそうと思っていた。モナコで年末年始を過ごしたその足で、マヨルカ島へ行ってみるのもいいかもしれない。モナコ公国はフランスに面していて、フランスのマルセイユにもアクセスがいい。調べてみると、列車で3時間ほどの距離なので、モナコ公国に訪れた後にマルセイユに行くのかマヨルカ島へ行くのか迷うところである。観光というよりも風光明媚な場所でゆっくりするのならマヨルカ島へ行くのが良さそうであり、美術館などを見て回るのであればマルセイユに行ってみたい。年末まではまだ時間があるので、2つの選択肢をもう少し検討してみよう。


人間の思考も感覚も含めた万物は、全て中心点を持ち、それらの中心点は同一点を持ってそこで重なり合う。万物が相互依存を成している所以は、その性質にあるのではないだろうか。全てが繋がっているというのは、同一の点を共有しているからだったのだ。全ての存在は中心点を持ち、それらの中心点はある一点で重なっているのだ。共有されたその一点こそ万物の始原であり、本源である。そのようなビジョンが降ってきた。そのようなビジョンがやってくることを祝うかのように、小鳥たちが午後の時間を楽しんでいる。自分もまた彼らのように音楽と化し、世界と一体化する。この境地。この状態。それは神人不二のあり方を体現している。夕方の時はこれからその密度を深め、夜にバトンを渡し、人生のある1日として自己の存在に時が刻まれていく。フローニンゲン:2022/5/15(日)14:52


8400. 時の始まりと時の終わり/書くことと死の超克


時の始まりから時の終わりの旅が始まり、時の終わりから時の始まりの旅が始まる。新たな旅がまた始まろうとしている。人生はこのように連続的な旅の過程なのだ。始まりが終わりにつながり、終わりが始まりにつながっているという無限の円環的な構造。その中に自分がいて、その構造こそが自己そのものに他ならないことが見えてくる。自己はその構造の中で円環運動を絶えず続け、螺旋的な発達プロセスを描く。その軌跡をずっと眺めながら、自分は少しずつ高みに向かっていく。


世界に常に体現され、この瞬間にも具現化している聖性に畏怖の念を覚える。そしてそれを拝む。聖性の中に真に寛ぎ、その中を生きる時、聖性を通じた徳が芽生える。その徳を持ってしてこの世界に関与していくこと。それが徳ある実践者の姿である。


元来書くという行為は、粘土板に文字を刻む行為を指していた。書くというのは刻印することであり、文字を彫るという意味を元来有していることを考えてみると、書くという行為はやはり発達原理の本質と合致していることがわかる。自己というのもまた、粘土板に文字を刻むかのようにして自己を刻みながら自己を超出していくのである。書くという行為もまた書く手段と合わせて考えなければならず、そこには技術論の考え方が入ってくる余地がある。テクノロジー哲学者のバーナード·スティグラーが書くという行為をどのように捉えていたのかをまた参考にしてみなければなるまい。デリダの論をさらに発展させ、書くという行為のより深い意味を見いだしたスティグラーの思想を参照点にしてみよう。書くことは記録することであり、記憶とも密接に繋がっている。自己は自己であること、あるいは自己であったことを書くという行為を通じて刻むことによって、それを土台にして新たな自己に向かう。書くことはひょっとしたら、死を超克しようとする行為だったのかもしれない。自己を刻むことによって、永遠の今を継続させる営み。それが書くという行為の深い性質なのかもしれない。自己は書き、そして書かれることによって永遠を獲得し、永遠と化すことによって死を超越していく。その時に初めて本質的な自己超越が実現されると見ることができるかもしれない。そんな考えがふっと湧き上がって来た昼下がりの日曜日である。フローニンゲン:2022/5/15(日)15:11


8401. 土の存在と土と触れ合うことの大切さ/主客の実相


今住んでいる家には庭があり、また農作物を育てる小さな畑もある。そこでは土と触れ合うことができ、大地に根ざした生活を実感させてくれるには十分である。私たちは現代的な街の中で生きる時、土と随分と隔離した形で生活を営んでいることに気づくのではないだろうか。そこでふと、果たして土と切り離された状況は、真にこの地上での生を生きていると言えるのだろうかと考えた。現代人は、土を奪われ、大地との関係性を喪失してしまったようだ。都市の地面はコンクリートで覆われ、人新世の影響で包囲されてしまっている。現代の人間関係の希薄さや、人間をもの化する傾向というのは、もしかしたら大地の去勢によるのかもしれない。人はいつしか大地との関係を断ち、土と触れ合うことを忘れたことによって、人間を含めた自然との関係性の構築の仕方を忘れてしまったのではないだろうか。それは方法論の問題ではなく、そうした関係性を構築する感性を奪われてしまったのだと思う。土の存在と土と触れ合うことの大切さをしみじみと感じさせる。このテーマについても研究と実践をしていきたいという思いが現れる。それは大地に立脚した自己の本質から生まれてくる強い願いである。


主観が極度に純化すると、ふと極度に濃縮化された客観が姿を現す。その逆また然りである。そこに、主観の中に客観があり、客観の中に主観があることを見る。絶えずこうした合観を持って自己と世界を眺めること。さもなければ、認識に偏りが生じ、思わぬ落とし穴にはまってしまうだろう。表を見て裏を見ること、裏を見て表を見ること。絶えず存在の表裏を見ること。そうすれば、存在の表裏の扉の向こうにある真理を見ることができる。


小鳥たちの鳴き声は、この世界の恩寵である。それは生の恩寵の化身であり、この生を深く味わうことの大切さを伝えている。存在を恩寵そのものとピタリと一致させること。生の恩寵を対象化するのではなく、主体としてそれと完全に一体となること。そうした主客合一を果たして初めて、生の本当の喜びが爆発してくる。フローニンゲン:2022/5/15(日)15:29


8402. 今こことの和合/存在の往還過程/輝きと化す自己と世界


今ここと分離するのではなく、それと和合すること。それが生の充実感の中に浸ることの第一原則である。その逆もまた然りである。生の充実感に浸ることが、今こことの和合を実現させてくれる。そうすると、自我はちっぽけな殻を破り、本来の自己に溶解していく。こうしたことを日々行っていくことが、自己の純化過程を歩むということである。それを促す触媒的体験として旅がある。しかし大事なことは、旅を通じて一時的にそうした状態に参入するのではなく、毎日そうした状態に参入していることが重要なのだ。恒常的にそうした状態に参入すればするだけ、自己は純化の歩みを進めていく。その先に待っているのは神人合一であり、絶対無と絶対有の世界との結合である。それができれば、自己は至福さとして生きることができる。そして、そうした生き方が永遠に橋を架け、他者が永遠に至るための礎になる。自己を永遠世界に導き、他者が永遠世界に参入する手助けをすること。それを意図せずして、一切の私的な考えと感情を交えずに実現させていくこと。今、自分の自己はその道を歩んでいる。


逝くものは必ず還る。還るものは必ず逝く。存在の往還過程を眺めている自己は、実はそれが自己そのものを表していることを悟る。


世界が玉虫色に輝いているように知覚される。小鳥の鳴き声もまた玉虫色に輝いている。この知覚現象は何なのだろうか。それは間違いなく、生の充実さを物語っていることは確かだ。また、それが至福さの現れとなっていることも確かだ。自分の魂の色彩感覚が変容していることを実感する毎日だ。それは一段と深い色彩世界を自己に対して顕現させてくれている。世界と自己は合わせ鏡であるから、自己は自らもまた豊かな色彩世界であることに気づく。豊穣な色彩世界としての自己と世界が手を繋ぎ、1つの鏡として存在している。自己も世界も鏡だったのだ。しかもそれらは2つあって初めて1つの鏡となる。ここに、神道における三種の神器の1つの八咫鏡(やたのかがみ)の深層的な意味を見る。


時間もまた玉虫色に輝いている。時間も空間も玉虫色に彩られる時、自己も世界も全てが浄土的極彩色を放つ。フローニンゲン:2022/5/15(日)15:44

 
 
 

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