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8383-8389: フローニンゲンからの便り 2022年5月13日(金)



No.3641 セレンディピティの線香_An Incense Stick of Serendipity


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1518 An Immovable Pile

I can wait although the world hates waiting.

I’m an immovable pile in a flowing river.

Groningen; 07:45, 5/13/2022


No.1519, My Mind

My mind is filled with deep silence.

It is like the depth of the ocean.

All of my creations come from there.

Groningen; 19:57, 5/13/2022


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本日の3曲


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タイトル一覧

8383. 神道をベースにしたテクノロジー神学とマネー神学の創出に向けて

8384. 今朝方の夢

8385. 一念三千/恒常の中今

8386. 充実感と至福さで測られる時の流れ

8387. 神秘的なもの・超越的なもの

8388. 幸福の在り処

8389. 寂光の浄土に佇んで/秘すれば花


8383. 神道をベースにしたテクノロジー神学とマネー神学の創出に向けて


時刻は午前7時半に近づいている。今朝は少しばかり空に雲がかかっていて、燦然と輝く朝日を拝むことができない。それでも朝の世界の穏やかさは変わりない。ここのところは暖かくなってきたおかげか、書斎の窓から見える世界に緑が増えた。もう溢れんばかりの緑が見える。ここからオランダはとても良いシーズンに入る。寒くも暑くもなく、清々しい気候が8月の半ばまで続くのが例年である。ここからは大いにそうした気候を楽しもう。ここから年末にかけては、毎月どこかに旅を出かけていく。それはある意味贅沢なことなのかもしれない。そうした贅沢に感謝しながら、旅から得られる刺激と洞察の恩恵に浸らせてもらおう。8月を過ぎて、目処としては9月に永住権の申請をしておきたいと思う。秋以降は神学大学院への出願に向けて色々とやることがあるので、永住権に向けた申請はその前に済ませておくのが賢明だろう。オランダにやってくる前は、まさか自分がオランダ永住権と欧州永住権を申請することになるとは思ってもいなかったが、人生は本当に何が起こるかわからず、その土地に捕まり、その土地を愛するということが起こるようだ。


今日もまた創作活動と読書に励もう。読書に関していえば、昨日はロイ·バスカーの書籍を読んだ後、バスカーが提唱した批判的実在論を経済学批判に応用した書籍も読んでいた。その他にも、ヒルマ·アフ·クリントの2冊の画集を読み進めたり、言霊学に関する書籍も読んでいた。本日は、言霊学に関する書籍の続きを読み進めようかと思う。バーナード·スティグラーやアンドリュー·フィーンバーグのテクノロジー哲学に関する書籍を読み進めることも考えたが、それはもう少し後でもいいように思えた。ジャック·エラルのテクノロジー神学の書籍を読み進めることによって、前者2人のテクノロジー思想を神学と連結させていきたいと思う。そして、エラルのテクノロジー神学と自分のアプローチが違う点は、連結させる神学はキリスト教神学ではなく、神道神学であるという点だ。今読み進めている言霊学の書籍や、川面凡児全集は、自分なりのテクノロジー神学の創出に向けた礎になる。これと同様に、マネー神学においても、フィリップ·グッドチャイルドが行ったキリスト教神学への連結ではなく、神道神学への連結を目論んでいる。これを実現するためには、マネーの内在的性質に関する深い理解に加えて、神道神学の深い理解が求められる。テクノロジー神学の創出の実現に向けても同じことが条件として浮上する。ここからはそれを意識した読書に取り組むことにする。ロイ·バスカーの批判的実在論についても、どこかで自分の取り組みに連結してくるだろう。今はそうしたことを特に意識することなく、探究したいことを思う存分探究すればいい。それがいつか自然と思わぬ形で繋がりを生むということを自分はもう知っているのだから。フローニンゲン:2022/5/13(金)07:36


8384. 今朝方の夢


今朝はまだ小鳥たちの鳴き声が聞こえてこない。空が曇っていると、彼らが鳴き声を上げる時間帯も少し変化するようだ。彼らの鳴き声が聞こえてくるのをじっと待とう。この待つという行為がどれほど大事なことか。現代のように足早に流れていく時間的世界の中で、そして急かしてなんでも時間を短縮して行おうとする風潮のある現代社会において、待つというシンプルな行為の尊さが滲む。とりわけ発達において、この待つという行為の意義と価値は極めて大きい。待つという行為が集合規模で蔑ろにされているこの現代社会は、なるほど発達を拒んでいる社会だと言えなくもない。待てない人間に、待てない社会に本質的な発達など起こり得ようがないのだ。ほら、小鳥たちが鳴き始めた。待っていれば、彼らはその期待に応えて美しい鳴き声を上げ始めてくれたじゃないか。待つことを蔑ろにし、待つことの価値を貶めるこの社会にあって、自分は断固として待つ。諸々のことを待つ。とりわけ自分の内側で進行している最重要な種々の内的変化に関しては、断固として待つという姿勢を崩さない。流れゆく川に打ち込まれた1つの不動の杭としての役割を自分は担っていく。


意識が今朝方の夢の世界に帰っていく。今朝方は2つほど夢を見ていた。最初の夢において、私は香港人の見知らぬ女性と会話をしていた。その女性は私とほぼ同年代であり、世代が同じだったこともあって、非常に話しやすかった。しばらく話をしていると、彼女はもうすぐ香港に帰ることにしたと教えてくれた。なので香港に帰る前に、一緒に食事でもどうかと私の方から声を掛け、これから近くのレストランに行くことにした。彼女は話をしている最中は常に微笑みを浮かべていて、とても楽しそうにしていた。それを見ている私も楽しい気分になり、彼女の心の清々しさに敬意を持った。そのような場面があったのを覚えている。実際にはこの夢の場面の前に、バスケをしている夢があったように思う。中学校時代のバスケ部の先輩たちと一緒にバスケをし、その後、先輩たちと一緒に何かについて話をしていた。それは受験に関することだっただろうか。先輩たちと受験に関する話をしていたら、突然大学時代のサークルの先輩たちが現れ、彼らとは大学における各自の専攻に関する話や就職に関する話をしていた。中学校時代の先輩にせよ、大学時代の先輩たちにせよ、先輩たちとは真面目な話を随分としていたものだ。


次の夢の場面では、小中高時代の女性友達(NI)のお父さんと話をしていた。彼女の父は小柄であり、彼女のお父さんと私の友人の3人で一緒に住宅地の道を歩いていた。彼女のお父さんはどうやら肩甲骨周りが凝っているようだったので、友人と私は一緒になって彼女のお父さんの肩甲骨を解した。すると、肩甲骨周りの凝りが随分と解れたようであり、彼女のお父さんは嬉しそうに肩甲骨を回し、肩が軽くなったことを喜んでいた。そんな夢の場面もあった。フローニンゲン:2022/5/13(金)07:52


8385. 一念三千/恒常の中今


一念三千。それは天台の教えであるが、この考え方に共感している自分がいる。この瞬間に生起消滅する一つの念の中に三千もの内容があること。三千という数字へのこだわりは自分にはないが、一念に無数の意味内容が内包されていることはよくわかる。自分は日々そうした一念と向き合い、その意味を紐解く形で全ての創作活動に従事していることがわかる。日記や夢日記もまた然りである。一つの夢の一刹那にも無数の意味内容が含まれていて、自分は毎日そうしたものと向かい合っていたのである。一念三千が自分の生き方として体現されていく。


恒常の中今を見出し、そこに寛ぐこと。古事記はそれを教えてくれている。どこかのタイミングで古事記と日本書紀を精読しなければならないだろう。それは学術的な研究の目的もあるが、自らの肥やしとしての重要性を多分に持つ。そして自我を超出し、この世界と一つになりながらこの世界に関与していくことを実現する上での重要性を持つ。


今日は午後にジムに行って、いつものようにジークンドーの鍛錬をして、サウナに入ってこようと思う。帰りに道には近所のオーガニックスーパーに立ち寄って買い物をするだけではなく、おもちゃ屋に立ち寄って書籍の受け取りをしたい。どうやら箏の歴史に関する和書が届いたようなのだ。近々また川面凡児に関する書籍が2冊届く。それらの到着が今から非常に楽しみであり、ゆっくりとだが着実に川面神道神学の理解を深めていく。


先ほど、テクノロジー哲学者のバーナード·スティグラーの主著“Technics and Time”の3巻を本棚から取り出した。それらを無性に読みたい衝動が襲ってきたので、今日か明日から3読目となる読書を開始させよう。スティグラーのテクノロジー哲学は、川面神道神学との連結を通じてテクノロジー神学を創出していく際に大きな役割を果たす。その実現に向けた位置づけとして読書に当たろう。フローニンゲン:2022/5/13(金)10:20


8386. 充実感と至福さで測られる時の流れ


詩的高揚感に満ちた朝の世界にあって、自己はそれを内側に蓄えながら自らの活動に従事している。時はゆっくりと流れ、時刻は正午に近づいていく。時の流れは、自分の内側を流れる充実感と至福さによってのみ測りたい。心底そのように思う。時が刻まれるというのは、内側の充実感と至福さが形となって現れるということなのだ。そうした形を絶えず刻み出していく形で日々を生きていこう。


今朝は早朝より、箏の演奏を聞いている。箏の音は実に心地良、魂に深く沁み入っていく。その感覚を享受しながら朝の読書に励んでいた。その中でふと、日本語50音の法則を活用する形で、作曲においては39の倍数のテンポではなく、 50の倍数のテンポにしてみようかと思った。それによってどのように音の響きの言霊が異なってくるのか早速実験してみた。初めて実験したので何が得られたかはまだ言葉にできないが、少なくともテンポを変えたことによって内側からの表出と表現内容の表情にも変化があったように思う。これは引き続き実験していきたい。


合理化によって窒息させられた聖なるものを復活させること。聖なるものに触れる形で日々を生きること。それらは自分に課している最上指令である。残念ながら現代は、聖なるものを喪失し掛けている。現代を覆う種々の問題の背後にはそれがあるが、多くの人はそれに無自覚なのかもしれない。聖なるものが宿る超越的な世界を見据える形で、この現代を覆う種々の問題の解決に乗り出していきたいという思いが沸々と湧いてくる。


小我がものを考え、ものを感じるのではなく、小我を超えた大我を通じて考えや感覚が生じることが理想である。小我を溶解させ、大我に寛ぐこと。それは今この瞬間において可能なことであり、絶えずその状態で毎日を生きていこう。そのような思いを新たにさせてくれる朝の世界が広がっている。フローニンゲン:2022/5/13(金)11:39


8387. 神秘的なもの・超越的なもの


神秘的、超越的なものは、単にそれを神秘的だとか超越的だとか言って眺めていても仕方ないのだ。それらが顕現する本意は、私たちがそれらを内面化することを望んでいるのだ。あるいは、それらを通じて自己の中にある未だ姿を見せていない神秘的あるいは超越的な側面を発見することを望んでいるのだ。そうした望みに気づかなければ、神秘性や超越性に溺れてしまう。重要なことは、それらに感応し、それらからの投げかけに応じることである。そうすれば、自己の内側にある神秘的なものや超越的なものは具体的な形となって徐々に姿をあらわすだろう。


間も無く正午を迎える。今日も午前の時間は矢のように素早く過ぎ去っていった。過ぎ去っていった時は、充実感と至福さで満たされていた。それが次の時間へバトンを渡し、全ての時間が充実感と至福さで構成されるようになって久しい。そうした時間感覚を通じて生きられるようになったことを喜ぼう。そして、そうした状態に達したことに感謝の念を捧げよう。さすれば、時間はさらに奥深い表情を見せてくれるに違いない。


一連の日記にせよ、他の創作物においても、創造を司る本能からの突き上げによって形が生まれてくることに気づく。言葉や芸術作品は、本来そのようにして生まれるものなのだろう。ここで言霊学の観点を用いれば、そうした本源的なものと繋がった言葉についてどのようなことが見えてくるだろうか。自分の創造的本能が体現された言葉には、何か特殊な力があるように思えてならない。この力の性質と発生メカニズムについてより詳しく知りたい。それができれば、宇宙の調和と生成により意味のある形で関与できるように思うのだ。自己はそれを望んでいる。


ふと庭の方に視線をやると、隣人のマークと彼の友人の中年男性が何か話をしている。花や野菜が育ちつつあるガーデンの前で、2人は仲良く話をしていて、その周りを中年男性の飼っている犬が鼻を地面につけながら散策を楽しんでいる。こうした日常の一コマに、宇宙の実相の一側面を見る。フローニンゲン:2022/5/13(金)11:55


8388. 幸福の在り処


忘れてはならないことがある。それは、幸福はすでに私たちに最初から与えられているということである。だが、人はとかく外側に幸福を求めたがる。それを今すぐやめてみることだ。外側に幸福を求めるのではなく、すでに自分に与えられている幸福に気づくこと。それをしなければ、いつまで経っても幸福を追い求める夢追い人になってしまう。現代では、そうした夢遊病者がいかに多いことか。その病を幸福するためには、外的刺激に晒さられることから距離を取り、静かに内面を見つめてみることは1つの方法として良いだろう。また、静かな場所で静かさを味わうこともまた最良の方法の1つである。


さらには、純粋に美しいものにただひたすらに浸ることも良い方法だろうし、聖なるものにただひたすらに浸ることも良い方法だ。重要なことは、自己の明け渡しであり、小我から離れることである。なぜなら、外側に幸福を求めるのは小我の1つの特性だからである。小我は比較を好み、自己保全を好む。自らの幸福は決して他者と比較して得られるようなものではなく、自分に唯一のものなのだ。小我はそれを発見することを妨げる。小我はそれを味わうことから私たちを遠ざける。ゆえに小我の存在と働きに自覚的になり、小我を離れることを意識的に取り組んでみることだ。この時に注意しなければならないのは、そうした取り組みをしようとする意思と主体そのものが小我である可能性である。それに対しても細心の注意を払って、小我の囚われから外に出てみると、自分にとっての本当の幸福の形が見えてくる。現代人は兎角それが下手であるが、誰しもの中にそれを実現できる能力と機会がある。それらがこれ以上劣化する前に、外側に幸福を求めるのではなく、すでに与えられた幸福に気づくことを始めなければならないように思える。正午の太陽はそれを教えてくれている。フローニンゲン:2022/5/13(金)12:04


8389. 寂光の浄土に佇んで/秘すれば花


静かな夕方の時間が目の前に広がっている。時刻はもう午後8時半だが、世界の表情は夕方のそれである。太陽はまだ沈んでおらず、1日の労いの光を地上に降り注いでいる。


虚像と実像が完全に一致する形で世界像が立ち現れる。主観と客観が1つになった統覚作用の高まりをこのところ感じる。その統覚作用を働かせると、虚像と実像が一致した境域としての寂光の浄土が見えてくる。今の自分はそこに留まりながらにして日々の活動に従事している。その状態でこれかもなお一層のことこの世界に深く関与していきたい。


本来自由であった人間の大部分が、企業社会に滅私奉公していく流れが生まれたのはいつからなのだろうか。自らの自由を投げ捨てて、不自由な社会に出家していくのはなぜだろう。本来は出家とはその逆の行動ではなかったか。世界は実に珍妙である。


人知れず創作活動を日々楽しむ自己。秘すれば花の体現された創作生活。学術研究においても秘すれば花の精神で、人知れず淡々に研究を進めていこう。そんな生活を営みながら、箏の演奏を早く始めたいと願う自分がいる。今日の午後に受け取った箏に関する歴史が綴られた書籍を読んでいると、その歴史の一端に参画する形で箏の演奏を楽しみたいと改めて思った。もちろんすでに色々と演奏したい曲があるが、究極的にはその場で曲を作り出し、即興演奏をしたいという思いが強い。とにかく自分が大切にしているのは即興性である。それは魂のその場その瞬間での燃焼に他ならず、そこに強いエネルギーと魅力を感じる。そのようなことを考えながら、今、宮城道雄氏の箏の名演を聴いている。


早朝に古事記と日本書紀をどこかのタイミングで腰を据えて読みたいということについて書いていた。偶然にも、敬愛する小説家の福永武彦氏が両書籍の現代語訳を手掛けていることを知り、その注文を夏にでもしようと思う。そうすれば、この秋にでもじっくりと読んでみることが可能になるだろう。早いもので今日ももうこんな時間だ。今からもう少しばかり読書をし、ゆっくり入浴をして、今夜も深い眠りにつきたい。フローニンゲン:2022/5/13(金)20:32

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