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7214-7217: フローニンゲンからの便り 2021年8月7日(日)



No.2564 光の泡_Bubbles of Light


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.805, Difference

Renewal, it occurs every day.

Whenever it happens, a difference between the previous self and new one emerges.

Such a difference is nourishment for development.

Groningen; 07:29, 8/7/2021


No.806, Construction of an Intellectual Gestalt

Just looking at the titles of the books that I have enables me to construct an intellectual gestalt in my mind.

I’ll take a look at them before I go to bed.

Groningen; 21:36, 8/7/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7214. 新たな景色へ/70冊ほどの書籍が届けられて

7215. 愛らしいカタツムリたち/様々な思想家から薫陶を受けて

7216. 責任について/「アテンション経済」と「リビドー経済」

7217. pharmakonとしての発達理論/成長症候群


7214. 新たな景色へ/70冊ほどの書籍が届けられて


時刻は午前6時半を迎えた。今朝は空に雲が1つもなく、青空が広がっている。


今朝もまた肌寒く、相変わらず冬の格好で過ごしているが、来週からは再び最高気温が20度を越すようだ。どうやら25度近くまで気温が上がる日もあるようなので、暖かさを感じられるのではないかと思う。夏において暑さではなく暖かさを感じるというのも不思議な気がするが、今のところフローニンゲンの夏はそのように進行している。


今朝方の夢を今思い出そうとしているのだが、今朝は少し無意識が穏やかだっただろうか。確かに起床直前においては何か印象的な夢を見ていたように思うのだが、細部までは覚えていない。


欧州のどこかの街で日本人と話をしていたのは覚えている。夢から目覚める直前にはハッとするような場面があった。あれは何だったか。話し相手の発言にハッとしたのか、それとも行動に対してだったか。あるいは目の前の光景だったか。


敷地内の端に植えられている大きな木の葉がそよ風に揺れている。その木は青々とした葉をたくさんつけていて、向こう側の景色が見えないほどだ。


そんな木も、ここから季節が秋になれば葉を落とす。あの木の向こう側の景色が開かれる時がやってくるのも近い。その時、自分の内側ではまたどのような新しい景色が広がるのだろうか。探究上における新たな景色がきっと開かれるに違いない。


昨日だけで60冊ぐらいの書籍が届けられた。これで合計70冊ほど届けられたことになる。昨日届けられた本のうち、大半は隣の家の若いオランダ人女性に預かってもらっていたのであるが、さすがにその数に驚いているようだった。


家の扉をノックし、本を受け取る際に、1回で受け取り切れなかったので、2回に分けて本を抱き抱えながら自宅に戻った。今のところ70冊ぐらいの書籍が届けられたので、残り140冊ほどが届く。あと3分の2ほどの書籍がまだこれから届くのだ。


昨日届けられた書籍の量が多かったので、夜に梱包を全て開けることができなかったほどであった。梱包を解いた書籍については、届けられた日時を記入した。


その最中に大きな笑いがやって来た。一体自分はどこに向かっているのだろうと。


今の自分は自分でもわからないところに向かって着実に進んでいる。そうそれが発達の原理である。未知なる存在に向かっていくこと。それが発達の本質なのだ。


今回注文した210冊の書籍は——さらに派生していくつか良い書籍を見つけたので、今月末にもう一度一括注文する必要が出てきた——、5年後、10年後、そしてその後に読んでも学びがあるものばかりである。


昨日はジャック·エラルやアンドリュー·フィーンバーグの書籍に大いに啓発を受けていた。今日もまた旺盛な読書をしていこう。フローニンゲン:2021/8/7(土)07:00

7215. 愛らしいカタツムリたち/様々な思想家から薫陶を受けて


時刻は午前7時を迎えた。清々しく、そして穏やかな朝の世界が広がっている。


今日は土曜日だ。世間は今夏休みなのだろうか。そういえば、日本においてはお盆休みというものがあった。それはそろそろだっただろうか。


毎日がvacationであり、vocationに従事する生活。人間はいつからかそうした生活を送らなくなり、誰かが決めた社会リズムに則って生活を送り始めたが、自分は決してそうはしない。


自分の固有の生のリズムに則って生きること。scholēを通じて、scholarとして生きること。


昨夜ふと、カタツムリは日頃どこにいるのだろうかと考えた。カタツムリは、よく雨の日に浴室の天窓に現れる。昨日も天窓に張り付きながらゆっくりと歩いていた。


自分はカタツムリが歩く姿を眺めるのが好きだ。なぜなら、彼らの歩む速度と自分の歩む速度が瓜二つだからである。カタツムリに対する強い共感の念がある。


昨夜は夕食後、近所のコピー屋に再び立ち寄り、そこで書物を再度受け取った。家の扉を開けると、敷地内に何匹ものカタツムリが地面を這っている姿を見た。私は彼らを踏まないようにして彼らの愛らしい姿を眺めながらコピー屋に向かった。


調べてみると、カタツムリは普段、日の当たらない気の葉の裏や地中に潜んでいるらしい。誰にも見られることなく、粛々と自らの人生を生きている彼らの姿。そこに自分の生きる姿を重ねてしまう。


誰にも見られていないところで常に自分の取り組みに従事し続けること。それが自分の生き方である。


多くの人は雨を嫌うかもしれないが、カタツムリにとって雨は、彼らを活動的にしてくれる天からの恵みなのだ。そのように考えると、雨に対する見方が変わってくる。


昨日、ドイツの思想家ピーター·スローターダイクやイギリスの経済地理学者のデイヴィッド·ハーヴェイの文明批判に関する書籍がいくつか届けられた。それらの書籍から大きな学びが得られるだろうという予感がする。


天才的な仕事を残したバーナード·スティグラーには改めて感銘を受ける。彼の独創性は、他の思想家と比較して際立っている。こういう人のことをきっと天才と言うのだろう。


彼の哲学書はまるで文学作品であるかのようなのだ。フランスの思想家には文学的な文体を持っている人が多い印象を受ける。


同じくテクノロジー哲学者のフィーンバーグは、どちらかというと秀才型であることが文章からわかる。スティグラーの文体からは、彼が天才型であることが見えてくる。


今、思想上の様々な巨人から薫陶を受けていることの有り難さを思う。フローニンゲン:2021/8/7(土)07:14


7216. 責任について/「アテンション経済」と「リビドー経済」


今朝方ふと、秋の朝の感じを受けた。気温としてひんやりしている感じだけではなく、自己の存在にそれが浸透していくのが秋の朝の感じであり、そこからも季節が着実に秋に向かっていることを感じる。


8月を迎え、日の出はまだ早く、日没の時間もまだ遅いのだが、それでも以前に比べてどちらも夏のそれではなくなって来ている。これまでは夜10時に就寝する際はまだ外は明るかったが、今はもう随分と薄暗くなっている。


季節の巡りに応じて、自己もまた巡りながらにして新たなところに向かっていく。オランダでの生活がなければ、内外の調和的なリズムを通じて日々の生活を形作ることはできなかったであろう。


先ほど朝風呂から上がり、この世界からの投げかけや課題に対して応答していくことが責任の本質であることを思った。すなわち、“responsibility”というのは、まさに応答する力(response + ability)のことを言うのである。


例えば社会責任というのは、社会からの投げかけに対して応答することであり、親の責任というのは、子供からの投げかけに対して応答していくことなのだ。


責任の欠落した現代社会というのは、詰まるところ応答の欠落した現代社会を表している。そのようなことを考えながら、自らの責任について考える。


使命と責任は表裏一体のものなのではないだろうか。世界からの求めが自己に振って来て、それに応答すること。それはまさに天命と責任の連関であり、同時に天命と責任というのもまた応答し合っているものなのだろう。


この世界は本来応答で成り立っているのではないだろうか。そうでないことは病理的な症状なのではないだろうか。


人間から応答する力を剥奪しているもの。その所在を明らかにする。そしてそれに対する治癒的な処方箋を見出していく。それは単に個人に対してのものだけではなく、社会に対するものもだ。


情報(information)というのは文字通り、内側(in)に形を作ること(formation)であるということについて昨日考えていた。現代社会に溢れる情報は、私たちの内側にどんなものを形成しているのだろうか。それには注意深く意識を向ける必要があるのではないかと思う。


ハーバート·サイモンはかつて、「アテンション経済(attention economy)」という言葉を提出した。それは、人々の関心や注目を獲得することが経済的価値を持ち、それらが貨幣のように交換される経済のありようを指したものだ。今まさにそれが実際に起こっている。


私たちの固有性は、本来気づきを含めた意識にあるはずだが、注意という意識作用も完全に支配·改変され、絶えず方向付けがなされている。そして経済的価値を持ち、交換に出されているのは何も私たちの注意だけではなく、ジャン·フランソワ·リオタードが「リビドー経済」という言葉を提出したように、私たちの欲望もまた経済的価値を持たされ、交換の対象になっている。


注意も欲望も、経済的交換対象に成り果てているだけではなく、それらが改変·管理の対象となっていることに危惧を覚える。また、それらが標準化され、画一化されていることにも強い危機感を持つ。


テクノロジー哲学者のバーナード·スティグラーもまたリオタードの「リビドー経済」の考え方を採用し、この考え方をさらに拡張させる形で現代の政治経済の状況へ建設的な批判を行っている。そこでは感覚の没個性化と意味構築の没個性化が問題に挙げられ、それは自分の問題意識と強く合致している。フローニンゲン:2021/8/7(土)08:19


7217. pharmakonとしての発達理論/成長症候群


時刻は午後5時を迎えた。今日も午後に近所のコピー屋に行き、書籍を受け取った。郵便受けに入っているものを合わせると、今日は20冊ほどの書籍が届けられた。今夜にはまたいくつか書籍が届けられるようである。


書斎の机は非常にスペースがあるのだが、いつの間にかもう本の山が随所にできていて、それに取り囲まれる形で日々過ごしている。書籍のタイトルを眺めるだけで知識空間に構築物が創造されていくのがわかる。


ひとたび書籍を開いて目次を眺めると、その構築物がより洗練され、複数の書籍を読み進めていくことによって異なる構築物がより大きな構築物へと統合されていく。それこそが知識体系の発達プロセスなのだろう。


今日もまた、pharmakonとしての発達理論について考えていた。発達理論というのは良薬にも毒薬にもなり、さらには3つ目の意味であるスケープゴート化される形で用いられることもある。


巷に溢れる発達理論のディスコースと実践がいずれの意味を持っているのかについて注意深くある必要がある。さもなければ思わぬ形で発達理論に取り込まれることになるだろう。


今日はデイヴィッド·ハーヴェイの書籍を2冊読み進め、それ以外にも午前中に2冊ほどの書籍を読んでいた。個人も社会も、ハーヴェイが指摘する「成長症候群」を患っている。


そこでは成長が所与の神話として信奉されていて、成長を盲信する形で突き進むことによって、いつの間にか人間性が剥奪され、そして疲弊していく。そこには意味の剥奪も見出されるだろう。


そこから派生して、意味の剥奪というのは通称「データ主義(dataism)」にも見られることに注目していた。これは意味を喪失したデータに依存するという点において虚無主義的でもある。


ハーヴェイの書籍を読みながらその他に考えていたのは、例えば世界規模のコンサルティング会社も政府機関も、それらの組織が提出する分析や施策は全て新自由主義的なレシピに留まり、それを有り難がって受け取っている一般組織と人々の滑稽さが浮き彫りになっていることについてである。


彼らは単純に教養(知識)と知性が欠落しているのではないかとさえ思える。そうでなければ、新自由主義的なレシピを無批判的に有り難がって受け取ることはないはずだ。


それとも権威を疑う気概がないだけなのだろうか。いずれにせよ、低能さと気骨のなさの蔓延は病理的である。


そう言えば今朝方はスティグラーの書籍を読み進めていた。スティグラーの指摘として印象に残っているのは、フーコーが述べる生政治は現代においてはそれほど当てはまっておらず、それを超えて心理技術的な搾取と管理の時代に突入しているというものである。


それに付随して、社会のプログラミング化も進展しており、それは暗号技術やAI技術によってさらに加速するだろう。人間と人間社会はこれからどのようになっていくのだろうか。


つぶさに観察すること、そして観察を通じて得られ気づきや洞察を共有していくこと。自分ができることはまずそれであり、それを継続して行うことが、思わぬ形で何かを生み出すのではないかと思う。フローニンゲン:2021/8/7(土)17:17

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