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7171-7175: フローニンゲンからの便り 2021年7月22日(金)



No.2508 光のシャボン玉_Soap Bubbles of Light


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.772, Sanctuary

It is important to find out both an inner and outer sanctuary which remains intact from social manipulation.

Also, it is crucial to nourish own sanctuary.

Groningen; 07:24, 7/22/2021


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本日の3曲


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楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7171. 今朝方の夢

7172. ドイツ旅行に向けて/今朝方の夢の続き

7173. テクノロジーに関する雑感

7174. 辺境人/政治的無意識

7175. 主観的感覚美的世界の死守と涵養/全能感と自己喪失/一次元的人間と二次元的社会


7171. 今朝方の夢


時刻は午前6時を迎えた。今朝は少し空に雲がかかっていて、朝日の姿はまだ見えない。気温に関しても肌寒い。


天気予報を確認すると、今日はこれから晴れ間が広がっていくようだ。明日から天気が崩れるようなので、今日は夕方に買い物に出かけよう。


今朝方は何か夢を見ていたであろうか。そう言えば、中国のどこか大きな街にいて、雑踏の中を歩いていた夢があったのを思い出す。


街をしばらく歩くと、飲食店街に辿り着き、そこで小中学校時代の友人(HY)と部活の後輩と出会った。2人は中華料理屋のテラス席で一緒にランチを食べていた。


私が2人に話しかけると、2人は私に今月末に行われるカードゲームの大会について話を持ちかけてきた。そう言えば、急遽私がその大会に彼らと一緒に参加することになっていたのを思い出した。


私はそのカードゲームのルールをまだ正確に覚えておらず、単なる数合わせとして参加するぐらいの気持ちでいた。私がどれだけそのゲームを上達したのかを知りたかったのか、2人は食事をいったん脇に置き、その場でそのゲームを始めた。


後輩が私の理解度を確かめるために、色々と質問をしてきた。私は初歩的な質問にも答えることができず、2人は怪訝そうな表情を浮かべた。ついには後輩が私に対して嫌味を述べ始めた。


その嫌味を聞いた時、私は軽く受け流そうかと思ったが、どうもそういう気持ちになれず、私は彼の頭に飛び蹴りを喰らわして、テラス席の向こう側の川に彼を突き飛ばした。彼の隣にいた友人も同様の嫌味を一言述べていたので、ついでに彼にも蹴りを喰らわし、彼も汚れた川に突き飛ばした。それによって私の気分は随分と晴れ、その店を後にした。


しばらく1人で歩いていると、前方から1人の中年の中国人男性がやって来た。すぐに私は、その人は私にアルバイトを斡旋してくれた人だと思った。いくつかアルバイト候補を教えてくれ、実際にそこに行ってみると良いと助言してくれていたのである。


気がつけば、その人が斡旋してくれたアルバイトが集まったデパートのような空間に私はいた。自分がいるフロアには、アロマセラピー専門店のようなものがあり、最初そこに行ったのだが、朝6時頃だったので人はないと思っていたところ、奥の方に店員の女性がいて、雰囲気から察するに、ここは自分が働く場所ではないと思った。


同じフロアを彷徨っていると、今度は肉屋を見つけた。肉屋でのバイトはちょっと気が引けた。ベジタリアンの自分としては、色々と肉を取り扱うことに対して抵抗があったのである。


すると、ちょうどその店の向こう側に野菜屋があり、そこで立ち止まると、ちょうど店主の中年の中国人女性がバイトを雇ってもいいと述べた。私はこの店でお世話になろうかと思ったところ、私の隣にバイトを斡旋してくれた中年の中国人男性がいて、とうもろこしを1つ買おうとしていた。


店は大盛況であり、1人で店を切り盛りするのは不可能に近いような人気ぶりだった。隣のその男性は、手に持ったとうもろこしを地面に落としてしまい、店主の女性はそれを拾い上げた。


とうもろこしの粒が少し落ちてしまったが、それはまだ立派なとうもろこしであった。だが、結局その男性はとうもろこしを買うことをやめ、挨拶だけしてその場から姿を消した。そこに残った私は、この店でちょっと働こうと思った。


すると、店主の女性は店を切り盛りするというよりも、倉庫にある物を整理して欲しいと私にお願いした。倉庫に行ってみると、レシートやポケットティッシュの使い古されたものまで、ゴミのような雑多な物で溢れていた。


そうした物を整理していくのは意外と苦ではなく、店主の女性が必要と判断するものと私が考える必要とするものの判断基準が同じだったので、その仕事は楽にできると思った。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2021/7/22(木)06:42


7172. ドイツ旅行に向けて/今朝方の夢の続き


時刻は午前6時半を迎えた。昨日、モンドリアン美術館に足を運んだことが良い休息と刺激になったようであり、これからまた旅をする生活をゆっくりと再開していこうと思った。


美術館からの帰り道、オランダのデンボスにあるヒエロニムス·ボス美術館に再来週の天気の良い日に行ってみようと思ったし、ドイツのゲーテ博物館にも足を運んでみようとふと思った。


ゲーテ博物館はドイツのデュッセルドルフとフランクフルトの2箇所にある。デュッセルドルフに関しては、ここには大学時代からの友人であるドイツ人の友人が住んでいて、彼から数年前に連絡があり、いつか遊びに来てくれと声を掛けてもらっていたことを思い出す。


彼と彼の家族に挨拶をしに行くことも兼ねて、ゲーテ博物館にも足を運びたいと思う。しかし、デュッセルドルフに行くのは今すぐではなく、来年か再来年にしようかと考えている。


フランクフルトは空港にしか立ち寄ったことがなく、こちらの街を先に訪れてみようかと思う。フランクフルトは大きい街であるから、いくつか良い美術館もあるだろう。


9月のドイツ旅行の際には、ボンからトリアーに南下する旅程を組んでいるが、その後に西に行ってルクセンブルクに立ち寄るのか、それともフランクフルトに足を伸ばすのか悩むところである。


感覚的に、ルクセンブルクに改めて足を運ぼうという気持ちに今後あまりならないのではないかと思い、もしルクセンブルクに良い美術館や博物館があれば、やはり今回はルクセンブルクに滞在することを選択したい。


ざっと調べてみたところ、フランクフルトには数多くの美術館や博物館があり、この街に滞在することだけを目的にしてもいいぐらいに思えたので、フランクフルトに行くのはまた今度にする。フランクフルトから成田の直行便がJALから出ているので、今度の一時帰国に合わせて、フランクフルトに滞在してから日本に帰るのも方法としてある。


ドイツの各都市へはオランダからだと行きやすいのだが、まだまだ足を運んだことのない街が数多くある。ここからの旅はドイツを起点に考えてもいいぐらいである。そして、タイミングを見てベルギーにも行こう。


そのような今後の旅の計画に思いを馳せていると、今朝方の夢の続きを思い出した。夢の中で、知人の画家の方が現れ、その方としばらく日本のアニメや漫画の話をして盛り上がっていた場面があった。


そこから場面が変わり、小中高時代の女性友達(NI)が現れた夢があった。学校の修学旅行か何かで欧州のどこかの街に行き、今から各人がバラバラに観光することが許可されたのだが、その前に先生が生徒全員に対して注意事項を説明していた。


そのとき私は列の一番後ろにいて、先生の話をそっちのけで、これからの観光について想像を膨らませていた。すると、私の左横にその女性友達がいて、私の方を見て微笑んでいた。


私はそれに気付いていたが、彼女と目を合わせることなく、自分の世界に入っているフリをし続けることにした。すると不思議なことに、彼女の目を通して自分の顔がどのように映っているのかが脳内に知覚され、私の顔が少年のような可愛らしい顔に見えた。そのような夢の場面があった。


今朝方の夢を振り返ってみると、やはり旅に向けて何かが動き出したかのような印象がある。旅がもたらす高揚感が夢の中にも滲み出ており、異国の地に足を運ぶことの刺激をまた求めている自分がいるようだ。フローニンゲン:2021/7/22(木)07:17


7173. テクノロジーに関する雑感


時刻は午後3時半を迎えた。昨日気分転換に国内旅行に出かけたことが功を奏してか、今日の読書はとても捗っている。やはりたまには街の外に出て、新しい刺激を入れることが大切なようだ。ここ最近行っている肉体改造トレーニングの観点で言えば、筋肉に新たな刺激を入れることでそれが成長していくのと原理は似ている。


今日のここまでの読書を通じて、雑多なことをいくつか考えていた。テクノロジーというのも基底価値、内在価値、外在価値のいずれも含む固有の創造物である点と、テクノロジーを消滅させることはできないという不可逆性により、テクノロジーといかに向き合い、それをいかに用いて社会変容を促していくかの道を探るのが賢明だという考えを一応は持っている。


この考えを洗練させていくことに並行して、テクノロジーの開発とその運用についてはより考えを洗練させていかなければならない。そのようなことを考えながら、テクノロジーが私たちの生活を豊かにするのかどうかという議論よりも、「テクノロジーが私たちの生活を豊かにする」と私たちがなぜ思い込んでしまうのかという点により関心が向かう。


同様に、テクノロジーがどのような支配をどのように生んでいるのかだけではなく、テクノロジー「としての」支配の性質を浮き彫りにしていく。現代においては、テクノロジーを通じて支配が生み出されているだけではなく、もはや支配というものそのものがテクノロジー的な性質を帯びているのだ。それは自動的に、かつ巧妙に生み出され、そして再生産されながらさらにその支配を強化していくという性質を持っている。


テクノロジーを生み出した人間がテクノロジーに支配され、支配は自動的に自己強化を続けている。人は自らが生み出したものに支配されるというのは、まさにマルクスが「疎外」と呼んだ現象だ。


人間は、自らが生み出した物から疎外されるだけではなく、生産プロセスからも疎外され、さらには自身からも疎外されていく。マルクスはそれら3つに加えて、疎外された人間は人間コミュニティーからも疎外されるということを述べている。4重の疎外構造を治癒していくにはどのようにすればいいのだろうか。


支配の話に戻ると、本来であればテクノロジーに自己が使われないようにするための統制官の役割を超自我が担うはずなのではないか。しかしながら、自我のコントロールや命令を司る超自我までもがテクノロジーの支配下に置かれ、それは私たちに機械的になることを奨励してくる。これは、「超自我の機械化」と呼べるかもしれない。


超自我がひとたび機械化されると、ここでも自己強化的フィードバックとして、人間はますます機械的な存在に成り下がっていく。フローニンゲン:2021/7/22(木)15:53


7174. 辺境人/政治的無意識


時刻は間も無く午後4時を迎えようとしている。この日記を書き留めたら、街の中心部のコーヒー屋にジョギングがてら行ってこようと思う。店は6時まで開いているので余裕がある。


午前中に偉大な社会学者の論考集を眺めていた。その中で、改めてソースティン·ヴェブレンに関心が向かった。


ヴェブレンはノルウェーの移民の子として、辺境人として幼少期を過ごし、それは学者になってからも変わらなかった。辺境人であるということが人間や社会に対する鋭い観察眼を彼にもたらした点を眺めていると、どこか自分と重ねてしまう。


自分もまた辺境人であるという認識。それが自分の中にあり、その認識がこの社会に対して、さらには文明に対して批判的な意識を投げかけているように思う。


ここ最近はフロイト派、新フロイト派、フランクフルト学派の書籍を読み返している。その理論体系と成人発達理論の体系が重なってくる。


発達の原理の1つである統合化はエロスと密接な繋がりがあり、その原理と対になっている差異化の原理はタナトスと関係している。どちらかに偏りがあると健全な発達がなしえず、病理を産む。


現代という社会は、エロスとタナトスという双方の衝動を健全に発揮し、健全に満たしていくことが非常に難しい。このあたりに発達的停滞の要因があるのかもしれない。


欲望を液状化させ、鋳型に流し込み、種々に改変させる現代文明の流れ。そうしたイメージがヴィジュアルとして脳裏に浮かんだ。


欲望は単に画一化されているのではなく、種々雑多に画一化され、そしてそれらは流動的なものにされ、構築された鋳型に沿って流れるべきところに流されていく。そのようなことを考えていると、大衆の意識の形成と操作を担うメディア(ソーシャルメディアを含む)についての理解も深めていこうという気になり、この分野に関する書籍も近々購入しようと思う。


ノエル·マカフィーというアメリカの政治思想家の用語として「政治的無意識(political unconscious)」というものがある。私たちの無意識は価値中立的ではなく、絶えず政治的であり、同時に集合的な無意識もまた政治的な性質を帯びる。


マカフィーの書籍について調べてみると、色々と興味深い書籍が見つかった。それと合わせて、コロンビア大学出版の批判理論シリーズが大変重要な書籍をいくつも出版していることを改めて知り、15冊ほどリストに加えた。


8月の頭には書籍の一括注文をしようと思っており、100冊をめどに学術書を購入しようと考えているが、再吟味して購入するべきだと判断した書籍であれば、特に上限など決めずに全て購入しておこうと思う。フローニンゲン:2021/7/22(木)16:06


7175. 主観的感覚美的世界の死守と涵養/全能感と自己喪失/一次元的人間と二次元的社会


時刻は午後8時を迎えた。穏やかな夕日がフローニンゲンの街に降り注いでいる。


夕方に街の中心部のコーヒー屋に立ち寄り、2種類のオーガニックのコーヒー豆を購入した。いつもお気に入りの豆の中から1つを選び、もう1つは新しいものを試すようにしている。


自分の手でコーヒー豆を挽き、それを味わいながら日中の活動が進行していく。明日もそういう日になるだろう。


明日はトレーニングの日である。前回は少し脇の下の筋肉に痛みがあったが、今日はもうそれがなくなっていて、明日のトレーニングは万全の状態で行えるのではないかと思う。


少しずつであるが肉体が着実に改造されているのが目に見える形でわかる。成果が可視化されることは、実践の励みになるということを改めて実感する。


己の主観的感覚美的世界を守ること。そしてそれを育むこと。作曲、絵画の創作、詩作、日記の執筆は全てそのためにある。


主観的感覚美的世界こそが自己の拠り所であり、そこが自分の固有性の最後の砦となる。それを死守し、それを絶えず育んでいく。


現代社会は人間からそうした拠り所を奪う方向性に向かっているのだ。気づかない間にそれはもう蝕まれているのである。徹頭徹尾それを守り、涵養すること。自分の人生はそのように進行していく。


現代人に見られる全能感と自己喪失というのは実に逆説的な現象である。現代社会のどのような側面がそうした病理的現象を生み出しているのだろうか。そうした病理を生み出すメカニズムにどのように介入することができるのか。探究と実践の焦点は絶えずそこにある。


現代人はマークーゼの指摘通り一次元的存在となっているが、社会はある種の二元的なものになっている。社会には、労働において自我をベースにしたひどく限定的な合理性を働かせるという極があり、人間から固有の喜びや欲望を享受させなくさせるという極がある。


現代人は労働において少なからず合理性を働かせることができるが——労働の種類によって、あるいは労働者によっては合理性を発揮できないことも多々ある——、ひとたびそうした合理性を発揮できる領域を離れると、途端に合理性を発揮できなくなる。


さらには、自分に固有の喜びや欲望を健全な形で満たすことができず、そのような側面を見ていると、現代人というのは果たして人間と呼べるのだろうかと思えてくる。合理性も働かすことができなければ、喜びや欲望の健全な満たし方も知らないというのでは人間としての資格があると言えるのだろうか。


批判の矛先はそうした人間にあるのではなく、そうした人間を大量再生産し続けるこの現代社会の精神風土と仕組みである。この大きな問題に関与していくことが自分に課せられた絶対的な役割である。フローニンゲン:2021/7/22(木)20:16

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