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7150-7152: アートの国オランダからの便り 2021年7月16日(土)



No.2479 再生誕を祝う花_A Flower for Rebirth


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.761, Death and Rebirth

Something dies, and something is reborn.

It’s me.

Death and rebirth are happening to me every day and every moment.

Groningen; 06:14, 7/16/2021


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本日生まれた3曲


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楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7150. トレーニングから一夜明けて/今朝方の夢

7151. 変容と涅槃/モンドリアン美術館に向けて

7152. 鈴木規夫さんとの対話から/夢遊病者で溢れる現代社会


7150. トレーニングから一夜明けて/今朝方の夢


時刻は午前5時半を迎えた。今、小鳥が鳴き声を上げ始めた。辺りはまだ薄暗く、気温も肌寒い。


もう7月を迎えて2週間ほどが経とうとしているが、フローニンゲンは相変わらずの涼しさである。むしろ自分にとってはこうした気温の方がありがたい。探究活動や創作活動をするにはもってこいの気候であり、何よりもトレーニングをする際に暑さは好まれない。


昨日は午後と夕食前の2回にわたって異なる部位を鍛えた。今回も体を追い込む形で鍛え、翌朝の先ほどプロテインを飲んでタンパク質を補給した。


トレーニングの翌日と翌々日は、筋肉の合成が進行しており、トレーニング直後だけではなく、それらの期間においても十分なタンパク質と栄養を補給する必要がある。


肉体改造トレーニングは、身体だけではなく精神にも強い作用を及ぼしている。また、欲求にも強い影響を与えており、身体も精神もより強靭で健全なものに生まれ変わっていることを実感する。


今のところ中2日でトレーニングをしているが、トレーニングがしたいという欲求に負けてのことなので、今回はもう1日休養日を確保し、中3日で次回のトレーニングに臨もうと思う。


自分の身体を観察していると、やはり元々筋力のある部位とあまりない部位に分かれていて、筋力のある部位に関しては中2日で問題ないが、筋肉のあまりない部位の場合、中2日だと少し痛みが残っていて、トレーニングに支障が出る。そうしたことを考えてみると、トレーニングを部位ごとに2日に分けるという方法があることに気づく。


腕や胸の筋肉はあまりついていないので、こちらは中3日にし、下半身や背中については中2日でトレーニングするという方向性を検討してみよう。個別具体的な特徴に注意しながら観察と実験を行うというのは、本当に発達科学の研究に従事していた頃に行っていたことのように思えてくる。科学的な思考というのは思わぬところで役に立つものである。


昨日に身体を追い込むトレーニングをしたことによってか、今朝方はあまり印象に残る夢を見ていなかったように思う。ただし覚えていることとして、元サッカー日本代表の数名の方たちと一緒に筋トレの話をしていたことである。


その後、彼らがサッカーの試合で遠征した先の街の見どころなどについて教えてくれていたことを思い出す。それら以外には特に覚えていることはないように思う。感覚としては、どこか快楽を覚えるような夢もあっただろうか。身体が目覚め、身体が喜ぶような快感を覚える瞬間が夢の中であった。


身体は疲れ知らずであり、回復力も早く、身体が生き生きとしている感覚があった。夢の中のそうした身体は、現実世界の身体と相似形を成している。夢の中の身体と現実世界の身体は写像関係なのかもしれない。フローニンゲン:2021/7/16(金)05:51


7151. 変容と涅槃/モンドリアン美術館に向けて


1羽の小鳥が台所の向こう側の木々に止まり、そこで清澄な鳴き声を上げている。だが、その鳴き声を聞くものは自分以外にいないように思える。


果たしてあの小鳥は誰に向かって鳴き声を上げているのだろうか。誰が聞いていなくてもいいのである。とにかく己の鳴き声を上げ続けることが尊いことなのだ。


誰にも見られない場所で、静かに佇み、静かに鳴き声を上げ続けるあの姿勢。その姿勢の中に凛とした生き様を見る。


そうした生き様からなされる行為というのは、必ず誰かに響くものである。そう、あの小鳥の鳴き声を他の小鳥が全く聞いていなかったとしても、自分が今このようにして聞いていて、そして多大な影響を受けているのだ。


小鳥の鳴き声が止んだ。きっと鳴き声が届いたのだろう。


最後には誰かに響くものなのだ。誰かに響き、誰かを動かし、誰かと共になるのである。なぜなら、全ては相互連関的世界の中で繋がり、共鳴し合っているのだから。


内側からの溢れ上がるエネルギー。もうそれを押しとどめておくことはできない。


超新星的爆発にも似たエネルギーの膨張に耐えるための身体を確立·涵養することが不可避に求められたのだということを改めて実感する。おそらく自分は全く別のところに行く。


アイデンティティとして同一性を保ちながらも、肉体も精神も今とは全く次元に行くに違いない。そうしたことを予感する。


この予感をもたらす感覚もまた変貌を遂げつつある。全てが大きく変貌しつつあるのだ。


並々ならぬエネルギーを押し殺すことなく解放させること。ただそれは利己的な形ではなく、利他的な形でなされるものとする。その方向付けは自らの意思で行わなければならない。


意思の涵養。これもまた不可避に求められる事柄である。


あまりに穏やかなフローニンゲン。朝の世界はとりわけその落ち着きが際立っている。こうした環境と対照的に、今の自分の内側には激しさが波打っている。


激しさの向こう側。そうそこに究極的な穏やかさがある。それは涅槃的な穏やかさである。


なるほど、その観点で言えば、フローニンゲンの環境と自分の内面世界は決して対照的ではない。どちらも結局は涅槃的平穏世界なのだ。


昨夜、南オランダのウィンタースウェイク(Winterswijk)という街にあるモンドリアン美術館(Villa Mondriaan)のオンラインチケットをウェブサイトを通じて入手した。次回のトレーニングの翌日は家でゆっくりしようと思ったので、トレーニングから2日経った21日の水曜日に美術館へ足を運ぶことにした。


オンラインチケットを購入しなくても、美術館でチケットを購入することもできるとのことだが、一度に入れる人数に制限があるので、事前にチケットを購入しておくことが無難であるとウェブサイトに記載があった。


30分ごとに区切られていて、どのスロットも10人を限度にしている。私は13時から鑑賞を開始することにした。


自宅から美術館までドアツードアで片道3時間弱の距離であるため、それほど遠くない。朝の10時に自宅を出発し、美術館を堪能した後に夜には自宅に戻ってこられる。


久しぶりの日帰り旅行を楽しみたいと思う。ここから旅をまた再開させたいと希求する自己がいる。それもまた魂の欲求かつ要求である。自分はそれに従うまでだ。フローニンゲン:2021/7/16(金)06:08


7152. 鈴木規夫さんとの対話から/夢遊病者で溢れる現代社会


時刻は午後7時半を迎えた。今週もまた少し誤解していたが、今日はまだ平日の金曜日であった。どこかすっかり週末の気分でいる自分がいた。


そのような気分にさせる雰囲気が早朝から醸し出されていたのである。幸いにも、2年ほど前から毎日が休日であるかのような、いや日々探究と実践を行っているという点でそれは休日とは少し違い、それでいて何にも縛られずに穏やかな心で探究と実践を行えているという点においては祝日的な形で毎日を過ごすことができている。今日はとりわけその祝日性が強く感じられ、そのために今日は土曜日だと錯覚していた。


今日は、『人が成長するとは、どういうことか ーー発達志向型能力開発のためのインテグラル·アプローチ』を5月末に出版された知人の鈴木規夫さんと明日の対談セミナーの前談として1時間半ほどお話をさせていただいた。


明日の対談セミナー以外にも、少し2人で新たな試みをしてみようという話になり、それが実現できればと思う。それが成果物として世に送り届けられるかは定かではないが、鈴木さんが企画書を書いてくださるということだったので、今日のミーティングの後にこちらからもいくつかアイデアを送った。


ちょうど今諸々の協働プロジェクトに区切りをつけさせていただき、自分の時間とエネルギーを何に充てていくかを改めて問い直していたところに、鈴木さんとの協働企画の話が浮上したことを嬉しく思う。それは今の自分が将来行なっていきたいと真に思っていることの先駆けのような試みであり、扱うテーマもまさにそうだ。


広義の文明批判とその再建の道の提言。それが今の自分にとって重要なテーマである。


午前中にふと、夢の階層構造について考える瞬間があった。社会という名の夢。そして、社会が私たちに見せてくる幾重にも折り重なった夢。人々は気づかない形で社会が提示する無数の夢の中を生きている。


そして、人々はそれには気づかない。また気づけない。気づけなくさせるような仕組みが社会にはあり、夢がまた別の夢を覆い隠しているという重層構造に人々は絡め取られている。


日本に帰るたびにいつも奇妙に思うのは、人々がまさに夢遊病者のように街を歩いている姿である。これは何も日本だけに限った現象ではないと思うのだが、日本に帰ってくるたびにその深刻さを憂う。


夢遊病者の数は年々増加する一方であり、症状もまた深刻化しているように映る。おそらくこれはその国の中で生活し続けている人には気づきづらいことなのかもしれない。母国への貢献の1つには、こうした社会病理の指摘と処方箋の提示があるだろう。


何が現実なのかわからないという終わりなき問い。そう言えば、かつて自分はそうした問いと向き合う日々を過ごしていた。それは、ある種の精神的錯乱体験と呼べるかもしれないが、むしろそれは健全な精神反応なのではないかと思う。


そうだ。まさにウィルスが体内に侵入した時に起こる抗体反応と同じような精神現象なのではないかと思う。そうした体験をした者からしてみると、ある種健全な反応としてのそうした精神的錯乱体験、すなわち社会が見せてくる種々の夢に気づき、そのおかしさを直視し、何が自分にとっての真のリアリティなのかを問うというような実存的あり方が現代人には決定的に欠けているように思える。


夢に気づき、目覚めたと思ってもそこがまだ夢の世界であったという現状を直視し、そこから愚直にリアリティとは何かについて実存的な問いを発出し続けること。それを許さず、それができなくなっている社会のあり方そのものを憂う。フローニンゲン:2021/7/16(金)19:55

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