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7128-7130: アートの国オランダからの便り 2021年7月10日(日)



No.2467 火星の協奏曲_A Concerto of Mars


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.746, The Integration between a Dream and a Reality

A dream melts into a reality and vice versa.

Both are integrating into one.

What will come up after the integration?

Groningen; 05:30, 7/10/2021

No.747, This Colorful World

Various colors are enjoying communicating with one another.

Their communications make the world so colorful.

This world is made of their existence and interactions.

Groningen; 21:47, 7/10/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7128. 今朝方の夢

7129. 気づきの意識の常態化/テクノロジーによる外部化

7130. 在ることの大切さ/新約聖書を読んで


7128. 今朝方の夢


時刻は午前5時を迎えた。まだ辺りは薄暗く、朝日が昇るのはもう少し後である。以前であれば、もうこの時間帯には朝日が昇り始めていたように思うが、日の出の時間が少し遅くなったようだ。


7月を迎えてしばらく経つが、依然として涼しい日々が続く。思い起こしてみれば、異常に気温が上がるのは8月に入ってから数日間しかなく、それ以外は過ごしやすい日々が続くというのがフローニンゲンの夏の特徴だ。7月が涼しいというのは当たり前のことであったことを思い出す。


少し調べてみると、いつの間にか札幌やヘルシンキよりも涼しい気候になっていることに驚く。大抵はヘルシンキの方がフローニンゲンより涼しいのだが、今の時期は逆転しているようだ。


そう言えば、今朝方の夢の中にフィンランド人が現れていたことを思い出す。夢の中で私は、その男性とフィンランドのことについて色々と話をしていた。


最初彼の英語を聞いたとき、英語に訛りが無いように聞こえたので、まさかフィンランド人であるとは思わなかったのである。それ以外にも、フローニンゲン大学の2年目にお世話になっていたチリ人のマイア·マスカレノ教授も夢に現れ、マスカレノ教授とも色々と話をしていた。しばらく話をした後に、教授は大学のある仕組みに対して抗議をしに出かけて行った。


その他にも、見慣れない旅館の大広間にいた夢も思い出す。そこでも日本人は誰もおらず、全員が別の国からやって来た外国人であった。彼らとは何か真剣な話をしていたように思う。それは外交的な交渉ごとのように思えた。今朝方の夢は総じて断片的である。


小鳥たちの鳴き声が辺りに響き渡っている。今日も彼らの声に癒されながら、自分の取り組みを前に進めていこう。


昨夜、スティグラーの2冊目の書籍の再読が終わり、今日から3冊目に取り掛かる。それは比較的新しく出版されたものであり、スティグラーが現代社会の政治経済状況を批判したものである。


スティグラーの書籍を理解していく際には、精神分析学の深い理解が欠かせない。古典的なフロイト理論の理解と、マークーゼのフロイト解釈などを理解していないと、スティグラーのマークーゼ批判は理解できない。


スティグラーは、マークーゼから多大な影響を受けているが、マークーゼの思想の全てを受け入れているわけではなく、フロイト解釈に関してはいくつか重要な批判をしている。そうした批判を理解するための素養というものが必要になる。今回の書籍の再読においても、目次を紙に書き出し、全体感を掴みながら読書を進めていく。


マネー神学については、引き続きニミ·ワリボコの書籍を再読していく。ちょうど今、ポール·ティリッヒの三位一体説をマネーの性質分析に適用している章を読み返しており、この章で書かれているアプローチは、テクノロジーに対しても応用可能であると思われるので、丁寧に読んでいこうと思う。


今日もまた自分なりのペースで、焦らず読書を前に進めていく。フローニンゲン:2021/7/10(土)05:25


7129. 気づきの意識の常態化/テクノロジーによる外部化


時刻は午前11時を迎えた。午前中の読書は捗っていたが、一度休憩がてらソファで目を閉じていた。しばらく瞑想の意識状態に参入することで脳を休めようと思った。


するとしばらくして、サトルからコーザル意識に移行し、コーザル意識の状態でも意識を維持している自己が現れた。本来、夢を見ない深い眠りの意識に等しいこの意識状態において、気づきの意識を維持することは極めて難しい。それが可能になり始めた自分を見て、ここにも変容の証を見る。


その後、サトルの意識状態に再び戻って来ると、その意識状態の中では書物の文字が浮かび上がっていた。その状態を維持し、目を閉じたまま瞼に映る文字情報を読み取っている自分がいた。


今日は午後から新約聖書を読もうと思う。このところ、マネーとテクノロジーに関する書籍ばかりを読んでいたので、気分転換が必要のように思える。気分転換として聖書を読むというのは不謹慎かもしれないが、聖典というのは無限の役割を持つものだと思われるので、それはそれで良いのかもしれない。


午前中の読書を振り返っている。マルクスの“Contribution to the Critique of Political Economy (1859)”の中に、生産とは消費対象を生み出すだけではなく、消費のあり方(消費モード)を生み出すという指摘がなされており、これは慧眼だと思った。


新しいテクノロジーというのもそれが生み出された時には、使用対象となるだけではなく、使用のあり方も規定する。それはすなわち、私たち自身のあり方を規定することに他ならない。


本来ある対象を使う主体がいつの間にか使われるという客体側に転倒するという現象をここに見る。これもまたある種の疎外なのだろう。


今読み進めているスティグラーの書籍の中において、テクノロジーと記憶の話が出て来るのだが、それが面白い。この点についてはもう少し理解を深めて、いくつか自分なりの解釈をしていきたい。


テクノロジーと外部化に関する話題も印象に残っている。テクノロジーが身体の外部化を行い、それが筋肉系として働いていた時代を超えて、今となってはそれもはや神経系として働いている。テクノロジーによる神経系の外部化は、認知的資本主義(cognitive capitalism)や計量的資本主義(computational capitalism)の性質と相まって、今後もその傾向を加速させていくように思える。


身体が外部化され、認知機能が外部化され、記憶までもが外部化された後、人間に一体何が残るというのだろうか。認知機能に関する外部化が集合規模で行われる時、スティグラーはそれを「組織的(体系的)な愚鈍化」という言葉で表現している。それは、自らに固有の知識と理性を発揮できなくなってしまう現象である。


その代わりにできるのは浅薄な計算のみである。この現象はエリート層にも生じているとスティグラーは指摘しているが、まさに日本においてもその傾向は顕著に現れている。


こうした一連の批判を加えながらも、スティグラーは問題の解決に向けた提言をしている点に感銘を受ける。それは今読み進めているマネー神学に関する著者のフィリップ·グッドチャイルドやニミ·ワリボコについても同じである。


同時代の問題を批判するだけではなく、その問題の解決に向けた実践的な提言をすることが、真の実践的哲学者のあり方なのだと思う。フローニンゲン:2021/7/10(土)11:30


7130. 在ることの大切さ/新約聖書を読んで


穏やかな風が夕方のフローニンゲンに吹いている。時刻は午後4時半を迎えた。


所有することではなく、在ることの大切さ。所有することを選びがちな内在的衝動を超えて、在ることに向かっていくことの大切さ。それについては、ポール·ティリッヒの“The Courage To Be (1952)”や、エリック·フロムの“To Have or To Be (1977)”が深く指摘している。


本来私たちは在ることを通じて癒され、そして変容していく。逆に、在ることから疎外されれば疎外されるだけ、病理的な存在に堕してしまう。


私たちを在ることから離れさせようとする力の所在を探究すること。自己から遠心分離的に離れさせようとさせるその力の所在とメカニズムを解明すること。その試みの一環として、私たちの日常を形作っているマネーとテクノロジーに関する所与の神話を対象化し、それを検証していくことを行う。


昼前に書き留めていたように、午後に新約聖書を読んでいた。私はキリスト教徒ではないが、聖書から得ることはとても多い。


これまで欧米社会で長らく暮らしてきたが、この社会の根底に流れるキリスト教的なものに対してあまりに無自覚だったのではないだろうかと思わされる。聖書を読むことを通じて、これまで見えなかった欧米社会の特徴が自ずから浮かび上がって来るだろう。そして、それを通じて新たな自己発見があるはずだ。


キリスト教神学において、本来人間は神について語ることはできないが、それでも人間は神について語らなければならないという発想で神を理解しようとする。こうした不可能なことに積極果敢に挑んでいく姿勢は、現代社会の解決不可能に思える問題に立ち向かっていく際に重要なものではないかと思う。


午前中に読んでいたマネー神学に関する書籍の中で言及のあったポール·ティリッヒもまたそうした姿勢を持って現実世界の問題に向き合っていたことがわかる。


少し前にもニーチェの「神は死んだ」という言葉について考えていたように思う。そこで死んだ神は神話的な神だった。だが、近代を迎えて、偶像としての神は死ぬことはなく、むしろ様々な形でその偽物の神は姿を表している。


カネ、地位、権力、その他諸々の偶像的神がこの社会に溢れていることにすぐに気づく。それらの神は殺さなければならない。その代わりに、真の神を見出す必要がある。


そして、新約聖書『マタイによる福音書』の中にあるように、「カエサルの物はカエサルに」という発想で、それらの偶像的神を本来の持ち主である超越的存在に返す必要がある。


それらは決して人間が所有していてはならないのだ。人間がそれらを所有しようとするからおかしなことが起こるのである。


冒頭で述べたように、そうした所有欲から脱却しなければならない。このことは決して偶像そのものを否定しているわけではない。否定されるべきは、偶像の崇拝である。


偶像もまた超越的存在の創造物としての尊さを持つ。その尊さを認めることと、それを盲信崇拝することは次元の全く違うことである。それを肝に命じる必要があることを改めて思う。フローニンゲン:2021/7/10(土)16:43

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