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7049-7052: アートの国オランダからの便り 2021年6月15日(水)


No.2369 自然神秘主義_Nature Mysticism


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.689, Two Simultaneous Worlds

A dream world floods into reality.

Reality melts into a dream world.

Both come together.

Here is a dream world and reality.

Groningen; 05:57, 6/15/2021


No.690, A Extemporaneous Meaning or Story from Randomness

I prefer randomness.

I sometime randomly choose a paragraph or sentence in a book and then extemporaneously make a meaning or story.

I’ll incorporate this idea into my reading group.

Groningen; 21:37, 6/15/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7049. 異常さが日常と化す現代/高揚感と陶酔感を感じさせる夢

7050. 今朝方の夢の続きと光の知覚体験

7051. 文明の限界と言葉の限界

7052.「ダンジョンズ&ドラゴンズ」というカードゲームを知って/テクノロジーと新人類


7049. 異常さが日常と化す現代/高揚感と陶酔感を感じさせる夢


時刻は午前5時を迎えた。辺りはまだ薄暗く、そんな世界の中を透き通るような小鳥たちの鳴き声が満たしている。


食卓側の窓から特に小鳥たちの鳴き声が入ってくる。そちらの窓の外にある木にどうやら小鳥が止まっているようなのだ。


改めて、こうした美しい音を発する生き物がこの世にいることがかけがえのないことのように思う。私たち人間もまた美しい声を発することができないだろうか。それは外面的な意味ではなく、内面的な意味でだ。


意味的な美しさを持つ声を発すること。そうしたことがこのような世界の中でますます重要になっているように思う。


今日はどうやら最高気温が19度ほどなので涼しい1日になるだろう。明日と明後日は気温が上がり、明日は28度まで上がり、フローニンゲンの気候からするとそれでも十分に高いのだが、明後日はなんと30度を越す真夏日になるようなのだ。


フローニンゲンで30度を越すというのは8月の最も暑いときに数日ほどあるかないかなので、6月の今そうした気温に達するのはどこか異常である。事実、その翌日には再び23度まで気温が下がることからも、どうやら明後日は異常な日となるようだ。


異常さが日常になることの怖さ。今、世界はそうなってはしないだろうか。


異常なものが日常と化すとき、人間や社会はますますおかしくなる。戦争の日常化、分断の日常化等々、本来日常になってはならない異常なものがこの世界にはたくさん存在している。


今朝方は2つほど夢を見ていた。最初の夢の中で私は、実際に通っていた中学校にいた。


どういうわけか後輩が3階の教室を使っていて、私たちの学年は2階を使っていた。本来は最終学年が最上階を使うはずだったので、どうしたのだろうかと思った。そこで私は3階に上がって教室の様子を伺ってみることにした。


3階に上がると、後輩たちがどの教室でも歌を歌っていた。廊下を歩きながらその様子を微笑ましく眺めていると、後輩の1人が私に気づき、私を教室に入れて歓迎しようとした。


それは有り難く思ったが、その他にやることがあったので、教室に入ることはせず、再び2階に戻った。そして自分の教室に入ると、どういうわけか机が全て後ろに片付けられていた。何やら、今から教室内でサッカーをするとのことだった。私は嬉々としてそれに参加することにした。


普段はやらないキーパーを買って出てみると、ボールはなんと金属でできた椅子を丸めたものだった。そんなボールを蹴る方も、キーパーとして受け止める方も痛そうだったが、そんなことは関係なくサッカーが始まった。


私はパンチングをしたら手から出血すると分かっていたが、それでもテンションの高まりからか、お構いなしに飛んできたボールをパンチングした。右手でボールを思いっきりパンチングした際に、案の定右手から鮮やかな血が飛び散ったが、それもまた一興だった。


むしろそれによって私の気分は最高潮に達し、ボールをパンチングしてゴールを守った興奮からか、尾崎豊の曲が脳裏に浮かんだこともあり、その曲のサビを突然熱唱し始めた。


すると、歌を歌ったことによって最高潮の気分がさらに突き抜け、自分の右手はもうお構いなしに、またパンチングをしてゴールを守りたいと思った。改めてこの夢について書き出してみると、美の魔力的な力を思う。


夢の中の自分は、金属製の椅子に美を感じていたし、またそれをパンチングすることにもなんとも言えない美を見出していた。さらには、パンチングによって迸る鮮やかな色をした血にも絵も言わぬ美を感じていた。


改めて、美というのは本当に恐ろしい力を持つことがわかる。気分を高揚させるだけではなく、人を狂わせる力があるのだ。


夢の中の自分は他者から見れば完全に狂っていたように思う。しかし当の本人は全くそのようなことは思っておらず、強烈な陶酔感の中にいたことがそうしたことを思わせなかったのかもしれない。


今、日々がまさにそうした陶酔感の中で進んでいる。探究活動そのものに魔性の美を見出し、高揚感と陶酔感の入り混じる中でひたすらに自分のテーマに関する学術書を読む毎日がここにある。


今日もまた魔性の美に魅せられながら、ひたすらに学術書を読み進めていくのだろう。休憩として、午後に指定された近所のおもちゃ屋に行って、神学関係の26冊の書籍を受け取る。きっと段ボールで送られてくるだろうから、重たいことを覚悟せねばなるまい。フローニンゲン:2021/6/15(火)05:26


7050. 今朝方の夢の続きと光の知覚体験


連続。夢の世界と現実世界の連続を感じる。両者の境目はもはや無いと言っても過言ではなく、夢が現実世界に流入し、現実世界が夢に流入する。


今この瞬間に聞こえてくる小鳥の鳴き声は、夢と現実世界の繋ぎ目の役割を果たしているように思える。その声を聞けば夢の世界にも入れるし、現実世界にも入れる。そのようなことを思う。


そう言えば、先ほどは今朝方見た夢のうちの1つしか書き留めていなかった。もう1つ夢を見ていたのでそれについても書き留めおく。


夢の中で私は、見慣れない野球場にいた。どうやら、そこで行われている野球の試合に自分は参加しているらしかった。周りを見渡すと、小中学校時代の友人たちがいて、彼らと一緒に違う学校の生徒と野球で対戦をしていることがわかった。


私は野球においてバッティングがあまり好きではなく、好きなのは守備だったが、どういうわけか3番バッターを任された。最初の打席では見事にヒットを打って出塁し、続く4番バッターの大きな当たりのおかげもあり、ホームに帰還することができた。


その試合は楽勝かなと思ったが、相手はピッチャーを変え、2打席目は3振に打ち取られた。最後の打席となる3打席目は、なんとしても打って出塁したいと思った。


相手のピッチャーの速球が速いこともあり、振り遅れないようにするために、自分の打席がやって来るまで、ベンチの前のスペースで重たい金属バットを2本持って振ることにした。


いざバットを振ろうとしたときに、なんと友人の小さな妹が突然バットの近くに現れ、彼女のあごにバットが当たってしまった。まだ思いっきり振っていなかったことは幸いだったが、それでも痛いだろうと思ってとても心配した。


すぐに声を掛けると、友人の妹は何もなかったかのようにけろっとしており、ひとまず安心した。だがバットは確かに彼女のあごに当たっていて、通常であればそれは痛みを伴うはずのものだったので、一応本当に大丈夫か誰かに見てもらうことにした。


ベンチの裏手に特設の医務室のようなものがあったので、そこに彼女を連れて行くことにした。すると彼女は、その必要は無いと述べ、近くにいた友人数名と私に飴玉を渡してくれた。彼女の優しさに感銘を受け、彼女が大丈夫だと述べたので、私たちはそこから再び試合に戻ろうと思った。


するといつの間にか、試合会場が見知らぬ家の中に移っていた。最終打席はその家の中で行われることになった。


相手のピッチャーはどこか性格の悪そうな表情をしていて、実際に投げる球には悪意が満ちていた。私の前にバッターボックスに立ったのは、学年でも運動神経が抜群の友人(RS)であり、彼ならきっと打ってくれると思った。


相手のピッチャーは、試合にならないような球を何度も投げてきて、私はその様子を苛立って見ていたが、友人は表情一つ変えず冷静だった。本来は、私の方がいつも冷静であり、友人の方がすぐに冷静さを失うことが多かったが、その瞬間はそれが逆転していた。


相手のピッチャーが彼の体にぶつかるような球を思いっきり投げてきたとき、私はそんな危険な球を投げてくる相手のスポーツ精神に対して怒りが頂点に達しそうだった。それなのにバッターボックスに立っている友人はまだ表情を全く変えずに冷静だった。


ツーストライクスリーボールから最後の球を必ず打つという気合いのようなものを彼の冷静な表情の下に感じながら、私は怒りをグッと堪えて見守ることにした。


相手のピッチャーが最後の球を投げたとき、突然時間がスローモーションとなり、最後の球はピッチャーの体と一体化した打てっこない球だったので、私はバッターボックスに駆け寄り、ピッチャーと球ごと自分の手で受け止め、それを向こう側に突き飛ばした。


ピッチャーの体をマットのようなものでぐるぐる巻きにして、部屋の奥へと彼を押し込んでいった。横にいた友人はやはり冷静な表情で私が行ったことの一部始終を眺めていた。


私は相手のピッチャーの頭を金属バットでかち割ってやろうと思っていたが、友人の冷静かつ優しげな表情を見て、それを思いと留まった。この夢も印象的である。


夢から目覚めた瞬間にもまだ興奮が残っていた。そして再び目を閉じてみたときに、黄色く輝くまばゆい光を脳内で知覚した。それはかなり強烈な光だったが、こうした光を知覚する体験は時々起こることもあり、あまり気に留めることはなかった。


むしろ、その知覚体験に留まることをいつも心掛けていて、しばらく光を体験することにした。自分の攻撃性が発露した後に訪れた光。それは何を意味しているのだろうかということにむしろ関心が向かう。


今から朝風呂に入り、その際に今朝方の夢全体を振り返りながら、同時に光の体験がやって来た意味についても考えたい。フローニンゲン:2021/6/15(火)05:53


7051. 文明の限界と言葉の限界


時刻は午前7時にゆっくりと近づいている。早朝と同じく、小鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。だが、起床直後の鳴き声とは声質が違っている。


刻々と変化する世界の中で、今日も自分は自分として生きていく。そこにある固有の世界体験を大切にし、世界体験をもたらした実在世界そのものへ眼差しを向ける。


全ては実在世界からの写像的体験なのである。そうした写像的体験は儚きものであり、虚構とみなされがちであるが、それもまたリアルな体験なのである。そのリアル性を忘れないようにしたい。


昨日、学術書関係のいくつかの出版社を改めて調べていた。自分が日々読んでいる書籍を出版している出版社について調べてみると、色々とわかったことがある。


批判論的実在論関係の書籍はラウトリッジ出版のものが充実しており、幾人かの著者はケンブリッジ大学出版から批判的実在論を基にした良書を出版しているが、改めてアウトリッジ出版を含め、いくつかの出版社を調べてみた。


これまでの自分は、ラウトリッジ出版の発音を「ルートリッジ出版」としていたが、正しくは“άʊ”の音で発音する必要があることを知った。学術書の出版社のトップ3を調べてみると、ケンブリッジ大学出版、オックスフォード大学出版、ラウトリッジ大学出版の順となる。


もちろん分野によって順位の変動はあるが、おおよそ学術書という大きな括りで言えば、これらがトップ3の出版社である。そこで少し気になったのが、それらがいずれもイギリスの出版社であるということだ。確かに自分の手持ちの学術書を眺めてみると、これらの出版社は良書を数多く出しているからか、これまで大変お世話になっていることがわかる。


トップ5まで範囲を広げてみると、4位にようやくアメリカのプリンストン大学出版が来る。そして、5位は再びイギリスのパルグレイブ·マクミラン出版である。人文·社会科学においては、シカゴ大学出版も良書を多く出版している印象であり、シカゴも上位に来ていた。


いずれにせよ、学術書の世界はやはり英米が覇権を握っており、とりわけ英国の力が強いことがわかる。出版物の質を見ていると、やはりイギリスのトップ3の出版社は質の高い書籍を数多く出している。その点で言うと、やはりアメリカの大学の出版社が出しているものは見劣りするというのが正直なところだ。


そのようなことを思いながら、文明の限界について改めて考えていた。このところ、その点についてよく意識が向かう。今の世界の有り様は、文明の限界を突きつけられている気がしてならないのだ。


文明の限界は人間の知の限界と強く関係しており、知の限界は言語の限界と強く関係している。そうなってくると、今人類は普遍語になりつつある英語の限界に直面しているのかもしれない。


文明を支えるはずの思想や科学の力がもはや及ばないほどに文明が暴走を始めている。その暴走の根幹には言葉の限界があり、思想や科学の世界で用いられている普遍語としての英語の限界を突きつけられているように思えてくる。


こうした状況にあってもなお、英語を通じて探究をしていくことに意義を見出すのであれば、それは英語を通じて英語空間を変容させていくことにあるだろうか。フローニンゲン:2021/6/15(火)07:04


7052.「ダンジョンズ&ドラゴンズ」というカードゲームを知って/テクノロジーと新人類


時刻は午後7時半を迎えた。今朝方は肌寒さを感じていたが、今日は1日を通して清々しい天気だった。


午後に、書籍を受け取りに指定された近所のおもちゃ屋に足を運んだ。そこで26冊ほどの書籍を受け取った。小さな段ボール2箱分ほどの書籍だったが、思ったほど重くはなかったのだ幸いだった。


先日このおもちゃ屋で書籍を受け取った際に、店員のベンジャミンという20代後半の男性と知り合った。今日も彼が勤務しており、少しばかり話をしていた。


今日はアニメの話ではなく、そのおもちゃ屋に置かれていたカードゲームの話となった。そこには「マジック·ザ·ギャザリング」という世界中で楽しまれているカードゲームがあり、自分も昔このゲームをやっていた。


その店にはそれとは別に「ダンジョンズ&ドラゴンズ」というカードゲームが置かれていて、それが気になったのでベンジャミンに色々話を聞いていた。前者は戦略トレーディングカードゲームだが、こちらのカードゲームはプレイヤー同士の会話とルールブックに記載されたルールに従って遊ぶ「対話型」のロールプレイングゲームとのことであり、プレイ人数も多くすることができ、お互いに協力し合いながら楽しめるゲームとのことだった。


ベンジャミンから話を聞いていると、他の若い店員も話に入ってきて、彼もまたこのゲームの愛好家らしく、熱くその魅力について語ってくれた。近所のインド人のサハルとその息子のサハルと一緒に遊んでみるのも楽しそうだと思い、こちらはオンライン版もあるとのことだったが、お勧めはリアルで行うとのことだった。


今日は書籍の受け取りで手が一杯だったのでスターターキットを購入することをしなかったが、もう少し調べてみて、このゲームが面白そうであれば購入を検討しよう。


ベンジャミンとその店員の話を基にすると、このゲームの魅力は、プレイヤー同士で物語を作りながらゲームを楽しめるという創造性が発揮される点にあるように思え、ロールプレイングによる癒しや変容の効果などもありそうであり、色々な可能性を感じさせるゲームだった。


自宅に戻ってからは引き続き読書を再開させた。明日からは今日届けられた書籍を次々と読み進めていきたい。


昨日、仮に人間が人間であることに限界があり、人間の文明そのものに限界があるのであれば、すなわち人間性というものに諸悪の根源があるのであれば、人間性を溶解させることを肯定し、全く新しい人類を生み出すということも肯定されるのではないかという発想が芽生えてきた。だが、その是非について慎重に考えなければならない。


その発想にはどこか危険性が内包されている。しかし、このような発想が内在している映画を近年よく見かける。


人間が人間であることに問題があり、その人間が他の生命や地球を傷つけている姿を見ると、尚更人間という存在そのものの存在意義、そして人間性の存在意義について考えさせられる。


テクノロジーというのもひょっとしたら、いつか人間性を溶解させ、人類を完全に変容させる形で新たな人類を生み出す方向に活用されるのかもしれない。さらに極端な発想で言えば、新人類を誕生させるのではなく、人類を残す必要も誕生させる必要もないとしてテクノロジーが活用され、いつか人類がこの世から消え、AIのようなテクノロジー体だけが存在する地球が生まれるのかもしれない。そのようなことを昨日考えていた。フローニンゲン:2021/6/15(火)19:56

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