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7010-7013: アートの国オランダからの便り 2021年6月5日(日)


No.2332 精霊の残り香_A Lingering Scent of a Spirit


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.668, Well-Being

It is foggy right now.

In the last couple of days, the morning was always sunny.


The foggy world is whispering to me something important.

I know what it is.

That’s the key to well-being.

Groningen; 07:23, 6/5/2021


No.669, My Role

An infinite number of aspects of the world are revealed through my existence.

I just form each aspect into my creative product.

That’s my role.

Groningen; 21:47, 6/5/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた4曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7010. 今朝方の夢

7011. 雨の趣の中で

7012. 安らかな終焉に向かって

7013. 儚き泡沫のごとき人生と文明社会/明滅する存在たち


7010. 今朝方の夢


うっすらと霧に包まれた朝。土曜日の朝は、そうした形で出迎えられた。


ここ数日間のフローニンゲンは、本当に夏のように暖かい日が続いていた。そこから一転して今日は雨が降るらしい。


起床してすぐに気づいたが、今日は気温も高くなく、どちらかというと冷んやりしている。明日からは再び涼しげな日が続く。


朝日を浴びながら早朝の日記を書くのは大変気持ちの良いものだが、霧を眺めながら日記を書くこともまた一興である。霧に包まれた世界を眺めながら今朝方の夢を振り返ってみたい。


夢の中で私は、昔協働していたある会社の女性のメンバーの方と話をしていた。その方は私より随分と歳が上なのだが、研究テーマを含めていつも話が合った。


その日はどういうわけか、私の高校入試の結果発表をすることになっていた。私の手には結果が記された紙があり、それは未開封だったので、私はまだ結果を知らなかった。その方と一緒に結果を見ようと思っていたので、まだ開けていなかったのだ。


いざ開封するという瞬間に、不思議と私には一切ドキドキする感じがなく、合格を確信しているのか、もしくは結果がどうであっても関係ないと思っているかのようだった。


いざ開封してみると、見事に合格していた。そこは名門の中高一貫校であり、その方の息子さんも過去に合格していたらしい。私はその高校を受験したのはいいものの、その高校についてあまり知らなかったので、その方からその高校に関する話を伺うことにした。


次の夢の場面では、私は大リーグで活躍した元選手と和気藹々と話をしていた。どうやら私たちは知己の仲のようだった。


私たちは旅館かどこかの座敷にいて、座敷の地べたに座って和気藹々と語らっていた。その中で、私が選手時代のことをその方に質問すると、雄弁に様々なことを語ってくれた。選手時代には一切表に出さす、一切語られていないことを聞くことができ、とても貴重なことを聞いたと思った。


そこからは、人生訓のようなものを含め、どのようなあり方で人生を生きていくのかの話になった。終始笑顔が絶えなかったが、話の内容そのものはとても真剣なものであり、お互いに1つ1つのテーマに対して自分の考えを真剣に話していた。


今朝方はもう1つ夢を見ていた。夢の中で私は、あるサッカー選手が競技場に向かって走っている姿を見守る者としてそこにいた。その選手は日本代表で長く活躍した選手であり、今でも選手生活を続けている。


その選手が競技場に向かって走っているのは、これからその競技場で大きなスポーツの祭典が行われ、その開催を祝うことの一環のようだった。それはまるで聖火リレーのようなものだった。


しかし、聖火リレーとは違い、その選手が1人で100km以上の距離を走らなければならず、相当に過酷なものだった。実際に、その選手の足はもう限界に来ていた。


その選手の前には、人間の言葉を話す小さな動物がいて、その動物がその選手を励ましながら先導していた。ゴールまであと1kmとなったとき、その選手の足がピタリと止まった。どうやら足が限界に来たようだった。


ゴールまでもうあと少しなのだが、どうにも前に進めない状態になってしまい、そこで一度休憩をすることになった。長時間ずっと早いペースで走り続けていたこともあり、エネルギーが完全に枯渇しているようだった。


どうやら近くに良いレストランがあるらしく、そこで食事をしてから今日中にゴールまで行こうということになり、そこで夢から覚めた。フローニンゲン:2021/6/5(土)07:16


7011. 雨の趣の中で


雨の趣。雨がこれほどまでに趣深いものであることを改めて感じている。ここのところは天気が良かったせいだろうか。


これまでの季節で見慣れていた雨から少しばかり遠ざかっていると、雨の存在が自分の中からこぼれ落ちてしまっているかのようであり、今このようにして土曜日の早朝の世界に降り注ぐ雨を眺めていると、雨の懐かしさを感じる。そして、雨の温もりのようなものさえ感じさせる。


昨夜は、一抹の実存的不安のようなものがやって来た。それを「不安」という言葉で表現するのが適切かわからないが、少しばかり心が落ち着かない感じであったことは確かだ。


そこから一夜明け、再び落ち着きを取り戻した自己。今日もまたこの自己を通じてこの世界を生きていく。


気がつけば日記の数が7000を超えていた。それはまだ微々たる数であるが、7000ほどの日記を継続して書いてきた自分を思う。


ゆっくりと進むこと。進むことを意識することなく進むこと。そうしたあり方でこれからも日々を過ごしていき、その過程で得られた事柄はできるだけ全て日記に書き留めておきたいと思う。言葉の形にならないものに関しては、絵や音楽として表現していこう。


日々の探究活動は、もはや自分のための探究ではなくなっている。そして、探究即実践という精神が体現されていて、得られた知見は身近な人に共有し、そこから自分でも小さな実践を絶えず行なっている。


ここからは「探究活動」という言葉を使わずに、「探究実践活動」という言葉を使った方がいいのだろうか。あるいは、もはやそうした探究や実践というものが人生そのものになっていることを考えると、本当はそうした言葉ですら真に自分のあり方を捉えてはいないことに気づく。


自分から湧き上がってくる巨大な活動エネルギー。それはおそらく、今の自分の探究実践活動のテーマが極度に利他的なものだからだろう。


全世界の人々だけではなく、全ての生きとし生けるものを対象にし、地球そのものまでも含めた探究。経済思想、宗教思想、生態学を架橋させた今の探究実践活動は、まさにそうした大きな射程の中で行われている。


生きとし生けるもの、そして地球の中に自分も含まれるが、自分が中心では決してない。あくまでも自分は含まれるもの。部分としての自分にも全体があることを認めながらも、自分は大きな全体に含まれる部分なのだ。


優しく地上に降り注ぐ目の前の雨のように、心穏やかに今日の活動に取り組んでいこう。


ここからは、シュタイナーとマルクスの生態学的経済思想の主たる特徴をまずは掴んでいこうと思う。両者に固有の観点や理論をまずは理解していく。そこから両者の違いや共通点をゆっくりと紐解いていこう。


とにかくゆっくりと進めていくこと。この探究実践テーマを深めていくには膨大な時間がかかることが明らかなのだから、焦ることなくとにかくゆっくりとこのテーマに取り組んでいく。まさにこれはライフワークなのだ。フローニンゲン:2021/6/5(土)08:22


7012. 安らかな終焉に向かって


静かに降り注いでいた雨が少しばかり止んだ。雨の優しさと美しさを先ほどまで過ごしていた。雨が醸し出すなんとも言えない情緒感が家の周りに充満していた。今日はとても涼しい。


地球も1つの生命体であるがゆえに寿命があるのは当然だろう。人類だけではなく、地球もいつか必ず寿命を迎えるのである。それを分かった上で今の自分の探究実践活動がある。


人類も地球もいつか必ず滅亡するはずなのだが、如何様に寿命を全うするかに価値を見出している自分がいるようなのだ。さもなければ、虚無主義に陥り、現在のテーマを掲げて今のような形で探究実践活動を行なっているはずはないのだ。


いかに死ぬか。人類と地球がいかに死んでいくかが重要な点であり、自分の探究実践活動は、人類と地球ができる限り安らかに死んでいくための取り組みだと位置付けることができるかもしれない。人類も地球もいつか必ず滅びるのである。それが生命ある存在の宿命であり、同時に尊さでもある。


カッコウの鳴き声が聞こえてくる。自分と同様に、彼らもまた雨上がりの涼しさと静けさを堪能しているようなのだ。


それは喜びの声。それは出そうと思って出てくるものではなく、自然と出てしまう声なのだ。


表現。「表現」という言葉は、外側に押し出てくるという“ex-pression”という意味を持つ。


「押し出す」というよりも、「押し出てくる」という表現の方が自分の感覚に合致する。そう、その表現もまた自然と押し出てきたものだ。


こうした押し出てくるものを大切にしていく。押し付けられたものではなく、とことん押し出てくるものを大切にし、それを形にしていくのである。


未知なる自分と未知なる世界は、絶えず今の自分の外側に無限に広がっている。そうした無限に広がる未知な自己と世界につながるために、予測不可能な創作活動に日々従事しているのだろう。予測不可能性を内包した創作活動には、自分を未知な自己と世界に開いていく力があるようなのだ。


人類と地球の滅亡の瞬間は、きっと暴力的·破滅的なものなのだろう。しかもそれはきっと一瞬の出来事なのではないかと思う。


仮に終末が破滅的なものであったとしても、そこに向かうまでのプロセスを安らかなものにできないだろうか。それは矛盾している命題なのかもしれない。


終末の瞬間すらも安らかなものにすることはできないだろうか。今の人間社会の様子を見ている限りにおいて、それは完全に不可能だと言い切れるが、それでもそうした不可能性に立ち向かっていく必要があるのかもしれない。


未知性に向かって絶えず開かれている自己をもってしてみれば、それもまた可能なのではないか。そのような一抹の希望がわずかに芽生える。


人類、生きとし生ける全てのもの、そして地球の安楽死に向けての探究と実践を、未知性と不可能性に押し潰されることなく続けていく。自分にできるのはそれしかないのだから。フローニンゲン:2021/6/5(土)09:59


7013. 儚き泡沫のごとき人生と文明社会/明滅する存在たち


時刻は午後7時半を迎えた。今日は午前中に雨が降っていたが、午後からは雨が止み、晴れ間こそ見えなかったが、涼しげな1日だった。


日常は変わらぬようでいて変化に富み、変化に満ち溢れているようでいて単調のようにも思える。そしておそらく、日常はそれらの二項対立を超えているのだと思う。


儚き泡沫のような人生と儚き泡沫のような文明社会。人生も文明社会も、それが存在している姿は儚き泡沫のように知覚される。


今日は幾分超越的な知覚感覚が継続していた。絶えずあちらの世界からの眼差しでこちらの世界を生きているような感覚と言えばわかりやすいだろうか。


あちらの世界がありありと知覚されながらも、同時にこちらの世界もありありと知覚されるという知覚。これもまた二項対立を超えている。


「二項対立」という言葉が生み出されるためには、その言葉に付随する体験そのものから超越していなければならないのだから、その言葉が生み出されたことは超越的視座の立ち現れを示唆しているように思える。きっとそうなのだろう。


今日は午後に郵便受けを確認しに敷地の内と外を隔てる扉に向かった。その途中で、オーナー夫妻に出会った。


オーナー夫妻がちょうどリンゴの木の枝の剪定をしていたのである。挨拶を交わし、話を聞いてみると、先日に激しい雹が降った際に、リンゴの枝のいくつかが損傷を受けてしまい、それをそのまま放置するのではなく剪定する必要があるとのことだった。


私はそれまでそれがリンゴの木だということを知らず、まずそのことに驚いた。オーナー夫妻曰く、毎年青いリンゴを実らせ、その味は美味しいとのことだった。オーナー夫妻の生き方を見ていると、既存の経済システムが回らなくなったとしても、十分に自給自足できてしまうのではないかと思う。


郵便受けで2冊の書籍を受け取り、家に戻ってくると、家の前に雑草が生え始めていることに気づいた。来週はまた天気が良い日が出てくるようなので、その時に草むしりでもしようと思う。


草むしりをするというのも自然との触れ合いであり、この家を大切にすることにつながるのではないかと思う。以前のようなアパートではこうした作業に従事することは決してなかった。


今の自分は草むしりを含め、地上に足を着け、地上に根を下ろすような生活が必要なのだと思う。それは然るべき時に然るべき形でやってきた。


今、1匹の猫が目の前の車庫の上を歩いている。その猫は1人なのだろうか。視線の先には赤レンガの家があり、そこの庭では今パーティーが行われている。


孤独な猫。パーティーをする人々。そうした猫と人々を認識する自分を眺める自分。


あっ、車庫の向こうから別の猫がやってきた。それは薄茶色の毛並みをしている。その猫は黒い猫に近寄ってきた。


2匹の猫は今とても近い所にいるのだが、交流する様子はない。お互いに視線を合わせたり、逸らしたりしながら、自分の毛を取り繕ったりしている。


茶色の猫はどこかに消えていった。しかし、黒い猫はその場を動こうとしない。いつかその猫もそこから消え、猫を見ていた自分もまた消える。


明滅する存在の不思議さ。今からやってくる夜もまた明滅する存在なのだろう。そして自分もそうした存在なのだ。フローニンゲン:2021/6/5(土)19:56

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