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【フローニンゲンからの便り】18571-18576:2026年4月26日(日)

  • 21 時間前
  • 読了時間: 15分


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タイトル一覧

18571

価値の空洞化という現代社会の危機

18572

今朝方の夢

18573

今朝方の夢の振り返り

18574

宇宙の親密性

18575

メタクライシスを超えて生命全体を大切にする文明へ

18576

クラシックギターとフラメンコギターからの異なる教え

18571. 価値の空洞化という現代社会の危機           

         

一昨日、ザカリー・スタイン、マーク・ガフニィ、ケン・ウィルバーの共著『First Principles & First Values』を購入した。本書の内容を思い返しながら、現代社会の危機とは何なのかを改めて考えた。多くの人は、経済不安、政治的混乱、環境問題、AIの進展などを個別の問題として語る。しかしこの書物は、それらのさらに奥にある「価値の崩壊」こそ根本原因だと見ているようである。この視点は、表面の波ではなく海流を見る感覚に近い。波はあちこちで荒れていても、その下では同じ潮流が動いているということである。たしかに現代は、何が善で、何が大切で、何のために生きるのかという問いに自信を持って答えにくい時代である。昔ながらの宗教的価値観は弱まり、かといって新しい共通理念が十分に育っているわけでもない。結果として、人は自由になった一方で、方角を失った羅針盤のようにも見える。進む力はあるのに、どこへ進むべきかがわからない。この本がいう「価値の空洞化」とは、そのような状態なのかもしれない。興味深いのは、著者たちが保守的な固定価値観にも、ポストモダン的な相対主義にも、どちらにも満足していない点である。前者は価値を石像のように固め、後者は価値を砂のように崩してしまう。片方は硬すぎ、片方は柔らかすぎる。生きた価値とは、その中間にある木のようなものなのだろう。幹はあり、しかし成長し、枝を伸ばし、季節ごとに姿を変える。著者たちが「永遠でありながら進化する価値」と語るのは、そのようなイメージに思える。また、「価値は人間が作った幻想ではなく、宇宙そのものに根差している」という主張も印象的であった。木の価値は木材価格ではなく、人の価値は生産性ではない。もしすべてを値札でしか見られなくなれば、世界は市場にはなっても故郷にはならない。現代人は便利な都市を築いたが、心が帰る場所を失ったのかもしれない。本書が掲げる「普遍的な価値の文法」という考えも面白い。文法は言葉を縛るものではなく、自由な表現を可能にする土台である。同じように、共通価値は多様性を潰すためではなく、多様性を響かせるための基盤だという。これは、全員が同じ音を出す合唱ではなく、それぞれ異なる楽器が同じ調性の中で演奏するオーケストラに近い。本書の内容は、自分の人生にも通じるものを強く感じた。肩書きや成果、効率だけで測られる世界に長くいると、知らぬ間に自分自身まで商品として扱ってしまう。しかし本当は、人間には数値化できない深みがある。静かな誠実さ、誰かへの思いやり、学び続ける姿勢、まだ言葉にならぬ志。そうしたものこそ価値の核なのだろう。気づきとして、社会の混乱とは制度の問題である前に、意味の問題なのかもしれないと思った。もし何を大切にするかが曖昧なら、どれほど優れた技術も迷子のままである。だからこそ、自分の毎日の中でも、小さな価値の再建が必要なのだろう。何に時間を使うか、誰と関わるか、何を学ぶか。人生とは、壮大な哲学書を読むことでもあるが、同時に一日の選択で価値を書く行為でもあるのだと感じた次第である。フローニンゲン:2026/4/26(日)07:02


18572. 今朝方の夢

                                  

今朝方は夢の中で、暗闇で叔父に気持ち悪い形で体を触られ、そこから叔父が自分の人格を否定するような言葉を述べた場面があった。それに対して私は怒りの感情を露わにし、理性を失い、気づけば叔父に暴行を加えていた。私に暴言を吐いた後に叔父はその場で横になり、横になって目を閉じている叔父の顔面にかかと落としを喰らわせ、そこからも色々な暴行を加えた。確かにそれで自分の怒りの感情は発散され、心が静かになったが、冷静になってみると叔父に対して酷いことをしてしまったと反省した。だがそもそも自分の体を不快な形で触ってきて、そこから暴言を吐いた叔父にも原因があるとも思った。

もう一つ覚えているのは、見慣れない会議室のような場所でプレゼンを行い、中年の女性教授からフィードバックを受けている場面である。プレゼンの内容は学術的にも高度なもので、自分としてはそれを平易に伝えたつもりだったが、教授からのフィードバックは意外と厳しく、もっと平易な言葉で伝える必要があるというものだった。自分の中ではこれ以上平易な言葉で語ることは難しいと思い、教授のフィードバックに対して逆に批判を述べた。自分も少しムッとした気持ちで批判を述べてしまったので、口調が強くなり、教授を怒らせてしまい、その教授はその場を後にして消えた。そこからは、知り合いの元ジャニーズの今は経営者をやっている知人に話を聞きに行った。彼は今少し経営では困っているらしいが、プレゼンがとても上手いのでプレゼンに関して彼から助言をもらった。先ほどの女性教授の言葉は自分の耳にあまり届かず、心に響かなかったが、彼の言葉はちゃんと耳に入り、心に届くものがあった。見えない権力差がある関係の人からフィードバックを受けるよりも、関係性がフラットな人からのフィードバックの方が自分は素直に受け取れるのだと改めて感じた。フローニンゲン:2026/4/26(日)07:11


18573. 今朝方の夢の振り返り 

                         

今朝方の夢は、自分の内側で「侵入された境界」と「評価される場面」が同じ根から伸びていることを示しているのかもしれない。暗闇で叔父に不快に触れられる場面は、単なる人物としての叔父というより、自分の心身の境界を無遠慮に越えてくる古い力の象徴であるように思われる。暗闇とは、まだ言語化されていない感情の地下室であり、そこでは理性よりも先に身体が反応するのである。人格を否定する言葉は、外からの暴言であると同時に、自分の内側に残っている「お前は十分ではない」という古い声の反響でもあったのだろう。その叔父に対して暴力を振るう場面は、自分の中の怒りがついに堰を切った姿であるように思われる。かかと落としという動作は、頭部、すなわち相手の言葉や判断の源を踏み砕くような象徴性を持つ。まるで長く閉じ込められていた火山が、溶岩を噴き上げて地形そのものを変えてしまうように、自分の怒りは単なる感情の爆発ではなく、「これ以上、自分の尊厳を侵すな」という深層からの防衛反応であったのかもしれない。ただし、夢の中で暴力の後に静けさと反省が訪れる点が重要である。これは、自分が怒りを必要としていながらも、怒りそのものに支配されることを望んでいないことを示しているのだろう。自分は境界を守りたいのであって、相手を破壊したいわけではないのである。もう一つの会議室の夢は、この身体的境界の問題が、知的表現や学術的自己提示の問題へと姿を変えたものかもしれない。女性教授は、学問的権威、評価者、制度の目を象徴しているように思われる。自分は高度な内容を平易に語ったつもりであったにもかかわらず、さらに平易にせよと言われる。ここには、自分の努力が正当に見られていないという感覚が潜んでいるのだろう。つまり、最初の夢で身体に侵入されたように、二つ目の夢では知性や表現の領域に侵入された感覚が生じているのである。身体に触れられることと、言葉に触れられることは異なるようでいて、どちらも「自分の中心に勝手に手を入れられる」という経験として響き合っているのかもしれない。しかし、その教授の言葉が届かず、元ジャニーズで経営者の知人の言葉が届いたという展開は、自分にとってフィードバックの内容そのもの以上に、関係性の質が大きな意味を持つことを示しているようである。権力差のある垂直的な関係から投げられる言葉は、たとえ正しくても矢のように刺さりやすい。一方で、フラットな関係から差し出される言葉は、同じ批判であっても手渡された灯火のように受け取れるのである。自分は助言を拒んでいるのではなく、支配や評価の匂いを帯びた助言に対して身構えているのだろう。この夢全体は、自分がいま「境界を守る力」と「学ぶために開く力」のあいだで揺れていることを象徴しているように思われる。境界が弱すぎれば他者に侵入され、強すぎれば必要な言葉まで跳ね返してしまう。人生における意味としては、自分がこれから磨くべきものは、怒りを消すことではなく、怒りを境界線を引くための知恵へと変換することであり、同時に、批判を受け取る相手と場を慎重に選びながら、自分の表現をさらに透明なものへ鍛えていくことなのだろう。夢は、自分に「閉じるべき扉」と「開くべき窓」を識別せよと告げているのかもしれない。フローニンゲン:2026/4/26(日)08:07


18574. 宇宙の親密性

                             

一昨日購入した書籍の内容を振り返りながら、「親密性」という言葉について長く考えていた。普段この言葉を聞けば、人は恋愛や友情、家族関係のような人間同士の近さを思い浮かべる。しかしこの書物では、親密性はそれよりはるかに大きな意味を持っていた。宇宙そのものが、ばらばらなものを結びつけ、より高いまとまりを生み出していく運動であり、その根底に親密性があるというのである。最初は大胆すぎる主張にも思えたが、少しずつ味わうと、不思議な説得力があるようにも感じられた。本書では、親密性とは「一体感がありながら違いも保たれ、そこに相互性がある状態」とされていた。この定義が面白い。多くの人は、親しくなることを「一つになること」と思いがちである。しかし完全に同じになれば、そこにはもう対話も発見もない。逆に違いだけなら分断になる。親密性とは、同じでありながら違う、違いながらつながっているという逆説の上に成り立つ。これはまるで二重奏である。旋律は別々でも、響きは一つになる。この視点で世界を見ると、たしかに身の回りのものが少し違って見えてくる。身体もそうである。心臓、肺、脳、筋肉、それぞれ役割も形も異なるが、一つの生命として協働している。どれか一つが独裁すれば身体は壊れるし、互いに無関心でも成り立たない。違いを持った部分たちが、深い共有目的のもとに動いている。人体そのものが親密性の建築物なのだと思った。人間関係にもそのまま当てはまる。若い頃は、誰かと近づくことを「理解されること」だと思っていた。しかし本当の親密さは、ただ同意されることではなく、違いを抱えたまま尊重されることなのだろう。意見が違っても対話できる。距離があっても信頼できる。沈黙があっても不安にならない。そのような関係には、表面的な仲良しとは別種の静かな強さがある。また、本書が「孤独は単なる気分ではなく、存在の構造に反する状態だ」と語っていた点も印象に残った。人は一人で立つ力も必要だが、完全な孤立には耐えにくい。食事や住居が整っていても、誰とも深くつながれなければ、心は乾いていく。現代社会には便利さが増えた一方で、孤独も増えたと言われる。その理由は、人間が親密性を必要とする存在だからなのだろう。植物に水が要るように、人にも関係性が要るのである。組織についての話も興味深かった。会社でも学校でも、部署や立場が違う人々が互いを敵として見始めると全体は崩れる。逆に、違う役割を持ちながら共通目的を見失わなければ強い。これは国家や宗教にも当てはまるという。世界平和とは全員を同じ色に染めることではなく、違う色同士が濁らずに一枚の絵を描くことなのかもしれない。考えてみれば、自分自身の内面にも親密性は必要なのだろう。理性と感情、野心と安らぎ、孤独を求める心と人とつながりたい心。それらが互いに争っていると疲れる。しかし違う声同士が一つの人生の中で調和し始めると、人は少し自由になる。内なる会議が戦場ではなく円卓になる感覚である。今日の気づきは、成熟とは孤立して強くなることではなく、つながりながら自分でいる力なのだろうということである。木は一本で立っているように見えて、土、水、光、風、菌類と無数の関係の中で生きている。人間も同じなのだと思う。自立とは無関係になることではなく、良い関係の中でしっかり立つことなのだろう。そんなことを思いながら、今日出会う人との小さな会話も、宇宙の親密性の続きなのかもしれないと感じた。フローニンゲン:2026/4/26(日)08:30


18575. メタクライシスを超えて生命全体を大切にする文明へ 

 

一昨日に購入した書籍の内容を思い返しながら、現代社会の危機とは何なのかを静かに考えていた。ニュースを開けば、戦争、気候変動、経済不安、AI、政治的分断、孤独の増大など、問題は無数に並んでいる。どれも深刻で、どれも対処が必要である。しかしこの書物は、それらを別々の火事とは見ず、地下で一本につながった大火災として見ているようであった。その総体を「メタクライシス」と呼ぶ発想には、どこか現代の空気を言い当てる鋭さがある。たしかに今の時代は、一つの問題を直しても別の場所から亀裂が入る。環境を守ろうとすれば経済が揺れ、経済を守ろうとすれば格差が広がり、便利さを追えば孤独が深まる。まるで古い家の壁を一箇所修理したら、別の柱がきしみ始めるような感覚である。つまり壊れているのは部品ではなく、家全体の設計思想なのかもしれない。この本が「制度の前に世界観がある」と語る理由もそこにあるのだろう。著者たちは社会を三層構造で見る。技術や建物などの基盤、制度や法律などの構造、その上にある価値観や物語の層である。そして最も重要なのは最上層、つまり人々が何を現実とみなし、何を善とみなし、何のために生きるかという物語だとされる。この考え方は非常に示唆的であった。たとえば自然を単なる資源と見るなら、どんな制度も搾取的になりやすい。人間を数字と見るなら、教育も労働も管理装置になりやすい。制度とは、中立の道具ではなく、背後の価値観が形になったものなのだろう。AIについての議論も印象に残った。多くの人はAIが暴走して人類を滅ぼす未来像を恐れる。しかし本書がより危惧しているのは、人間が自分で考え、選び、意味づけし、他者と関係を育てる力を、便利さと交換に少しずつ手放していくことである。それは突然の破滅ではなく、静かな空洞化である。外側は豊かでも、内側が痩せていく。これはとても現代的な危機に思えた。また、「テクノ封建制」という言葉も胸に残った。かつて土地を支配する者が権力を持ったように、今は情報と注意を握る者が人間行動を左右する。人は自由に選んでいるつもりで、見えない誘導の中を歩いているのかもしれない。道を歩いていると思っていたら、実は動く歩道に乗っていた、というような感覚である。しかし本書は悲観だけで終わらない。ここで提示されるのが「Crossing(越えて渡ること)」である。古い物語の岸から、新しい物語の岸へ渡る。恐れと慣性の岸から、責任と成熟の岸へ渡る。自己中心的文明から、生命全体を大切にする文明へ渡る。この比喩は美しい。川を渡るには、今いる岸を離れねばならない。だが離れなければ、新しい地平にも着けない。著者たちは現代の危機を「失敗」ではなく「成熟危機」と見る。人類は技術だけ先に巨大化し、心の成熟が追いついていないというのである。たしかに、強力な道具を持つ子どものような危うさはある。力はあるが、使い方の知恵が足りない。だから必要なのは、単なる規制や効率化だけではなく、人間そのものの成熟なのだろう。この考えは自分自身にも当てはまる気がした。人生の問題も、表面では仕事、人間関係、時間管理のように見えて、実はどんな価値観で生きるかという深層の問いにつながっていることが多い。外側を整えても、中心が曖昧ならまた揺らぐ。逆に中心が定まれば、多少の嵐でも進める。人にも社会にも、軸が必要なのだろう。今日の気づきは、未来とは技術が作るものではなく、価値観が方向づけるものだということである。船の性能がどれほど高くても、舵が壊れていれば漂流する。現代文明は速い船を手に入れたが、いま問われているのは速度ではなく方角なのかもしれない。だからこそ、自分の日々の小さな選択にも意味がある。何を大切にし、何に時間を使い、誰とどう関わるか。その積み重ねが、自分自身の「越境」を形づくっていくのだと感じた。フローニンゲン:2026/4/26(日)09:16


18576. クラシックギターとフラメンコギターからの異なる教え

                       

今朝、クラシックギターとフラメンコギターの違いについて考えていた。同じナイロン弦を張り、形もよく似た楽器でありながら、その中身は驚くほど異なる。まるで同じ木から削り出された二本の剣が、一方は儀礼用の名刀となり、もう一方は実戦のための武器になるような違いである。見た目の近さに油断すると、本質の遠さに驚かされる。クラシックギターでは、音をどう響かせるかが重要になる。一音一音に呼吸を与え、余韻を育て、旋律を歌わせる。音は空間に置かれた香のように静かに広がっていく。それに対してフラメンコギターの音は、前へ突き出される。音が飛び、打ち、切り込み、踊り手の足音や歌い手の声と火花を散らす。クラシックが音を磨き上げる芸術だとすれば、フラメンコは音に体温と衝動を宿らせる芸術なのだろう。特に印象的なのは右手の役割である。クラシックでは右手は精密な発音装置として働く。指先の角度、爪の当たり方、音色の均一性が求められる。しかしフラメンコでは右手そのものが打楽器になる。ラスゲアードで連打し、ボディを叩き、親指を走らせ、リズムそのものを刻む。指先だけでなく、手全体が躍動している。静かな書道筆が、突然太鼓の撥へ変わるような感覚である。また、クラシックではノイズを避けることが美徳になりやすい。弦移動の擦れ音、余計な打音、荒れたアタックは慎重に取り除かれる。しかしフラメンコでは、その粗ささえ生命力になる。土埃の舞う舞台で鳴る一撃の音には、磨かれた大理石にはない熱がある。少しのざらつきが、かえって人間味になるのだろう。リズムへの姿勢も大きく違う。クラシックではテンポの揺れが表情になることもある。呼吸の伸縮が音楽性として許される。しかしフラメンコではコンパスという循環リズムが絶対的な背骨になる。そこを外せば、どれほど技巧があっても立っていられない。これは建築で言えば、装飾より柱が先という感覚に近い。考えてみれば、この違いは生き方にも似ている。整える力と燃やす力、静けさと熱量、精密さと野性、構築と即興。人の中にもその両方があるのだろう。自分はクラシックギターを通して秩序や繊細さを学んできたが、フラメンコにはまだ触れていない生命の野太さがあるように感じる。学問で言えば、論文を書く力と、群衆の前で語りかける力ほど違うかもしれない。それでも面白いのは、クラシック経験者がフラメンコを学べば世界が広がり、フラメンコの身体性を知ればクラシックにも新しい血が通うだろうという点である。異文化に触れると、自分の文化の輪郭が初めて見える。別の奏法は、別の人生観でもある。楽器とは単なる道具ではなく、人格形成の教師なのかもしれない。クラシックギターは「丁寧に生きよ」と教え、フラメンコギターは「情熱を恐れるな」と教える。もしその二つを一人の中で調和できたなら、演奏だけでなく、生き方そのものがさらに豊かになるように思えた。フローニンゲン:2026/4/26(日)11:15


Today’s Letter

Whistling is a portable instrument anyone can use. While playing classical guitar, I sometimes whistle as an accompaniment. It adds a unique flavor to the music. Groningen, 4/26/2026

 
 
 

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