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6542-6544: アートの国オランダからの便り 2021年1月8日(金)


No.1725 墨絵_A Sumie

本日の言葉

In joy and sorrow all are equal. Thus be guardian of all, as of yourself. Santideva


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本日生まれた4曲

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タイトル一覧

6542. ブレイク、ルーミー、フロスト、オーロビンドの詩集を紐解いて

6543. 今朝方の夢

6544. 生死の非在性/「勝手」と創造


6542. ブレイク、ルーミー、フロスト、オーロビンドの詩集を紐解いて


時刻は午前4時を迎えた。今朝は一度深夜に目を覚まし、足元に置いていた湯たんぽを就寝前と同様にお腹の部分に当てて再度寝たところ、3時半に目覚めた時には随分と寝汗をかいていた。起床後、すぐに着替えをして、朝のルーティンを終えて今に至る。


昨日は、ブレイク、ルーミー、フロストの詩を読んでいた。ブレイクが生きていたのは今からもう200年も前のことであるから、彼の英語は少し古めかしく、辞書を使って古典英語を調べながら詩集を読み進めていく必要があった。それはどこか万葉集のように現代日本語ではない歌を読むときと同じプロセスのように思えた。


ブレイクの英語は古いため、読解に少し時間がかかる場合がある一方で、ルーミーの詩集は現代英語で翻訳されているので非常に読みやすい。今から2年半前に初読をした時よりも内容理解が進んでいることに驚いた。それはこの2年半の自分の進歩を表しているだろうし、何よりも詩に対する関心が増したことも読解を手助けしているように思える。


昨日の段階では1つ1つの詩の中に入っていったわけではないが、インテグラル理論の提唱者であるケン·ウィルバーが敬愛している思想家のシュリ·オーロビンドの詩集をパラパラとめくっていた。


今から2年前に街の古書店で、“Hymns to the Mystic Fire (1946)”と“Sri Aurobindo: Collected Poems (1972)”という詩集を購入した。前者に関してはオーロビンドの詩集というよりも、古代インドの聖典である『リグ·ヴェーダ』の1028篇の讃歌をオーロビンドが英語に翻訳したものだ。『リグ·ヴェーダ』はサンスクリットの古形にあたるヴェーダ語で書かれていて、本書においても原典のヴェーダ語とオーロビンドの翻訳の英語の双方が掲載されている。


ページを紐解くと、ヴェーダ語の何とも言えない不思議な力を感じることができる。それはどこか呪術的な力であり、言葉の呪術性、あるいは魔術性を改めて知る。こちらに掲載の讃歌の内容理解についても、種々の神秘思想に触れていれば理解しやすいように思う。


後者の“Sri Aurobindo: Collected Poems (1972)”は、オーロビンドが1890年から1939年にかけて残した詩が合計600ページ超にわたって収められている。こちらもブレイクと同様に古典英語が使われているが、ブレイクよりも時代が新しい英語のためか分かりやすい。


今日からは、いったんブレイクの詩集を横に置いて、ルーミー、オーロビンド、フロストの詩集を読み進めていく。詩集を学術書のように読んでいこうという気持ちはなく、むしろ気軽に詩集を紐解き、その瞬間の自分の心に響くような詩との出会いを楽しむというような形で詩集に接していこうと思う。


この数日間で2つほど詩に関する興味深いコミュニティーを見つけた。1つは“Poetry Foundation”と呼ばれるものであり、もう1つは“The Society of Classical Poets”である。どちらも機関誌を発刊していて、今後そちらの機関誌の購読を始めてみようかと思う。


何気なくそれらのウェブサイトを見ていたところ、ミニマリストの詩について考えていた。最もミニマリズムな形式は俳句だろうか。今の自分には長い詩よりも、短い詩を好む傾向があり、ミニマリズムな詩は色々な面で注目している。作曲に関しても色々と学ぶことが多いように思えるのだ。


ミニマリズムの思想をもとにしたミニマル·ミュージックは、現代音楽の1つのムーブメントであったが、それとはまた少し違った観点で短い詩のような曲を作っていければと思う。フローニンゲン2021/1/8(金)04:41


6543. 今朝方の夢


時刻は午前4時半を過ぎ、静けさに満ちた闇の世界の中で時間がゆっくりと進行していく。


くどいようだが、日々の生活の中でもはや時間の流れが感じられないぐらいに時間感覚が変容していて、絶えず今という瞬間の連続的な連なりを感じている自分がいる。ひょっとすると、時間を感じないということが自己を最良に感じるということなのではないだろうか。


時間を分断的に認識することが自己を分断的に認識する事態を生んでいるのではないだろうか。永遠としての今を感じ続けることが、自己を最も深く感じることなのではないだろうか。


自己というものが究極的には永遠の今であることを考えてみると、やはり時間の流れを感じてしまうというのは、自己を深く捉えることから離れてしまっているのではないかと思う。


この点について記述しようとすると、やはり分節化を伴う形での言語の使用には限界があるように思え、詩的言語の力を借りる必要があるだろう。永遠の今を謳った詩はいくつも存在しているであろうから、手持ちの詩集、及びこれから届けられる詩集の中からこのテーマに合致する詩を見つけていこう。詩に関してもテーマ性を持ってそれに触れることを行ってみたい。


夢。今朝方もまた夢を見ていた。確か寝汗をかいて目覚める直前の夢が一番印象に残っているように思う。夢を見ることができたという点において、深夜12時に一度目覚めた時点で起床しなくて正解だった。


夢の中で私は、日本風の城の真前にいた。見ると、城の中にいる多数の人たちと、城の外にいる人たちが戦争状態にあり、城の外にいるのはテロ集団のようだった。


城の中にいるのは欧米のどこかの国の単一民族であり、城の外にいるのは国籍不明の傭兵テロ集団のようだった。彼らが城に向かって発砲しており、城の中の人間たちは非暴力を唱えて、発砲するなと叫んでいる。


すると発砲が止み、テロリストたちは城の中に入っていって、交渉をする運びになった。城の外にいた私も何気なく彼らについていき、城の中に入っていくことにした。


城門から城の入り口までは幅の広い石畳の階段があり、階段をゆっくりと登っている最中に、小中学校時代の友人が後ろから声をかけてきた。私の左手には彼の持ち物があって、私は彼からそれを預かっていたようなのだ。


随分と後ろの方から声をかけてきた彼を無視する形で、私は前に進んでいき、途中でその荷物を階段の手すりに何気なく置いた。すると彼は、もっと違う場所に置いて欲しいということを叫んでいたが、それも無視して階段を上っていった。


気がつくと私は見慣れない体育館の中にいた。厳密には、体育館のステージ裏の倉庫室のような場所にいた。


ふと足元を見ると、コンセントの差込口が収納されていて、その蓋を開けると、そこに先ほど友人から預かっていた荷物をはめ込むことができた。彼からは何かキャップのようなものを預かっていて、それはここにはめるためにあったのだとその時に思った。


いざキャップをはめてみると、それは見事にはまった。その瞬間に何か声が聞こえたので、顔を上げると、小中高時代のある女性友達(SS)が、姿は見えないが、親友(SI)にホースで水をかけていた。


いつの間にか私は屋外にいて、親友が外でトイレをしている最中に水をかけられているようだったのだ。彼はそのいたずらを自分の仕業だと思っているようであり、自分ではないことを英語で叫び、最後に“I didn’t!”と叫んだ。


すると、目の前に海岸沿いの美しい道が現れた。私の横を見ると、年齢にしては大柄なアフリカ系日本人の男の子と、数人の友人がいた。


私は現在の身長のまま中学生に戻っているようだった。アフリカ系の日本人の彼は中学一年生とのことだった。その割にはやはり体が大きく、口調も大人びていた。


彼を含め、友人たちは違う部活に所属しているようだったが、一緒に海岸沿いの道を走ることにした。私たちは会話を楽しみながら走り、会話の中でアフリカ系日本人の彼が、将来はバスケ部でエースになると意気込んでいた。


私はそれを微笑ましく思い、彼ならきっとエースになれるだろうと思った。その一方で、エースになる過程の中で、色々と足を引っ張る人間がいることにも注意が必要であり、そうした連中を乗り越えていって欲しいと願った。


すると、気がつけば私たちは海岸沿いの道を走り終えて、学校に戻っていた。そこで私たちは別れ、私はグラウンドに向かった。


私はハンドボール部とサッカー部の掛け持ちをしたいと思っていたが、それはできないことを知り、今はどちらの部活に所属するかを悩んでいる最中だった。ちょうどグラウンドでは隣り合わせで2つの部活が準備運動を始めていた。


周りの友人たちを含め、自分もサッカー部を選ぶものだと思っていたが、どういうわけかハンドボール部の準備運動の方に入った。そこではメンバーたちが円を作って何かゲームをしていた。何のゲームかと思ったら、どうやらしゃがんで手をつなぎながら反時計回りに回るというゲームらしく、尻餅をついたらアウトというゲームのようだった。


輪の中に入った私の右隣には高校時代の友人がいて、彼が無理に私を引っ張り出した。すると私は尻餅をつきそうになった。実際にはお尻が少し地面についてしまったが、アウトは宣告されなかった。


尻餅をつきそうになってしまったことが輪のペースを見出し、反時計回りの流れについていくことができないと判断した私は、その場からあえて動かないことが賢明だと判断した。そうすれば、もう一周みんなが回ってくるのを待って輪の中に合流できると思ったのである。


腕の関節をうまく使えばそれが可能だと判断し、実際にそれはうまくいくかに見えた。だが引き続き右隣の友人は私の腕を引っ張り、そして輪の乱れの責任を私に転嫁し始めた。


そこで私は、1人の人間に問題の原因を押し付ける構造を見た。そして、それをしていてはチームは強くならないことを全員に告げた。すると全員そこで黙り、私の言ったことを神妙な表情で考え始めた。


空を見上げると、そこには青い空が広がっていて、このゲームの創始者は問題の原因を誰か1人に押し付けてはならないということを伝えたかったのだろうと想像した。フローニンゲン2021/1/8(金)05:19


6544. 生死の非在性/「勝手」と創造


時刻は午後8時を迎えようとしている。今週も静かさと充実感を持って平日が終わろうとしている。


今日は両親とZoomで話をし、今後は2ヶ月に1度ぐらいのペースで話をしていこうということになった。今年は日本に一時帰国しないことにしたこともあり、また定期的に両親と話をすることはお互いにとって色々な面において良いことかと思って、これからは2ヶ月に1度Zoomを用いて近況報告を兼ねて話をすることになった。


両親も日々新たな挑戦をしながら人生を謳歌している様子が伝わってきて、とても嬉しく思う。


午後にシュリ·オーロビンドの詩集を読みながら、始まりとしての生誕と、終わりとしての死という現象が存在していたとしても、それを体験する当人にとってはそれはある一点としての体験であって、それがどれほどまで明確に認識されるものなのだろうかと考えていた。


私たちは気づいた時にはこの世にいて、気づいた時にはこの世にいない。どこかそうした側面が生死という現象にはあるのではないかと思う。


つまり、気がついたら生誕していて、気がついたら死んでいた、いや死んだらそれに気づけないであろうし、生誕もまた気づきの意識に上がることはないであろうことを考えてみると、生死を体験する当人にとってそれらの体験は気づきようのないものなのではないかと思ったのである。生も死も存在しないと言われることの意味の一側面はこのあたりにありそうだ。


今夜は静かな夜の世界を味わいながら、ロバート·フロストの詩集を読もうと思う。午前と午後に読んでいたルーミーとオーロビンドの詩集は素晴らしく、啓発をもたらしてくれる詩と数多く出会うことができた。


1つ1つの詩とじっくり向き合い、そこから喚起される感覚や考えに意識を向けている自分がいる。そしてそれを文章の形にしたり、曲や絵の形にしている。明日もまたそうした形で1日を過ごしていこう。


創作活動に従事していると、「手が勝手に動く」という体験をする。そのような体験を思い出しながらふと、「勝手」という言葉に着目した。それは「脳手」ではなく、「勝手」なのだ。


つまり創作に没頭している時の意識運動は、手という身体が他のものに勝るということなのではないかと考えた。言い換えると、創作中に無の状態になることがあるのだが、それは「手が脳に勝つ」すなわち、感覚が思考に勝るという体験を表していると改めて思った。


そうした状態において直感が働き、決して分節的な形で働く思考を用いていては生まれないものが生み出される。実際に、それは日々の創作活動として目の当たりにしていることだ。


明日もまた、言語的阿頼耶識、イメージ的阿頼耶識、音楽的阿頼耶識の3つの阿頼耶識とつながりながら創作活動に励んでいこう。それら3つはそれぞれ、詩を読むこと、絵を描くこと、曲を作ることに対応している。


それらの活動に従事することを通じて、無限の創造の泉につながり、至高体験の中で時間という寄せては返す波として存在し続けていこうと思う。フローニンゲン2021/1/8(金)20:04

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