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6366-6368: 日本滞在記 2020年11月1日(日)


No.1524 福井の朝空_The Morning Sky in Fukui

本日の言葉

Give happiness, but do not ask others for anything in exchange. Dugpa Rimpoce


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タイトル一覧

6366.【福井滞在記】福井滞在2日目の朝に

6367.【福井滞在記】「万生」の時と一体となって

6368.【福井滞在記】進むもの


6366.【福井滞在記】福井滞在2日目の朝に


時刻は午前5時を迎えた。今朝は午前4時半に起床し、先ほど朝風呂に入った。


振り返ってみると、日本に一時帰国してから終始一貫して良いリズムで生活ができていたように思う。夜は早めに就寝し、朝早く起きることは、単なる生活上の習慣を超えて、人生の習慣となった。


そしてそれは人生そのものになった。そうしたものをこそ、本当の習慣と呼ぶのだろう。


この時間はまだ辺りは真っ暗だが、その分、満月の輝きが美しく見える。ちょうどホテルの自室からまん丸の満月を拝むことができている。


今日の福井の天気は晴れだが、明日は強めの雨が降るそうだ。今回一時帰国して初めての雨かもしれない。


京都に移動した初日も雨が降ったのだが、それは小雨であり、傘を差さなくても問題ないぐらいであった。そうしたことを考えると、やはり最初の雨かもしれない。


最初の雨が福井滞在最終日、すなわち今回の一時帰国の観光における実質上の最終日に降ることは興味深い。


明日は雨、本日は晴れであることを考えると、今日はホテルから歩く距離が長い方の美術館である福井市美術館に行く。ホテルからは4kmほどの距離であり、歩くと片道40分以上かかるが、程よい運動になるだろう。


常設展として、敬愛する森有正先生と親交の厚かった彫刻家の高田博厚氏の作品を見ることができる。高田氏は、2歳から18歳までの多感な時代を福井で過ごしたそうであり、彼の作品にはこの地の何かが反映されているに違いない。


今朝方はぼんやりと夢を見ていた。起床直前の無意識の世界に、種々のイメージ群が立ち現れていた。その中でも記憶に残っているのは、前田利家にゆかりのある見知らぬ人が登場していたことである。


金沢を統治していた前田利家が夢に現れたのは、数日前まで金沢に滞在していたことの影響だろうか。夢の中の感覚としては、不思議な高揚感があった。


時刻は午前5時半を迎えた。今から絵を描き、作曲実践をしてから読書をする。朝食は午前7時半か8時から摂ることにし、朝食後、少し自室で休憩をしてから美術館に向かおう。


昨日ふと、ホテルのグレードによって客層が異なることを考えていた。今回の一時帰国において、少しばかり実験的に色々なグレードのホテルに宿泊してみた。


色々なグレードと言っても、それなりのものでなければ安心して滞在ができないため、最も低いグレードであってもそれなりに快適に過ごすことはできている。とは言え、やはり四つ星や五つ星を獲得するホテルはとても品があって快適であり、四つ星と五つ星との間には随分と大きな溝があることも多いことに気づく。


客層に関して言えば、三つ星のホテルになってしまうと、四つ星以上とは随分と違う。このあたりも見えない格差、あるいは居住地が経済・文化的資産の多寡によって分けられてしまうというゾーニング的なものを見ることができる。こうした傾向は今後も静かに進行し続けるだろう。福井2020/11/1(日)05:39


6367.【福井滞在記】「万生」の時と一体となって


——Respondeo, ergo sum. (私は誰かに応答している、ゆえに私は存在する)——フリードリヒ·ハイネマン


時刻は午後3時を迎えた。先ほどホテルの自室に戻ってきて、仮眠から目覚めたところである。


今日は午前中から午後にかけて、福井市美術館に行ってきた。ホテルからは歩いて40分以上かかったが、道中の景色と雰囲気は素晴らしく、散歩を存分に楽しんだ。


一級河川である足羽川沿いを午前中に歩いていると、自分がいる時空間が変容しているように感じられた。そもそもその場の時空間が特殊なものだったのか、はたまた自分の内的な時空間と混じり合うことによってそうした不思議な時空間が生まれたのかは定かではない。


生物学者のヤコブ・フォン・ユクスキュルが述べた「環世界」という言葉について自ずから思う自分がいた。ススキの時間、蝶の時間、小川の時間、秋風の時間、そして現地の人々の時間。それらの時間はそれぞれ異なっていて、それらは複雑に混じり合っている。


私は、そうした複雑に混じり合った時間の中にポツリと佇んでいて、自分の時間感覚が変容していることに気づいたのである。「この世界に固有な存在として在るということは、こうした体験を通じて気づかされるのだ」ということを思った。


何かに導かれるようにして福井にやって来て、秋の太陽光が降り注ぐ福井の街をぼんやりと歩いている自分。地方都市には東京とは違った寂寥感が漂っているのだが、その寂寥感の中に無常さの輝きを見る。これは昨年までなかった気づきである。


昨年までは、地方都市の廃れた感じが醸し出す何とも言えない感覚が身を包み、その感覚のさらにその先にあるものを感じることができていなかった。だが今年は、もうその先を感じられるようになっている。無常さの先には、こんなにもほのぼのとした温かいものがあるのだ。


感覚が自然と目一杯開かれ、様々なものを感じながら歩いていると、美術館が見えてきた。福井市美術館は大きな公園の中にあり、今日は日曜日であったから、家族連れが多く、どこか平和な感じがした。


ちょっとしたことに心動かされる自分。家族連れの両親たちが、子供たち同士が楽しそうに遊んでいる様子を眺めながらベンチで腰掛け、何やら楽しそうに対話をしていた。対話がそこにあるということに、私は無性に嬉しくなった。


公園の道ですれ違った若い父親と娘が私に挨拶をしてきたこと。それもまた自分の心を動かすには十分だった。


まだ世界には心を持った人間がたくさんいるということ。そして彼らは対話を通じて心を通わせているということが、小さいながらも途轍もない喜びの感情を私にもたらした。


公園の芝生の上では、小さな子供たちのためのラグビー教室が行われていて、子供たちが体を動かしているその脇で、宇多田ヒカルの懐かしい曲がかかっていた。その曲に耳を傾けながら、私はしばらく子供たちが体を動かす様子を眺めていた。


しばらくしてからその場を離れ、美術館脇の小道に戻ると、美術館の外堀に小川が流れていることに気づいた。それはある方向から別の方向に流れていて、それを見た時、これが人生だと思った。


「人の生」だけではなく、「万物の生」であるから、「万生」と述べた方がいいだろう。文字通り、生きとし生けるもの、さらには社会も宇宙も含めた万物の流れをそこに見て取った。


それは啓示的な気づきだった。その気づきに触れた時、思わず目頭が熱くなった。


その瞬間が自分を含めた万物の流れの中に還っていき、それは万物の流れ全体と1つになる。自分に固有の瞬間が、自分を超えた存在たちが生み出す全体としての時間の中に還り、それと1つになるという神秘さと美しさ。私の心と魂は、すっかりそれに打たれてしまった。


気がつくと、小川を流れていた落ち葉がどこかに消えていた。それは運ばれるべき場所に運ばれていったのだと知った。福井2020/11/1(日)15:31


6368.【福井滞在記】進むもの


時刻は午後6時を迎えようとしている。午後2時あたりにホテルに戻ってきて仮眠を取り、そこから2本ほど映画を見た。


映画というのもまた、そこに固有の時空間が存在していて、良い作品であればあるほどその時空間にこちらを飲み込む力がある。そして、ひとたびその映画を見終えたら、もうそれを見る前の自分ではないという現象が生じる。それはまさに真の芸術が持つ力と同じである。


誰かに聞いてほしいことがあり、誰かに見てほしいことがあるということ。福井の街が静かにそれに気づかせてくれた。


誰かに聞いてほしいことや見てほしいことを伝えていく責任。私たち1人1人にはそうした思いと責任が本来あるのではないだろうか。


「責任」という言葉を前にすると、思わず尻込みをしてしまうかもしれない。これまでの自分がまさにそうであったように思う。


今年もまた日本に戻ってきたことが不思議でならない。あと何回日本の土地に足を踏み入れ、あと何回日本の空気を吸うことができるのだろうか。もうそのカウントダウンが始まっていることを知っている。


福井にいる今の自分。昨日の朝はまだ東京にいた。一昨日の朝は金沢にいたのである。明後日は大阪に移動する。


関空近くのホテルに移動して、いよいよ明々後日にはオランダに戻る。そう、自分が本来いる場所に帰っていくのである。


自分が本来いるべき場所に戻っていくということ。帰還に伴う心の揺れを感じる。こうした揺れが内的成熟を後押しするのは確かだが、まだこの感覚に慣れていない。


いつもこの感覚を感じるたびに目新しさと同時に、どのようにこの感覚と向き合えばいいのかを考えてしまう。考えるのではなく、感じよう。ただそれを感じるままに感じ、その感覚が自己の深層に沈んでいくまで感じ切るのである。


一昨日、知人の鈴木規夫さんと東京で対談セミナーを行った。その時に、3、4年振りに会う知人が何人かいて、その方々に自分がより自由になった感じがすると言われた。


以前に自己を覆っていた重たい鎧が取れてきて、解放的かつ自由になったと言われたのである。言われるまで気づかなかったが、言われてみて、確かにそうかもしれないと思った。


私たちの魂が本来持つ軽やかさ。私たちの魂は本来自由である。その自由さが自分の内側から滲み始めてきた。


依然として魂のくさびが残っているかもしれないが、そのくさびが徐々に消えていき、より自由で解放的な魂がここに顕現し始めている。それを感じている自分が今ここにいる。


本日訪れた福井市美術館で見た高田博厚氏の一連の彫刻作品の数々。なんと素晴らしい造形芸術であっただろうか。


高田氏は30歳でフランスに渡り、そこから27年間の月日をパリで過ごし、57歳で日本に戻った。彼の生き様と自分の生き様を自然と重ねてしまうことがあり、常設展の最初の展示室で流れていたドキュメンタリーを見ていると、思わず込み上げてくるものがあった。


自分はいったいこれからどこに向かい、どのように変貌を遂げていくのだろうか。それは全くもって未知であるが、今の自分では想像できない場所に辿り着き、そして変貌を遂げることだけは歴然として判明している。


こうした未知と既知のせめぎ合いの中を生きているのが人間であり、そのせめぎ合いの中で進んでいくのが発達なのだ。福井2020/11/1(日)18:13

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