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6273-6278: アートの国オランダからの便り 2020年9月30日(水)


No.1453 形而上学的ピエロ_A Metaphysical Clown

本日の言葉

The mind in its natural state can be compared to the sky, covered by layers of cloud which hide its true nature. Kalu Rinpoche

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本日生まれた10曲

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タイトル一覧

6273. 存在論的単価/共存在感覚/創造的な営みとしての学習

6274. 創作活動に関して

6275.「在ることを在る経験」/保留の感覚/今朝方の夢

6276.『硫黄島からの手紙 “Letters from Iwo Jima (2006)”』を見て

6277.『11·25自決の日 三島由紀夫と若者たち(2012)』

6278."This Giant Beast That is the Global Economy (2019)”の第8話を見て/友人がかつて贈ってくれた『青の時代』


6273. 存在論的単価/共存在感覚/創造的な営みとしての学習

時刻は午前5時を迎えた。この時間は辺りは真っ暗であり、書斎の窓を明けていると大変冷たい空気が入ってくる。


早いもので、来週の今日は日本に向けて出発する。今回の一時帰国に際して、和書を結構な数オランダに持って帰ろうと思っており、大きいスーツケースを持っていこうかと今朝方思った。


ここ数年は、機内持ち込み用のスーツケースだけを持って日本に帰るようにしており、とても身軽だった。チェックインカウンターでスーツケースを預ける必要もなく、空港到着の際にベルトコンベアーでスーツケースを待つ必要もなかった。時間の観点で言えば、それはとても効率が良く、現地に到着してからの移動も身軽であった。


ところが今回は、スーツを2着とビジネスシューズ1着を持参する必要があり、オランダに持って帰りたい書籍の数も多いため、少し大きめのスーツケースを持って帰ることが賢明なように思えてきたのである。今のところ大きめのスーツケースを持って帰る方向でいて、前日に荷造りをする際に最終的な判断をしようと思う。


もし仮に大きめのスーツケースを持って帰るとすれば、帰りのオランダの空港でベルトコンベアーからスーツケースが出てくるのを待たなければならないので、そうした時間を考えると、空港のホテルで2泊し、アムステルダムの美術館を巡るという当初の計画を実行してもいいかもしれない。


昨日もまた雑多なことを考えていた。それらを備忘録がてらまとめておきたい。まず1つに、霊性や精神を活現させていくことの大切さについてである。


抑圧された霊性と精神を解放し、その迸りを後押しすること。霊性や精神は目には見えないものだが、そうしたものを即座に否定することは、ロイ·バスカーの言葉で言えば「存在論的単価(ontological monovalence)」の過ちを犯していると言えるだろう。


霊性や精神以外にも、現象を引き起こすメカニズムや力も往々にして目には見えず、そうしたものを否定することや見えないこともまた存在論的単価の過ちである。簡単に言えば、この誤謬は、そこに存在するものしか見ないこと、あるいは認識できるものしか認識しようとしないことを指す。


不在のものを絶えず見つめる眼差しを持っておくこと。未知なるものに開かれた目を絶えず持っておくこと。そして、存在論的単価の過ちを犯している事態を見抜く目を持つこと。それらの大切さについて考えていた。


2つ目として考えていたのは、バスカーが述べる「共存在感覚(co-presence)」についてである。共存在感覚というのは、夜空を仰ぎ見た時に見える星々が自分の外側に広がっていながらも、同時に自分の内側に広がっているという感覚である。


私たちは、お互いにそうした感覚を持ち合って日々を生きているだろうか。他の生物·無生物たちに対してこうした共存在感覚を抱けているのだろうか。それは私たちに本来備わっている感覚のはずであり、発達可能な感覚なのだ。


そのようなことを考えながら、3つ目の話題について考えていた。それは、学習というのは、知識を取り入れる活動というよりもむしろ、知識を創造する活動であるということについてである。


端的には学習とは、既存の知識を取り入れながらにして新たな知識を創造する営みと言った方が正確だろうか。学習とは兎にも角にも創造的な営みなのである。それを忘れた学習観や学習実践が多いすぎやしないだろうか。そのような問題意識を持っている。フローニンゲン2020/9/30(水)05:27


6274. 創作活動に関して


時刻は午前5時半を迎えた。昨日は、クリント·イーストウッド監督の『父親たちの星条旗 “Flags of Our Fathers (2006)”』を見たので、今日は硫黄島2部作の後編に当たる『硫黄島からの手紙 “Letters from Iwo Jima (2006)”』を見ようと思う。


ここ最近は毎日映画を1本見て、ドキュメンタリー番組も1つか2つほどのエピソードを見ることができている。それでいて毎日1、2冊ほど書籍を再読することを行っていて、創作活動も一定量の実践が行えている。学習と実践の境目はもうほとんどないのだが、多岐に渡る学習と実践がとても良い関係性の中で進められているのを実感する。


今日は、8月の初旬から取り掛かっていた、アーノルド·ショーンバーグがハーモニーついて執筆した書籍“Theory of Harmony”の1巡目がようやく終わる。この書籍は450ページほどあり、掲載されている譜例の数が多かったのだが、毎日コツコツと譜例を写経し、それをもとに小さな曲を作るということを水の如く淡々と進めていたところ、ようやくもって本日その1巡目が終わる。


日々小さく進むこと。そしてそれを継続させていくことの大切さを改めて知る。とにかく小さな前進を日々続けていくことをこれからも大切にしていく。


一昨日にふと、人生これから色々なことがあると思うが、創作活動が自分を支えてくれるという確信が芽生えた。日記を執筆すること、曲を作ること、絵を描くこと。それらの創作活動は、心の癒しと変容を大きく後押ししてくれていて、創作活動そのものが一生涯の無形の財産となり、自分を支え続けてくれるだろう。それは実存的·霊的な財産になる。


創作活動と自己超越欲求の結びつき、さらには自我の究極的な欲求である自己永遠化の欲求との結びつきについて昨夜考えていた。自分がこうも何かに駆り立てられるようにして日々創作活動を行っているのは、そうした欲求を持つ自分がいるのかもしれない。


とは言え、今の私はまだ本腰を入れて創作活動をしていない。仮に本腰を入れて創作活動をしているのであれば、1日に10曲程度、絵を4~5枚程度しか作らないはずがない。少なくても15曲、絵に関してもさらに2倍ほど描くことができるだろう。


今はまだゆっくりとした助走期間なのである。一生涯創作活動を続けていくためには、今のように創作欲求が飢餓感を持つぐらいがちょうどいいのかもしれない。


その一方で、ここからどこかの時期に集中的に創作活動に励むこともあるだろう。その際には一般的な形で営まれる社会生活を営むことはしない。それに向けた精神的·物理的·環境的な準備は着々と進みつつある。


本日ショーンバーグの書籍の1巡目を終えたら、今度は“Other Harmony: Beyond Tonal and Atonal”という書籍に取り掛かろうかと考えている。こちらは、ショーンバーグの書籍に比べれば譜例が少ないので、1巡目は早く終わるかもしれない。


作曲実践に伴う顕教として、音楽理論と作曲理論に関する専門書をできるだけ幅広く読み、繰り返し読むことを通じて肉厚な知識を得ていく。そして、作曲実践に伴う密教として、専門書に掲載されている譜例をもとにとにかく実際に曲を作っていき、技術の鍛錬に励む。


1つの目安として、あと4年後に自分がどうなっているのかを見るのが今から楽しみである。同時に、芸事は長大な時間をかけて、それこそ文字通り一生涯をかけて切磋琢磨と精進を重ねていくものであることを念頭に置いて、ゆっくりとだが着実な歩みを進めていきたいと思う。フローニンゲン2020/9/30(水)05:52


6275.「在ることを在る経験」/保留の感覚/今朝方の夢


時刻は午前6時に近づこうとしている。真っ暗な外の世界を眺めながら、引き続き日記を書いている。


日記を書くこと、曲を作ること、絵を描くこと、読書をすること、映画やドキュメンタリーを見ること。それらが今の自分の日常を形成している。


そこに時折協働プロジェクト関係の仕事に従事する時間を設けるようにしているが、近い将来は前者の取り組みにより時間を充てることになるだろう。前者の取り組みに従事している時こそ、自己という存在が活現しているように感じる。


自己を活現させてくれる取り組み以外は断固として従事せず、自己を活現させてくれる取り組みだけに従事していく。そうした取り組みだけでもどれだけ幅が広いだろうか。


思考を通じてそこに在ることを理解するのではなく、在ることを在る経験(experience of being being)を通じてそれを実感していく。在ることを在るという経験を、果たして私たちはどれだけ積めているだろうか。


そうした経験や自己を活現させてくれる経験の欠落した人生とは一体どのような人生なのだろうか。機械化·ゾンビ化といった非人間化の進む社会の中でそのような問いが芽生える。


「私たちは思考を通じて学ぶというのではなく、むしろ思考の保留から学ぶ」というロイ·バスカーの指摘について考えを巡らせる。創造的な生き物である私たちは、思考の流れの外にある自発性を司る流れを通じて学びを深めていく。


そうした流れに参入するためには、思考の流れそのものを保留するという態度、あるいはそこにうかつに入っていかないとするような態度が求められる。


昨日もある協働者の方とオンラインミーティングをしているときに、非言語的な創作活動を通じての言語束縛からの解放について話をしていた。曲を作っているとき、そして絵を描いているときの「保留の感覚(sense of suspension)」を大切にしよう。それこそが治癒と変容をもたらす間(あわい)をもたらしてくれるのだ。


それでは今朝方の夢について振り返り、早朝の創作活動に励んでいこう。自分はまだ何も創作活動を始めていないという初心が絶えず内側に存在していることは良いことだろう。


もっとである。もっと作ることを促す抑えがたい衝動が自分の内側にあるが、そうした衝動を人生の最後の瞬間まで抱き続けるために、今はその衝動に完全に従うのではなく、あえてそうした衝動が創作への飢餓感をもたらすにように、その衝動と対話をし、寄り添うことを大切にしている。


夢の中で私は、不思議な空間にいた。目の前には、最終地点が見えないような巨大なエスカレーターがあった。私の右隣を見ると、小中学校時代の友人(RS)がいた。


彼と一緒に、無言でエスカレーターの上の方をぼんやりと眺めていると、私たちに声をかけてくる人たちがいた。振り返ると、そこには小中学校時代の友人が3人いた(YK & SH & NI)。3人のうち2人は男友達であり、もう1人は女友達であった。


彼らはこれから高速のエスカレーターに乗って、私たちにクイズを出すと言う。それはどんなクイズかと言うと、彼らが手に持っているネクタイの色と特徴を当てていくものだった。


どうやってそのクイズが進行するのかを尋ねてみたところ、彼らが持っているネクタイがエスカレーターの足場に映し出されるとのことであり、それを見て色や形のパターンを把握し、仲間外れの3つのパターンを当てるという内容とのことだった。


動体視力が試されるような面白いクイズだと私は思い、学年でも5本の指に入るぐらいの運動神経の良い友人とそれに取り組むことが楽しみになってきた。いざそのクイズを始めてみると、3人は順番にエスカレーターに飛び乗っていった。


すると、ただでさえ速かったエスカレーターの速度が尋常ではないほど早くなり、彼の足元に光るネクタイの色と形のパターンが私にはほぼ全く捉えることができなかった。横にいた友人も同様のようだった。


最初の挑戦において、クイズはあっけなく失敗し、私たちもエスカレーターに乗って上に向かった。すると、やはりあまりにも速くエスカレーターが動いたようだったので、女友達が足を捻挫してしまったようだった。


彼女は来月に何かの競技の大会に出場するとのことであり、私は彼女の怪我を心配に思った。すると、そこから時間が飛び、彼女は足に包帯を巻いていながらも、捻挫は2週間ほどで完治すると私に教えてくれた。それを聞いたとき、私はほっとした。


次の夢の場面で覚えていることは少なく、中学校時代にお世話になっていた女性の数学の先生が夢の中に出てきていたことぐらいしか覚えていない。先生と笑いながら何かの話題について話をしていた。


最後の夢の場面では、私は実際に通っていた中学校の校庭にいた。より具体的には、バスケットコートの上にいた。


周りを見渡すと、部活の同学年のメンバーたちと後輩がたくさんそこにいた。私はキャプテンを務めており、副キャプテンの友人が早く練習を始めたそうにしていたので、2分後から全体練習をすることを全員に呼びかけた。


2分間のウォーミングアップとして、私はある親友(KF)と1on1をすることにした。いざ1on1を始めると、どういうわけかドリブルのコントロールが狂いがちであり、危うく彼にボールを取られそうになることが何回かあった。


しかし、徐々にボールが手についてきて、そこからはダンクシュートを何回か決める形で彼に勝利した。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン2020/9/30(水)06:20


6276.『硫黄島からの手紙 “Letters from Iwo Jima (2006)”』を見て


時刻は午後7時半に近づきつつある。今日は日中に少しばかり晴れ間が顔を覗かせたが、1日を通して曇りがちの日であった。そんな本日に映画を2本ほど見た。


最初に見たのは、『硫黄島からの手紙 “Letters from Iwo Jima (2006)”』である。硫黄島の戦いを描いた2部作の前編である『父親たちの星条旗 “Flags of Our Fathers (2006)”』は昨日に鑑賞し、本日はその後編である。


今回の作品は、日本兵側の姿を描写している。鑑賞しながら思っていたのだが、これが日本人監督ではなく、アメリカ人監督が作ったものであるということに驚いた。


その驚きは、観点の公平性、ないしはアメリカ人監督から見て外の存在であるはずの日本を内側から視点を取って見事に描いていたことにある。発達理論の観点で言えば、イーストウッド監督の視点取得能力の発達段階は高度であり、幅と深さのある観点を取得できる監督なのだということを改めて思った。


それを具体的に表すシーンが随所に本作品にも見られた。多様な観点を取り、それでいて観点中立的な姿勢を持つというのは、インテグラル理論で言えばグリーン的、あるいは相対主義的段階のそれのように映るかもしれないが、イーストウッド監督の作品にはどこか一貫した信念のようなものが貫かれており、多様な観点を取りながらも、それらを超越する1つの思想ないしは主張のようなものが根底に存在しているように思える。


その観点において言えば、イーストウッド監督はティール的な発達段階を体現していると言えるかもしれない——もちろん、それは映画作品から窺い知ることのできるある特定の発達領域に限定されるが——


作品の中で印象に残っているのは、渡辺謙が演じる栗林中将が、戦いの合間に昔を回想したり、家族のことを思いながらスケッチを描いていたことである。そして、アメリカ軍との激しい戦いの最中のある夜に、ラジオで日本軍を励ます歌が聞こえてきたのときの日本兵たちの表情を忘れることはできない。束の間の安らぎや、なんとも言えない複雑な感情を抱いていた者もいるだろう。


いずれにせよ、スケッチを描くことや音楽といった芸術が、わずかばかりでも彼らの心に何かしらの影響を与えていたことが強く印象に残っている。芸術が世界平和を実現するというような寝言ではなく、すなわち芸術の力を過大評価するのではなく、それでいて芸術が何の力もないというような過小評価をすることもなく、やはり芸術にはいかなる状況においても人々の心に何かしらの影響を与える力があることは確かであろう。そこには心を動かす力があるのだ。


その他に印象に残っているのは、伊原剛志演じる西中佐の言葉「己の正義を尽くせ」と言う言葉である。上官の命令を思考停止状態で従順的に受け入れるのではなく、自らが正義だと判断したことを貫けというメッセージは、当時の時代背景や軍を覆う精神風土ではとても異例のものだったのではないかと思う。


このメッセージはおそらく、イーストウッド監督が大切にしている信念の1つの現れではないかと思う。確かに、発達理論の観点から言えば、より高度に発達した信念体系や正義感というものはあるだろうが、体制順応型の行動論理ではなく、自らの内なる声を聞き、自らの信念を持ってそれに立脚する形で行動せよという言葉が示唆することは大きいのではないかと思う。少なくとも、今の現代人において、そのような己の信念を貫いて生きているような人間はほとんどいないのだから。


最後に、二宮和也演じる西郷一等兵が、日本に残してきた妻に宛てて手紙を書いているシーンが印象に残っている。「この手紙は届かないかもしれないが、書いているだけでホッとするんだ」という言葉がそこにあった。


今このようにして異国の地で毎日書いている一連の日記は、届かないかもしれない手紙を書いているようなものであり、現代社会がこんな有様であったとしても、書くことの中に平安な心の世界が広がっていることは確かな実感としていつもここにある。フローニンゲン2020/9/30(水)14:22


6277.『11·25自決の日 三島由紀夫と若者たち(2012)』


振り返ってみれば今日は、協働プロジェクト関係のオンラインミーティングが2時間ほどあったが、午前4時半に起床して活動を始めていたためか、ロイ·バスカーの哲学書を2冊ほど再読、デジタルアートを4枚ほど描き、10曲ほど詩のような短い曲を作り、そして映画を2本見て、ドキュメンタリー番組を1つ見た。そして日記に関してはこれで5つ目の記事になる。


こうしたリズムで日々の生活を形作っていこうと思う。明日と明後日はオンラインミーティングは何もないので、可能であれば今日のように2本ほど映画を見ることができるかもしれない。映画を見ることは義務なのではなく、それを通じて学習と実践をより豊かなものにしていく楽しみとして行っていくことを忘れないようにする。


今日2本目の映画として見ていたのは、先日見た『実録·連合赤軍 あさま山荘への道程(2008) 』を作った若松孝二監督の『11·25自決の日 三島由紀夫と若者たち(2012)』という映画だ。


連合赤軍の誕生背景と浅間山荘事件に至るまでのプロセスは前々から気になっていたのと同じように、三島由紀夫の自決に至るプロセスもまた関心を引くものであった。端的には、連合赤軍の映画を見た後にこの映画を見て良かったと思う。


というのも、連合赤軍の思想と対極的にある思想を持っていたのが三島由紀夫であり——作品の中でも三島本人が述べていたが、もちろん連合赤軍に共感する部分もあるとのことだったが——、あの当時に支配的だった2つの対極的な思想を理解した上で三島が自決に至るプロセスを辿ることができたからである。おそらく前者の作品を見ないままであれば、三島の思想をあまりよく理解できなかったであろうし、彼を自決に導いた動機をほとんど理解することはできなかったであろう。


偶然ながら、いや先月に専門書の一括注文の際に政治学に関する書籍もいくつか入っていることからも、ここ最近の関心の1つは政治思想にあることは確かであり、それがゆえに、保守の思想家である西部邁先生の仕事を知ることになったのだろう。


今まで左翼と右翼の違いもよくわかっておらず、右翼と保守を一緒くたに捉えているような自分がいたのだが、先生が生きておられた頃のインタビューを動画で聞くことによって、右翼と保守は全く別物であるということを教えてくれたのが西部先生だった。また、保守とは何ぞやについては、社会学者の宮台真司先生の説明も非常に明快でわかりやすく、宮台先生の動画からも様々なことを教えてもらっている。


今回の一時帰国においては、西部先生と宮台先生の執筆された書籍も何冊かオランダに持って帰ろうとしている。実際のところ、突如として映画やドキュメンタリーを鑑賞することに目覚めたのは、宮台先生の仕事によるところが大きい。


西部先生の書籍については、国民の道徳(2000)『昔、言葉は思想であった ―語源からみた現代 (2009)『保守思想のための39章(2012)』『西部邁の経済思想入門 (放送大学叢書) (2012)』『西部邁 最後の思索「日本人とは、そも何者ぞ」(2018)』『保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱(2017)』『保守の遺言:JAP.COM衰滅の状況(2018) 』『大衆の病理―袋小路にたちすくむ戦後日本(1987)』の8冊をまず読んでみようと思う。


購入予定の文献リストにはさらに何冊か先生の書籍を加えたが、とりあえず今回の一時帰国に際しては、こちらの8冊を読んでおきたいと思う。とりわけ国民の道徳(2000)という書籍は700ページ近い大著であるが、今道友信先生の提唱した倫理学に関する書籍と合わせて、真善美の善の領域を探求していく上で是非とも読んでおきたい書籍である。


そのように文献調査と文献の読解を進めながら映画を鑑賞していくと、その映画が主題とするテーマに対する理解が深まっていく。『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち(2012)』の内容については、まだ消化している最中のものがたくさんあるので、それについてはまた日を改めて書き留めておきたい。


作品の随所随所で、そして最後の三島の自決のシーンにおいて、自分の意識や無意識、さらには身体や感情が反応していることは確かであり、そこからもまた映画という媒体が何かしらの治癒と変容をもたらすものであることを実感した次第であった。フローニンゲン2020/9/30(水)20:13


6278."This Giant Beast That is the Global Economy (2019)”の第8話を見て/ 友人がかつて贈ってくれた『青の時代』


時刻は午後8時半に近づこうとしている。今日は2本の映画に加えて、先日から視聴しているAmazonプライムのオリジナル作品である"This Giant Beast That is the Global Economy (2019)”というドキュメンタリー番組の最終話である第8話を見た。今回のテーマは汚職と経済に関するものである。


汚職も地下経済を構成する1つの重大な領域であり、本エピソードの中では、アメリカ、インド、チェコ、シンガポール、マレーシアの過去の汚職事件と経済の結びつきについて取り上げている。今回のエピソードを通じて何かを深く考えさせられたかというとそうではなく、どちらかというと情報的な観点で、世界の様々な国の汚職事情を知るような形での視聴となった。


現在、シンガポールに何人かの協働者の方がいるのだが、シンガポールの駅のプラットホームで水を飲むことが罰金であるとは本作を見るまで知らなかったことである。世界には本当に様々な規制や法律があることに驚く。それらに無知であることは、様々な国を訪れる際や実際にそこで生活をする際に色々と問題を引き起こしかねないということを思う。


つい先ほどまで、『11·25自決の日 三島由紀夫と若者たち(2012)』について書き留めていた。三島由紀夫に関して言えば、私が20歳の誕生日の時に、当時アメリカの名門リベラルアーツカレッジに通っていた日本人の友人が、三島由紀夫の『青の時代』の文庫本を私にプレゼントしてくれたことをふと思い出した。


その時彼は日本に一時帰国していて、わざわざ私が住んでいた国立市までやってきてくれ、何人かの友人と自宅でファイナンスに関するボードゲームをしたことが懐かしい思い出として残っている。そんな記憶を辿りながら、なぜ彼はあの時私に『青の時代』を贈ってくれたのかについてぼんやりと考えていた。


友人は、物語の主人公に何か自分と重なるものを見出したからこの作品を贈ってくれたのだろうか。それともこの作品から何かを学べというメッセージを込めてあの作品を贈ってくれたのだろうか。いつか再び彼と話す機会があれば、その点について尋ねてみたい。


本日行われた協働プロジェクト関係のオンラインミーティングの際に、協働者の方からオランダのコロナの状況について尋ねられた。正直なところテレビもニュースも全く見ていないので、今オランダがどのような状況にあるのかあまり理解していなかった。


かろうじて定点観測的に、オランダ人の友人かつかかりつけの美容師のメルヴィンに、散髪のたびごとにコロナの現状について、とりわけフローニンゲンの状況について話をするぐらいだった。そこで改めてオランダの状況について調べてみると、状況が変化し、悪化の傾向に向かっていることがわかった。


端的には、9/28日付のニュースにおいて、オランダは欧州の中で最もコロナウィルスの感染が進んでいる国に指定されたとのことだった。とりわけ、アムステルダムとハーグはヨーロッパの中でも感染者数が最も多い都市のトップ10に指定されることになったと知って驚いた。


アムステルダムやハーグには日本人の知人がいることもあり、それは他人事ではなかった。コロナは感染力は強いが致死力はそれほどでもないと言われているが、そうであったとしてもオランダは隣国のベルギーやフランスと並ぶぐらいにウィルスが再び蔓延しているということは念頭に置いておいた方がいいだろう。フローニンゲン2020/9/30(水)20:13

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