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5670-5674: アートの国オランダからの便り 2020年3月29日(日)


本日の言葉

In renunciation lies a delicious taste of simplicity and deep peace. Matthieu Ricard

本日生まれた12曲

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タイトル一覧

5670. 加藤家のルーツを辿る旅

5671. 構成概念の奴隷とAIの奴隷:人生の有限性

5672. アートの国オランダにやって来て

5673. 絵画の創作に向けて:今朝方の夢

5674. デジタルアートの創作に向けて:iPad Pro購入の検討

5670. 加藤家のルーツを辿る旅

時刻は午前7時を迎えた。今日からサマータイムに入ったこともあり、昨日の時間で言えば今は午前6時ということだ。

早いもので今年もまたサマータイムの時期となった。確かにここ最近は日が昇るのが早くなり、日が沈むのが遅くなった。また、晴れの日も増えてきたことも季節の変化を予感させている。

一方で、気温に関しては相変わらず低く、今日は最高気温が6度までしか上がらず、最低気温は0度である。明日は最低気温がマイナス2度とのことである。依然として寒さ対策が必要である。

昨日に、この秋の一時帰国のためのフライトを確保することができたことを書き留めていたように思う。とりあえず望むようなフライトが抑えられたことは喜ばしい。

アムステルダムからロンドンを経由するよりも、本当は行きも帰りもフィンランド経由の方が望ましかったが、航空会社を比較するという観点において、結果として行きはロンドン経由、帰りはフィンランド経由で良かったように思う。

これまでの8年間において、日本に一時帰国する時は常に成田空港を使っていた。だが今回からは関空を利用することにした。その理由としては、特に今回は東京に立ち寄る必要もなく、また東京とは今後しばらく距離を取り、自分の内側で東京に対するイメージや感覚がどのように変化するのかを観察したかったということがある。

その他の肯定的な理由としては、今回は福井県と石川県に立ち寄りたいと考えていて、関空からの方がそれらの県へのアクセスが良かったことである。

昨年日本に一時帰国した際に、実家で両親から加藤家のルーツの話を聞いた。両親は夫婦共に加藤という姓を持っているのだが、父と母の「加藤」という名前のルーツはどうやら違うそうだ。

父方の加藤家の家紋は「下がり藤」であり、石川県にゆかりがあるらしい。一方で、母方の加藤家の家紋は「上り藤」であり、福井県にゆかりがあるとのことであり、自らのルーツを辿る意味で両県に足を運んでみようと思った。

2つの県を訪れた記憶は過去になく、今回が初めてかもしれない。今回の帰国を通して自らのルーツを辿ることによって、また何か新しい発見があるだろう。また今回の一時帰国は、日本の再発見をもたらしてくれるはずだ。

今回は上述の通り、福井県と石川県に訪れることを主目的にしているが、加藤家の歴史がわかる博物館が史料館があるわけでもなく、単純に両県に足を運び、それらの県の空気を吸い、雰囲気を感じることだけが目的である。それに付随して、小さな美術館をいくつか巡ろうと考えている。

そうした理由以外には、運転免許の更新もある。最後に車を運転したのは今からもう15年近く前の卒業検定の日であり、それ以来一度もハンドルを握ったことがない。

車を所有する必要性をこれまで感じたことはなく、アメリカで4年間生活している時でも、カリフォルニアでは自転車で十分であり、ニューヨークでは徒歩で十分だった。今も車を必要としておらず、今後も車を運転する気はないが、運転免許の更新は念のため行っておく。

今後フィンランドで生活をすることになれば、その時は郊外に居を構えることを考えていて、その際には車が必要になるかもしれない。そういえば、先日隣の家の前を通った時、近所のスーパーのトラックが家の前に止まっていて、食糧の宅配をしていた。

コロナウイルスの蔓延によって、そのようなサービスがあることを初めて知り、そうした宅配サービスがあれば、今後郊外で生活をするようになっても車はいらないかもしれないと思った。そのようなことを考えていたことを思い出す。フローニンゲン:2020/3/29(日)07:26

5671. 構成概念の奴隷とAIの奴隷:人生の有限性

時刻は午前7時半を迎えようとしている。今、小鳥たちが高らかに鳴き声を上げている。彼らにはサマータイムという概念はないであろうから、別に昨日と今日とで何かが変わったわけではない。変わったのは私たち人間の方である。

サマータイムというのも構成概念に過ぎないのだが、それによって私たちの認識や生活のあり方が変わってしまうことは、面白くもあり怖くもあることである。人は構成概念に左右されすぎなのだ。

構成概念で作られた虚構の世界の外に出ること。そうした外の世界の広大さの中で自由に自らの人生を生きること。それができている人はほとんどいない。

大抵の人は、構成概念に隷属し、構成概念の奴隷なのだ。虚構の世界の奴隷であり続けることをいつまで行うのだろうか。

そういえば昨夜、人類の大半は今後、AIの奴隷として生きることになるのではないかと考えていた。厳密には、大半の人類がAIの奴隷として生きる時代がしばらく続き、その後はそうした奴隷が淘汰されていくような時代がくるのではないかと考えていた。

そうした「時代」と述べたが、それは今からもっとずっと後の話である。AIと共存し、AIを活用する側に回る人間たちと、そうした人間とAIに活用される奴隷のような人間が生まれてくる世界が想像できる。それはさながら新たな奴隷制度である。

そうした時代の初期においては、AIの世話役として、コンピュータールームの管理や掃除などをする人がいて、しばらくすると、そうした人間すら必要としなくなる時代がやってきて、彼らは淘汰される。

もしかしたら、現在プロフェッショナルな仕事として認められているプログラマーがAIの奴隷となり、AIのバグの掃除などをし始めたりもするかもしれない。そのような未来図が脳内に浮かんできたのは昨夜の就寝前のことだった。

そこからはまた、日本の一時帰国について考えていた。今回は、加藤家のルーツを辿るためと免許の更新以外に一時帰国する大きな理由はなかった。

残りの人生において、あと何回日本の大地を踏むことができるのかと最近よく考えるようになった。もうそれは数えるほどであり、そのカウントダウンが始まっている。

それはすなわち、両親と直接会って話をする機会も数えるほどになっていることを意味している。今後は少しずつ毎年日本に帰ることはなくなっていくかもしれない。そのように考えてみると、日本の大地を踏み、日本の空気を吸うこと、そして両親と会って話をすることはもう限られていることがわかる。

人生は本当に有限なのだ。私が生きている間には、おそらく脳·意識·身体が全てデジタル空間に移行する日は来ないかもしれない。意識は元々非局所性を持っているが、脳と身体は依然として物理的な制約によって制限されていたが、今後いつか脳と身体もそうした制約から解放される日がくるだろう。

それがいつかはわからないが、そうした日がいつかやってきて、その頃には人類は随分違った生物になるのではないかと思う。その時の人類の世界はどうなっているのだろうか。

意識が誕生した瞬間に成人の人間や老人の人間も生まれてくるだろうし——作れるだろうし——、生まれた時から尋常ではない知性や能力を持った人間も生まれてくるだろう。そのような世界の中で、人類の多様性はどうなっているのだろうか。彼らの倫理観や道徳観、そして霊性観はどのようなものなのだろうか。

ゆっくりとだが着実に変化していく自己と世界。これから自己はどこに向かい、世界はどこに向かうのか。その方向性を規定している力の所在が知覚されるようになり、そうした力に対して敏感に反応し始めている自分がいる。フローニンゲン:2020/3/29(日)07:45

5672. アートの国オランダにやって来て

アートの国オランダにやって来た意味と、そこで生活を営んでいることの意味。それについて昨夜少しばかり考えていた。

私が住んでいるオランダ北部の街フローニンゲンの駅にはないが、近くのズヴォレという街の駅にはグランドピアノが置かれている。ズヴォレには移民局があり、そこを訪れるためにズヴォレの駅に何度か立ち寄ったことがある。

その時に、駅構内にあるピアノを演奏している子供や大人がいたことを覚えている。オランダ人にとっては音楽が身近なものなのだろうが、それよりも彼らにはとっては絵画の方が身近にある。

これまでの日記にも書き留めていたように、オランダ人の家にはどんな家でも必ず絵画がある。学生が住むような家にさえ、必ずと言っていいほど絵画が備え付けられているし、オフィスには当然何かしらの絵画がある。

私の家にも備え付けの絵画が5点ほどあり、自分のコレクションの3点の絵画を加えれば、合計8枚の絵画に囲まれて暮らす生活を今営んでいる。

今から3年前に、国際非線形ダイナミクスの学会に参加するためにザルツブルクを訪れた際に、学会の内容とは全く関係ない啓示を滞在最終日に受けた。それは自分を作曲に向かわせた啓示であった。

その啓示を受けて以降、学術研究と並行して、ゆっくりとだが作曲に関する勉強を始めた。今は1日の時間のほとんどを作曲の実践に充てている。

曲を作っている時間は5時間半から6時間とそれほど多くないが、曲の原型モデルの作成に1時間半ほど充てていたり、それ以外の時間にも絶えず音楽的な何かに無意識が向かっていることを考えると、四六時中作曲の世界にいると言えるかもしれない。

ここ最近は、作曲だけではなく、絵画の世界にも関心を持っている。以前から絵画の鑑賞は積極的に行っていたが、現在のもっぱらの関心は自らが絵画の創り手になることである。

昨夜も就寝前に、デジタル空間で絵を描くことについて考えていた。私には絵画の才能ななく、絵画の教育も一切受けていない。それは作曲においても同様だ。

しかしながら、そうした状態で作曲を初めてみて思ったが、才能がないこともまた一つの才能であり、伝統的な教育を受けていないことは救いでさえあると思った。

絵画に関して言えば、具象物を描く場合であれば、私は幼児が描く絵ぐらいしか描けない。だが逆に考えれば、幼児のような絵を描ける才能が自分にはあるのではないかと思ったのが、昨夜の就寝前のベッドの上での出来事だった。

小学校や中学校に進学してからも、いつまでも幼児のような絵を描く能力しかなく、逆にそうした能力を発揮して生まれた絵を友達に見せて笑わせていたことを思い出す。

結局私は、自分の創造物を通して、人を笑わせたり、喜ばせたりしたいのだということに気づく。そうした原体験が幼少期の頃にたくさんあったのだ。

絵を描いてみようか。デジタル空間内で絵を描いてみようかという気持ちが芽生えてくる。

アートの国オランダにやって来て、アートに囲まれながら生活をしている自分。この国に自分を運んできたものと、この国を1つの永住先にしようと思わせてくれたものの背後には、アートに関する何らかの事柄がある。その1つの現れとして、今自分が絵画の創り手になろうとしていることがある。

作曲と絵画。それら2つの道を自分なりに歩んでみようかと思う。フローニンゲン:2020/3/29(日)08:09

5673. 絵画の創作に向けて:今朝方の夢

小鳥たちの大合唱に耳を傾けながら、今再び日記を綴っている。昨日に引き続き、今朝も日記を綴る時間が長い。

とにかく自分の内側から外側に出てこようとしている言葉に形を与えること、そして同様に外側に出てこようとしている音に形を与えること。それを継続させていく。

今後はさらに、言葉や音だけではなくて、内的イメージも加えていこうかと考えている。その実践がまさに絵画の創作である。

絵画の創作といっても立派なものでもかしこまったものでもなく、デジタル空間上で好きなように絵を描くだけである。自分の内側に絶えず生起している抽象的なシンボルやイメージの流れ、さらには想像上の生物などを描いていこうかと思っている。

作曲と同様に、いついかなる時でも絵を描けなければ自分にとっては意味がなく、そうしたことから時間と場所を選ばないデジタル空間で絵を描くことに関心が向かっている。文字通りにこの世界のどこにいても絵を描くために、タブレットで絵を描いていこうかと考えている。

そうなってくると、iPadなどのタブレットの購入を検討する必要が出てくる。デジタル空間でイラストを制作するためのソフトについて調べ、タブレットについても近々調査してみようと思う。

ここからの人生は、言葉、音、イメージ(絵)だけを探求したものになる。人生がそれらの中にあり、人生はそれらに溶け出していく。

生み出された曲や描かれた絵を通して、その人の内面世界を知りたいと思う自分がいることに昨日気づいた。音楽や絵画は多くを語らないこともあれば、全てを語り切ることもある。

音楽と絵画を通じて人々と深く交流したいという思いを持ち始めている自分がいる。そのために何をすればいいのかは明確ではないが、少なくとも今のように日々曲を作り続け、今後は絵を描くことにも挑戦したいと思う。

今日は曇りの予報だったが、早朝の今は空が晴れている。空にはポツリポツリと雲が浮かんでいて、それが気ままにどこかに向かってゆっくりと流れている。

あの雲のように生きていこう。そのようなことを思う。

今朝方は少しばかり印象に残る夢を見ていた。夢の中で私は、オフィスビルのような建物の中にいた。そのビルがある場所は、ヨーロッパのようでもあり日本のようでもあった。半欧半日の雰囲気がそこに流れていた。

ビルの1階は少し薄暗く、1階のロビーには巨大なスクリーンがあった。それは窓ガラスに立てかけられていた。いや厳密には、窓ガラスそのものがスクリーンであり、そこにニュースか何かの映像が映し出されていた。

スクリーンを眺めていると、1階にたくさんの人が集まり始め、全員が整列を始めた。列は瞬く間に3列ほどになった。

3列の前に1人の男性が立っていて、その男性が、それらの列は人を所得順に並べたものであると述べた。気がつくと私も列に並んでおり、真ん中の列の前の方にいた。

3列の中で所得の高低は関係ないようであり、だが何かの基準で3つの列に分けられていた。すると、左の列の一番前のメガネをかけた中年男性が、一番右の列の一番後ろの男性に何の仕事をしているのかを日本語で尋ねた。

それを尋ねた中年男性は、別に所得の低さをどうのこうの言うためではなく、彼の仕事内容を把握することによって、これから対話を深めていくためにそのような質問をしたようだった。質問された右列の一番後ろの人は、見た感じ東南アジア出身の男性のようであり、無職のようだった。

しかし、彼は日本人であり、千葉の工科大学を卒業し、今は工場で勤務しているとのことだった。その返答を受けて、質問をした中年男性は黙って何かを考えていた。大学を卒業したにもかかわらず低賃金で働かされている社会の有り様について何かを考えているようだった。

その後、目の前の巨大なスクリーンを使ったシミレーションが始まった。それは人間の行動に関するシミレーションのようでもあり、それに紐づいたカネの流れのシミレーションのようにも思えた。

スクリーンに映し出されたシミレーションの図において、横軸は時間を取っていることは明らかだったが、縦軸は何を取っているのかがいまいちよくわからなかった。ただし、非線形的な動きを見せるいく筋かのデータの動きの中に固有のパターンを見出している自分がいて、データの波形が描く軌道の美しさに恍惚感を感じて笑顔になっている自分がいた。フローニンゲン:2020/3/29(日)08:32

5674. デジタルアートの創作に向けて:iPad Pro購入の検討

時刻は午後9時を回ろうとしている。今週末もゆっくりと終わりに近づき、明日からはまた新しい秋を迎える。

今日からサマータイムに入ったということもあって、もう夜の9時を迎えようとしているのだが、まだ外は明るい。ちょうど今、フローニンゲン上空の空はエメラルド色に輝いている。

今日は午後に時間を取って、デジタルアートの創作に向けた調査をしていた。どうやらiPad Proを使い、「Procreate」や「CLIP STUDIO PAINT」というソフトを用いれば簡単にデジタルアートが作成できるそうだ。iPad付属のApple Pencilの書き味もいいらしく、デジタルアートの創作に向けて道具を揃えようかと思う。

原画を見ていていつも思うのは、その肉筆感が素敵であり、そこに生身の人間が描いたという肉感が宿っている。そうしたことから、油絵のようなものを描きたいと思っていたところ、例えば「Art set 4」というアプリを使えば、本物と見間違うかのような油絵がデジタル空間上で描けることを知った。

もちろん、ProcreateやCLIP STUDIO PAINTでも油絵が描けるそうであり、iPad Proを用いればデジタルアートの創作に乗り出していけそうだという嬉しい目処が立った。

今の私の関心は、目に見えるものを描くというよりも、心の中にある目に見えないものを描くことに関心がある。言い換えれば、心の眼で知覚されるものを描いていくことに関心を持っている。

もちろん、日常の何気ない風景や旅先の風景などを描きたいという思いもあり、食わず嫌いをせずに、肉眼で捉えられるものと心眼のみで捉えられるものの双方を描いていきたいと思う。

iPad Proの購入を真剣に検討しよう。一時帰国の際に日本で購入するまで待てず、来月か再来月かのどこかのタイミングでiPad Proを購入したい。

日々の作曲実践と合わせて、絵を描くことを始めれば、日常がますます充実したものになるに違いない。今後の旅もより一層充実さを増すであろう。

旅の最中においては、旅を通じて喚起されるものを音や絵にしていく。それを実現することができればどれだけ楽しいだろうか。

デジタル空間上に美術館とコンサートホールを建築していこう。そこに自分の絵を飾り、自分の曲を流す。

デジタル空間上であれば、ひょっとすると、他者と比較的簡単に協働して絵を描くこともできるのではないだろうか。文通のように、絵のファイルを交換し、お互いに少しずつ絵を描いていくこともできるだろう。

これに関して言えば、作曲も本来可能なはずだ。ただし作曲については少しばかりハードルが高いかもしれない。

絵であれば、何かしらのものを誰でも描けるはずであり、今後は誰かと絵を一緒に描いてみるのも楽しそうである。その前に、まずは自分が絵の修練を積んでいこう。

作曲実践と同じく、毎日楽しみながら絵を描いていく。近々iPad Proを購入し、フローニンゲンの街を散策しながら絵を描いたり、旅先の美術館で特定の作品から喚起されるものを自分なりの絵にしていくことなどを行ってみたい。

作曲実践に関して明日から意識して試したいことは、手元に画集を置き、ある特定の画家の作品を見て、その作品から喚起されるものを曲にしていくことである。まずは誰か特定の画家の好きな作品を何度も繰り返し鑑賞し、その都度喚起されるものを曲にしてみるのもいいかもしれない。

手元に画集は豊富にあるが、どこかのタイミングで街の中心部の行きつけの古書店Isisに立ち寄り、そこで画集を購入しようと思う。

絵画の創作を始めようと思い立ったことによって、世界がまた明るくなり始めた。そして自分の内面世界がより広く豊かなものに向かいつつあるのを実感する。フローニンゲン:2020/3/29(日)21:10

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