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5611-5614:フローニンゲンからの便り 2020年3月11日(水)


本日の言葉

Wisdom and compassion become the principal influential factors guiding our thoughts, our words, and our actions. Matthieu Ricard

本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5611. 今朝方の夢:模倣に次ぐ模倣

5612. 輝く今日という日の中で

5613. 動植物を愛でる気持ちと本の香り

5614.「コロナ鬱」に見る報道の歪み:全ては色と音

5611. 今朝方の夢:模倣に次ぐ模倣

時刻は午前7時を迎えた。今朝もまた、起床直後から小鳥たちの鳴き声が聞こえていた。それと、今も見えるが、早朝の空には満月が浮かんでいる。

幸いにも今日は晴れのようであり、明後日には小雨の降る時間帯が少々あるが、今週末から来週にかけては晴れマークが続いている。久しぶりに2日以上連続で晴れマークが付くのを見たような気がする。

今回の冬は、例年以上に雨の降る日が多く、ほぼ毎日雨がどこかの時間帯に降っていた。ようやくそうした雨季が終わり、春が近づいてきていることを実感する。寒さに関して言えば、例年5月末までは寒さが残っているので、その点は忘れないようにしよう。

今朝方は断片的な夢を見ていた。合計で3つほど印象に残っている場面があるが、それらは全て断片的である。スナップショットのような形で記憶に残っているそれらの夢をざっと振り返ってみる。

1つ目としては、母と会話をしている場面があった。母が私の日記を読み、毎日の日記の2つ目の記事の出だしが、いつも曇り空の話であることを笑いながら指摘していた。

その指摘を受け、確かにそうかもしれないと思った。ただし、本当にいつも曇り空なのだからそれはしょうがないと笑いながら答えたのを覚えている。

2つ目としては、自分の口腔が拡大され、歯をきれいにしている夢を見た。特に、歯と歯の間に付着している歯垢をブラッシングで落としていく様子が印象に残っている。

自分の口の中が拡大され、それを眺めながら自分でブラッシングするというのは不思議な知覚現象だった。自分の目を自分の目で見ることは通常であればできないが、意識状態が変わり、特殊な意識状態であればそうしたことも可能であることを改めて思う。

3つ目としては、応援している日本人のある画家の方が新しい画集を世に出した夢を見ていた。その画家の方は画風を変え、音楽的な要素を絵画に取り入れる試みを始めたようであり、ちょうどポール·クレーやピエト·モンドリアンといった、音楽的なものを絵画に取り入れた画家に関心があったこともあり、偶然だと思った。

また、私は音楽的なものが取り入れられた絵画を好む傾向があったため、その方が出版した新しい画集を購入することにした。今朝方はそうした一連の夢を見ていた。実際にはその他にも夢を見ており、もう少し感情的にインパクトのある夢を見ていたのを覚えている。それは肯定的な意味でのインパクトである。

それでは、今日もこれから早朝の作曲実践に取り掛かりたい。ここ最近は、就寝前の1時間は活字の世界から離れ、できるだけ言語的な思考を働かせないようにしている。それを促すために、楽譜や画集をパラパラと眺めることを行い、就寝前には音楽に合わせて踊りを踊るようにしている。

昨夜改めて、作曲理論の理論書に掲載されている譜例をもとに作曲実践を本格的に行っていこうと思った。今も毎日、そうした形で実践を進めているが、これからはもっとそれを推し進めてもいいように思う。

例えば、ウォルター·ピストンのハーモニーの書籍と対位法に関する書籍などを参考にして、それらを詰将棋の書籍とみなし、詰将棋を解くような形で譜例を再現しながらそれを曲の中に適用してみる。

今手元にある理論書は随分と多くなったが、それらの全ての理論書に対して、譜例を参考にして曲を作っていく。その過程の中で、音楽的な構造パターンの把握を身体感覚を通じて行い、そうした構造パータンの操作·生成が自由自在にできるようにしていく。

譜例を参考にすることと楽譜を参考にする形の模倣的実践は、徹底して行っていく。模倣に次ぐ模倣は、少なくともあと3年か4年ほど毎日継続させていくことが求められるだろう。こうした模倣実践の中にも自分の創造性が発揮され、コラージュ的な曲が生み出されることは喜びの一つである。フローニンゲン:2020/3/11(水)07:36

5612. 輝く今日という日の中で

つい今し方夕食を食べ終え、時刻は午後7時半を迎えようとしている。今日は1日を通して本当に天気が良かった。

天気が良い日は夕方に外に出てウォーキングやジョギングを楽しむだけではなく、昼過ぎには自宅で日光浴をするようにしている。日光浴をする際には薄着になる必要があるため、今の季節のフローニンゲンでそれを外で行うことはできず、自宅で日光浴をする必要がある。ちょうど書斎は太陽の方向に面しているため、昼過ぎに日光浴をする場所としてふさわしい。

道教の実践の中にもお腹に直接日光を当ててエネルギーを取り入れるようなものがあり、それを行っていた。椎茸が太陽の光を浴びてビタミンDを何倍も増大させる点と、椎茸が菌類に分類される点を考えてみたときに、お腹に日光を当てることによって、腸内の菌が活性化されるのではないかとふと思った。それを思ったのは夕方の散歩中のことだった。

夕方に散歩とジョギングを兼ねて、街の中心部のオーガニックスーパーに足を運んだ。ここの店員は皆気さくであり、以前この店を訪れたとき、初老の男性店員と少しばかりレジで会話をしていた。

そのときには、その店員は私を学生と勘違いしており、私が学生ではない旨を伝え、すでに大学院を卒業したことを伝えると、「職は見つかったのかい?」と心配して尋ねてくれたことがあった。そうした会話が自然となされるのがオランダの特徴であり、人間同士の温かみのあるコミュニケーションが日常至る所で行われる点はホッとさせてくれる。

今日はその男性店員はおらず、その代わりに前から話しかけてみようと思っていた女性店員がいた。その店員は優れた美的感覚を兼ね備えているように思え、その点について話を伺ってみようと思っていた。

どの店員もそうであるが、彼女もまたこのスーパーで働いているのは2、3日ほどであり、その他の日は何をしているのか気になっていたのである。直感的に私は、この女性店員は芸術家か何かかと思っていた。

店に足を運んだとき、私以外に客はおらず、店員も彼女だけだったので、レジで会計をするときに話かけてみた。やはり彼女は優れた美的感覚を持っていて、この世界の美しい点を見出すような力を持っている点にすぐに気づいた。それは今日の天気の素晴らしさを語った話の中に現れていた。

話を聞くと、彼女はギターの演奏と歌を歌っているらしく、画家ではなかったが、音楽家のようだった。そこからもう少し話を聞くと、もしかしたらギターの演奏活動を止め、大学で歴史を学ぼうと思っているということを教えてくれた。

どうやら彼女もまた一生涯学び続ける心を持っているようであり、学ぶことを愛する同士のように思えた。音楽から歴史に分野を変えることは大変興味深く、歴史に関して言えば、それはオランダの歴史を学ぼうとしているのか、それともヨーロッパの歴史なのか、それとも世界史なのか、そのあたりについては話を伺っていなかったので、ぜひ次回話を聞いてみようと思う。

今日は天からの恵みを授かったかのような晴天であったからか、夕方にはそのお礼として、小鳥たちが天に捧げるような鳴き声を上げていた。それを聞きながら、自分も何か天に恩返しをする必要があると思った。小鳥たちを見習いたいと思ったのである。

天への返礼行為が如何なるものなのかは、もう知っている。毎日行っている全ての活動がそれに該当する。

全ての活動は天に捧げるためのものとして行っていく。それは天のため、他者のためであり、その中に当たり前のように自分が含まれているのだ。

自分のためが先ではない。そうした形で活動に従事するところからは脱却した。

明日からもまた、天のため、他者のために奉仕していく。自己の幸福感は、利他的な奉仕活動の中にある。フローニンゲン:2020/3/11(水)19:49

5613. 動植物を愛でる気持ちと本の香り

「おっ、可愛いアヒルがいる」と、家の近くの池の前で私は思わず足を止めた。夕方、買い物からの帰り道にその池の前を通り過ぎようとしていると、二羽のアヒルが日向ぼっこをしていた。

二羽の色が異なることを見ると、どうやらそれはアヒルのカップルのようだった。私はそっと彼らに近寄り、彼らの姿をより近くで眺めてみようと思った。

最初彼らは近づいてくる私を警戒していたようだが、動物に近づくときには意識を純粋なものにし、彼らに敵と思わせないような術を最近身につけ始めている私は、意識のエネルギーの質感を二羽のアヒルと同様の質感のものにチューニングしてみた。

すると、彼らはスッと警戒心を解き、私が近づいても彼らは逃げることがなかった。彼らの輝く毛並みを眺めていると、つくづく創造主はこの世界に素晴らしいものを生み出してくれたのだと思った。

この間は、書斎の窓ガラスの外側に張り付いていたハエを見てそのようなことを思った。生物の多様性と、彼らの身体の精巧さは驚くほどである。

アヒルを見てしばらくうっとりした後、私は自宅に戻った。そう言えば、昨夜歯磨きをしている最中に、過去に父が描いてきた絵をふと思い出していた。

父が過去に描いてきた絵を思い出してみると、動植物をモチーフにしたものが多いことに気づいたのである。父は意外と純粋な心を持っているのかもしれないと微笑ましく思ったのと同時に、生き物を愛でる精神を自分も受け継いでいるような気がしたのである。

基本的に私は生き物を不要に殺生することを避けており、それは小さな虫に対してもそうである。例えばクモが時折部屋の中にいるのだが、そのときにはクモを外に逃すようにしている。逃すときには、いつもクモに話しかけている自分がいることにふと気づく。

普段私は、言語記号や音楽記号がひしめく抽象的な空間の中に生きているが、動植物といった生き物たちを心底愛しているようなのだ。彼らとの共生の中に生きる喜びと幸福感がある。

今日は午後に、1冊の書籍がイギリスから届けられた。包装を紐解くと、バッハの音楽と数秘術に関する本だった。

私は昔から本の香りを嗅ぐのが好きであり、新品の教科書をもらった日には教科書の香りを嗅いでばかりいた。本日届けらた書籍に関して、出版社を確認することなく中身を開き、早速香りを嗅いでみたところ、それはケンブリッジ大学出版の書籍だとすぐに分かった。そして実際に出版社を確認してみると、やはりそうだった。

出版社固有の紙があり、香りが異なるのである。少しばかり気違い染みているが、一度香りを嗅ぐと止められない香りを持つ紙を使った出版社がいくつかある。数日前に届けられた音楽スケールの百科事典の紙はまさにそうした香りを持つものだった。

人間は、音によって意識を変容させることができるだけではなく、おそらく香りを通じても意識を容易に変容させることができるのだと思われる。目には見えないフェロモンが私たちの脳に影響を与えている研究結果などを参照すれば、すぐにその点がわかるだろう。

聴覚と意識状態の探究のみならず、嗅覚と意識状態の探究にも近々乗り出してみようかと思う。その際には、聴覚と嗅覚を関連付け、ある特定の音から特定の香りを引き出すことができないかを探ってみたい。

おそらく感覚を開発していけば、音に香りを嗅ぐことは容易なのではないかと思われるため、あとは作曲上において、特定の香りが生起されるような音の作り方を探究していこうと思う。それに向けて、まずは自分の嗅覚をより研ぎ澄ませていこうと思う。そのために、香り辞典のようなものを購入してみよう。フローニンゲン:2020/3/11(水)20:12

5614.「コロナ鬱」に見る報道の歪み:全ては色と音

本日、「コロナ鬱」という現象が日本で見られるようになってきたという話をある方から聞いた。それは、マスメディアが不必要に不安を煽るような形でコロナウイルスについて報道していることが原因として起こっている現象だとのことである。

マスメディアが限定的な情報を歪んだ形で流すことは今に始まったことではないが、報道側には、自分たちの報道が一般人の心身に強い影響を与えてしまう可能性があることや、下手をするとトラウマを生み出しかねないという認識はないのだろうか。

ちょうど9年前の今日は、東日本大震災が起こった日である。この時も、マスメディアが地震の報道を歪んだ形で、尚且つそれを長期間行うことによって、地震そのもの以上に日本国民に集団トラウマを引き起こしたという話を聞いたことがある。

ちょうど昨日読んだ、マスメディアと集団催眠に関する書籍の内容をもとにすれば、現在話題になっているコロナウイルスに関して、集団トラウマを助長·増大させるような形で報道が行われていることは問題なのではないかと思われる。コロナウイルスにかかってもいない人が、報道を見聞きすることによって鬱になるというのは大きな社会問題だろう。

「コロナ鬱」という言葉を教えてくれたその方いわく、マスメディアの歪んだ報道に気づき始めているある程度の知性を持った人は、もうニュースを一切見なくなっているということを聞いた。

今回の一件のみならず、社会でまかり通っている嘘や虚構に気づき始めている人が徐々に生まれてきている一方で、依然としてそうした嘘や虚構に踊らされている人がいるという二極化が進み始めているように見える。こうした二極化は、数日前に書き留めた、人間の家畜化·ゾンビ化の問題と密接につながっている。

午前中にふと、色のない音はなく、音のない色はないことに気づいた。また、色と音のないものはこのリアリティに存在しないのではないかという考えも芽生えた。

無色という色があり、無音という音さえある。思考も感情も、社会現象においても色と音があるように知覚され始めてきている自分がここにいる。

現代の社会現象の多くに関して言えば、そこには不協和な音が鳴り響いていて、淀んだ色が知覚される。上述の問題に関してもそうだ。その問題の色と音は何かがおかしい。均衡をひどく欠いていて、間違いなく人々の心身に否定的な影響を与える特徴を兼ね備えている。

このリアリティの全ての現象は運動であり、運動には色と音がある。その点について同様の主張をしていたのが、インドの音楽家かつ神秘家のハズラト·イナーヤト·ハーンである。

今日は彼の“The Mysticism of Sound and Music”という書籍の初読を終えた。本書には随所に叡智が散りばめられていて、音楽と神秘主義的な思想に対する理解を深めていく上で非常に参考になる書籍だった。

ハーンの書籍についてはその他にも、“The Inner Nature and Effects of Sound”が先日届けられ、これは近日中に初読をする予定である。今月も大量に書籍を注文し、続々と書籍が届けられたが、毎日1、2冊読み進めていると、気がつけば積読されている書籍は大して残っていないことに気づく。

来月の書籍の一括注文までには、まだ読んでいない書籍を全て読むことができるだろう。来月は少し分野を変えていく、ないしは広げていくことを考えており、来月もまた旺盛な読書をすることになるだろう。フローニンゲン:2020/3/11(水)20:37

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