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5248-5252:フローニンゲンからの便り 2019年11月26日(火)


本日生まれた8曲

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タイトル一覧

5248. 断食12日目の朝を迎えて:フンダーティ美術館への訪問に向けて

5249. 年末年始の旅行計画の進展:全存在的運動としての作曲実践

5250. 自分をマルタ共和国とミランに導いてくれた不思議な縁

5251. フンダーティ美術館での実り多き体験

5252. 創造活動と課題解決実践:シュタイナー教育の継続的な探究に向けて

5248. 断食12日目の朝を迎えて:フンダーティ美術館への訪問に向けて

時刻は午前4時を迎えた。断食12日目の朝は3時半に目覚めた。

断食がどこか慣性の法則に従っているかのような形で緩やかに継続していく。いまだ終わりの地点が明確なものとして見えないのはそのためだろうか。そして、特に苦もなく断食が進んでいるのもそのためだろう。

人間の身体というのは本当に不思議なものである。断食によって、自分の身体がいかに過去の発想の枠組みや自分の意思によって支配され、制限されていたかを知る。逆に言えば、断食を通じて、身体がそうした過去の発想などから解放され、ようやく本来の本源的な力を発揮しつつあることを実感する。

一昨日や昨日の日記に基けば、ここからまた身体全体の治癒が進んでいくだろう。それは身体のみならず、心の領域や魂の領域に渡っても進行していくはずだ。つまり、全存在的な治癒がこれから進んでいくと思われる。

断食を始めた当初において、手元のカレンダーには、ちょうど切りがよく12/1までの日数しか数えていなかった。ちょうどそこは断食17日目にあたる。だが先ほど、少しばかり日数を伸ばし、21日目がどの日にあたるかを記載しておいた。

もちろん、それをもって21日間断食をしようと思っているわけではない。ここからは本当に、身体の治癒の状況を見て断食を終えていこうと思う。

断食12日目の本日は、フローニンゲンから電車で1時間ほど南に下った場所にあるズヴォレの街に行く。無事に新たなビザを取得することができ、それを受け取りに移民局に行く。

面会予約時間は11:45であり、フローニンゲンの街を10:18に出発するロッテルダム行きの電車に乗る。そのため、自宅を9:40ぐらいに出発しようかと思う。

先日街の中心部のオーガニックスーパーで購入したブドウジュースと豆乳、そして水を適量持っていく。移民局に行くだけならそうした飲み物は必要ないが、ビザを受け取った後に、せっかくなので、ズヴォレを代表するフンダーティ美術館に足を運ぼうと思う。

この美術館は、ビザを申請した数ヶ月前にも訪れているが、3ヶ月ごとに企画展が変わるため、今回は新たな企画展を見ることができる。また、前回の訪問の際に見逃していた作品や飾られていなかった作品なども見てきたい。そして何より、日本旅行やヴェネチア旅行を含め、この数ヶ月を通じて自分がどのように変化したのかを知る上で、数ヶ月前に見た芸術作品からどういった新たな印象を受け取るのかを確認したい。

起床直前にふと舞い降りてきた言葉として、百聞は一見に如かずを超えて、百見は一体験に如かずというものがあるように思える。百回何かを見るよりも、一回の体験、一回の実践に勝るものはないように思える。

この数ヶ月の間、私は様々な直接体験及び実践を積み重ねてきた。その積み重ねが自己の肥やしとなり、必ず何かしらの変化をもたらしていることだろうと思われる。そうした変化を確認する上でも、本日訪れるフンダーティ美術館での芸術鑑賞は楽しみだ。フローニンゲン:2019/11/26(火)04:34

5249. 年末年始の旅行計画の進展:全存在的運動としての作曲実践

これについては改めて詳述したいが、昨日の午後、年末年始の旅行の計画を練り上げ、無事にホテルの予約から航空券の手配までを完了した。一昨日の夜に下調べをしたこともあり、比較的順調に一連の準備ができた。

結局今回は、大晦日の日にフローニンゲンを出発し、マルタ共和国に4泊、そこからミラノに移動し、5泊することにした。マルタで年越しをし、そこで新年を迎える形で4泊5日の旅をし、ミラノで5泊6日の旅をすることに決めた。

なぜミラノに行くことになったのかについてはまた改めて書きたいが、本当に何かの導きと言えるかのような、縁のつながりがそこにあった。それには自分でも驚いてしまった。

そうしたこともあって、年が明けて少ししたらミラノに移動し、そこで数日間過ごす。マルタ共和国では目星のホテルを予約することができ、そこはオーシャンビューであるから、大晦日の日の夜、そして元旦の朝の光景が今から楽しみである。

ミラノのホテルもまたかなりこだわりのあるホテルのようであり、ミラノの中央駅のほぼ目の前にある立地の良さ、そして近くにオーガニックスーパーがあることが嬉しい。ミラノの街を調べていて驚いたが、オランダの街以上にオーガニックスーパーがある。

ヴェネチアの街には2、3店ぐらいしかオーガニックなものを扱っている店がなかったので、このあたりにミラノの健康意識の高さを感じる。このあたりについては、事前に調べて見ただけなので、また実際にミラノに足を運んでみて、肌感覚でそうした健康意識に関して何か書き留めたいと思う。

断食12日目の心身の状態は極めて良好であり、今日も軽やかに飛び上がるかのように起床した。それは昨日と同等、あるいはそれ以上の軽やかさであった。

起きた瞬間に、「今日はズヴォレの街を十分に散策できる」と思った。肌の調子も日を追うごとに良くなってきている。また、肌だけではなく、歯茎にも変化が見られ、舌と同様に、鮮やかなピンクに色になってきており、とても健康そうな歯茎である。

本当に、体の至る所が若返っていることに驚くばかりである。断食は、身体の解毒·治癒のみならず、若返りにも効果があるというのは体験上本当にうなづける。また断食は、日々の創造活動に良い影響をもたらしていることも言うまでもないことかと思う。

起床直後にふと思ったのは、私は日々自分の内的感覚を曲にすることを通じて、それそのものが身体運動であり、さらにはそれは心の運動であり、存在の運動なのだということだった。どうして自分が日々生き生きとしていられるのか、どうして創造エネルギーが絶えず充満し、充実感と幸福感を感じながら毎日を過ごすことができているのかを考えてみた時に、作曲という全存在的な運動があるからなのだとはたと気付かされたわけである。

確かに、作曲そのものは脳だけではなく、曲のメロディーやリズムを通じて身体の様々な部位が刺激されるという運動的側面を持っている。そもそも曲を作る際に、身体を総動員しなければならない。

また、曲を生み出す本源に、ある何かしらの感動があることを考えると、感動は心が動いた時に生じるものであるから、作曲には必然的に心の運動が伴う。そしてそもそも心が動くためには、魂を含め、自分のより根元的な存在が動いていなければならず、そうしたことからも、作曲は私にとって全存在的な運動に他ならないようなのだ。

今日もまたこうした運動を続けていきたい。ズヴォレの街に向かけて自宅を出発するまであと5時間弱あるので、これから早速早朝の作曲実践ならぬ全存在的運動を始めようと思う。フローニンゲン:2019/11/26(火)04:51

5250. 自分をマルタ共和国とミランに導いてくれた不思議な縁

たった今、ロッテルダム行きの列車に乗った。列車はまだプラットフォームで待機しており、出発まであと20分弱ある。かなり余裕のある形で駅に到着することができて何よりである。

そういえば、このようにフローニンゲンの中央駅から列車に乗るのは、今日のように日帰り旅行や諸外国へ旅行に出かける時しかないことに改めて気づいた。列車に乗る頻度が低いことから、私はオランダ人が通常持っている鉄道のカードを持っていない。

それがあれば割引を含めて幾つかのサービスを受けられるようだが、そもそも私は列車に乗る頻度が低いため、そのカードのメリットをあまり感じなかったことを思い出した。そのようなことを思い出しながら、出発までの時間、少しばかり日記を書き留めておきたい。

今、時刻は午前10時を迎えたところであり、自宅を出発したのは午前9時半頃だった。今朝は3時半過ぎに起床したこともあり、自宅を出発するまでに日記を少々執筆し、小さな曲をすでに8曲ほど作ることができていた。

これはもう本当に早起きのおかげであり、また断食のおかげでもあるだろう。朝の生産性が非常に高く、早朝の時間に創造活動に思う存分打ち込むことができているのは何よりである。こうした生活習慣もほぼ完全に確立されている。

昨日、無事に年末年始の旅行の計画を練り終え、各種予約を済ませた。納得のいくホテルを予約でき、フライトに関しても自分の生活リズムを全く崩さない時間帯のものを確保することができた。それは、アムステルダムからマルタ、マルタからミラン、ミランからアムステルダムの全てのフライトにおいてそうだ。

日本人の私にとって、マルタ共和国はあまり馴染みのない国であったが、ヨーロッパの人々にとっては、そこは避寒地かつ保養地として非常に有名だ。また、タックスヘイブン国でもあり、近年ではブロックチェーン技術の受け入れでも先進的な試みをしていることでも有名だ。

とりわけ税制面での優遇や永住権が比較的所得しやすいことから、富裕層が集まる国でもある。今回私が宿泊するセントジュリアンというエリアの港には、富裕層が所有するヨットがずらりと並んでいるそうだ。

今朝方の日記で少しばかり言及していたように、私は今回縁があってマルタに行き、ミラノに行く。そもそもマルタとの縁は、ヴェネチアのホテルで宿泊した部屋の名前と関係している。

その名前は、「カラヴァッジョ」であった。ミケランジェロ·メリージ·ダ·カラヴァッジョ(1571-1610)はイタリアが産んだ波乱万丈の人生を歩んだ天才画家として知られている。

彼は若かりし頃、殺人を犯して南イタリアを逃げ回り、ナポリからマルタに渡り、そこでマルタ騎士団に迎え入れられた。その時、彼の年齢は36歳であった。

今の私の年齢は彼がマルタに渡った時の年齢と近く、そこにも不思議な繋がりを感じる。ヴェネチアで宿泊したあの部屋は、私をマルタに導くためにあったのだろうか。マルタで一体何が私を待ち受けているのだろうか。そうした思いが募る。

そして、今回なぜ私はマルタからミラノに行くことになったのか。最初私は、それを単なる思いつきだと思っていた。実際のところ、最初私はローマに行こうと思っていた。

だが、マルタからローマへのフライトの時間で良さそうなものがなく、ミラノであればどうかと思って調べたところ、ちょうど良い時間帯に飛ぶフライトがあったので、何気なくミラノに行くことにした。

そこからミラノについて調べてみると、そもそもカラヴァッジョはミラノ生まれであることを知り、彼は私に自分の生誕地であるミラノに行けと言っているかのように思えたのである。まずはマルタのヴァレッタにある聖ヨハネ大聖堂で自分の絵画を見に来てくれと言われ、そこから自分の生誕地であるミラノに行ってくれと言わんばかりの縁に驚いてしまう。これも何かの運命なのだろうか。

しかも私は先日ふと、レンブラントの作品に関心を持った。かのレンブラントも、実はカラヴァッジョから影響を受けていたことを知った。

ヴェネチアで宿泊したホテルの部屋の名前が「カラヴァッジョ」だったことを起点に、何か自分の人生がまた思わぬ方向に動き始めている。そしてそもそもヴェネチア行こうと思ったのは、小松美羽さんの作品を見るためであり、小松さんとの作品の出会いをもたらしたものが何だったのかも気になるところである。

今から数年前に、フローニンゲンの自室で「魂」「絵」というキーワードで検索していた時に偶然に見つけた小松さんの作品。フローニンゲン大学にて、知性発達科学者としての仕事に従事していたあの時の私がそもそもなぜそのようなキーワードで検索をしていたのか。

人生における縁や繋がり、そして運命なるものは本当に謎のようだ。それはまるで、つい先ほど出発した列車の窓から見える霧のように神秘的であり、霧の向こう側にある太陽のように光り輝いているようなものなのかもしれない。ズヴォレに向かう列車の中:2019/11/26(火)10:23

5251. フンダーティ美術館での実り多き体験

たった今、ズヴォレからフローニンゲンに向かう列車に乗った。予定よりも全てのことが早く終わり、今から自宅に戻る。

移民局に予定よりも10分早く到着すると、全く待たずして新たな滞在許可証を受け取ることができた。時刻を確認すると、面会予約時間にそれを受け取ることができ、本当にスムーズな対応に感謝している。

これにて後2年ほどオランダで滞在することが可能になり、その後の更新も基本的には難しいことではなく、そこからさらに5年ほどオランダに滞在できるそうだ。しかし私は幸いにも、オランダで高等学位を取得しているため、オランダ語の試験の免除があり、次回の更新の際にオランダ永住権と欧州永住権の申請を行おうと思う。これによってハンガリーの国債を購入したり、マルタ共和国で不動産を購入することなく欧州永住権を取得できそうである。

今後も長きに渡って活動の拠点を欧州に置くということ。それが自分に課せられている役目であり、それを望む自分がいる。

速やかに移民局で新たな滞在許可証を得た私は、すぐさまフンダーティ美術館へ向かった。移民局から美術館までは歩いて20分弱であり、良い運動になった。

道中、道端の落ち葉を眺めたり、ズヴォレの街並みを堪能しながら歩いていると、前回訪れた時と同様に、この街の落ち着きに共感を持った。ズヴォレはゆったりとした時間を持った良い街である。

美術館に到着し、早速館内の作品を見て回った。前回訪れたのが3~4ヶ月前であり、覚えている作品も多かったが、絵から汲み取る意味や感じ取れることが異なっており、それは意義のある体験であった。やはり自己が深まり、変容を遂げたのであれば、同一作品から汲み取れる意味や感覚が異なることを実感する。

館内の作品をゆっくりと眺めていると、自分の内側に静かに流れ込んでくるような、あるいは地中からゆっくりと芽が出てくるかのような新たな考えや気づきが数多く芽生えた。それは多岐にわたっており、ここで簡単に書き留めておく。

一つには、館内の作品のうち、何人かの画家が創世記やシェイクスピアの作品にインスピレーションを得て、その世界の神話的人物、神話的情景、神話的生物を描いている姿を見て、同様のことを私も行ってみたいと思った。

ただし私の場合、それは万葉集や日本の古典和歌などを通じてであり、さらには絵画を通じてではなく作曲を通じてである。これを受けて、早速オランダにいて入手できる英語版の万葉集をイギリスかドイツの書店から取り寄せようと思う。日本語の万葉集は来年の秋に日本で入手する。

二つ目は、改めて私は自然を描いた絵、動物や神話的な生き物を描いた絵、そして抽象画を好む傾向にあるということである。

美しい自然を描いた絵には思わず息を飲んでしまう。今回の特別展示で言えば、Jeroen Krabbeがタヒチの夕日や海辺を描いた作品には思わず足を止めて見入った。

また、神話的な生き物を描いた作品に関して言えば、前回同様に、Franz Marcの“The Creation of Horses”が大変素晴らしい絵だと思った。その絵を前にして、しばし時を忘れて絵画世界の中にいた。

抽象的な絵に関しては、作品が抽象的でありさえすればいいのかというとそうではない。私の場合、その絵に含まれた意味や物語が豊かであればあるほどにその作品を好む傾向がある。端的には、こちらにたくさんの解釈を促してくれる作品、そしてこちらがたくさんの意味を汲み取り、自分独自の意味づけを通じて、自分の意味世界を一段と豊かにしてくれる作品を私は好んでいる。

そこでふと、こうした多様な意味を内包し、鑑賞者に多様な意味づけを促す曲をどのようにすれば創造できるのかを考えていた。これについてはこれから探求していく。いつかそのような曲を少しでも作っていければと思う。

三つ目としては、上記の自然をモチーフにした絵に関する話と関連しており、どうやら私は、自然の中に存在する光に惹かれる傾向があるようだ。今回も、ある作品が夕暮れ時の光を見事に表現しており、その作品の前でしばらく過ごした。空の絶妙な明るさとそのグラデーション、そして夕日の木漏れ日を表現しているその作品は、どこか自分の心を癒してくれたのである。

そこでもまた、こうした光の陰影、そしてグラデーションを表現するような曲をどのようにしたら生み出せるのかについて考えていた。とっさに思いついたのは、ドビュッシーなどの印象派の作曲家の作品に何かヒントがありそうだと思った。このテーマについても学習と実践を行っていく。

最後に、私は突飛なアイデアとして、いつか美術館を創設したいと思った。これは今まで一度も考えたことのないものである。

自分の好きな画家の作品を収集し、大工の友人に美術館を建ててもらう。そこに飾られる作品は、私たちの魂を癒し、魂を育むものにしたい。

自分が生み出す曲にはそうした力はないだろうが、魂の治癒と成熟に貢献するような音楽をBGMとして流すような美術館の創設を夢想する自分がいた。

今日の美術館体験は、それらの気づきを与えてくれたことを含め、本当に実り多いものであった。フローニンゲンに向かう列車の中:2019/11/26(火)14:08

5252. 創造活動と課題解決実践:シュタイナー教育の継続的な探究に向けて

ズヴォレの街を歩きながらふと、今このようにして毎日自分の時間を十分にもち、自由を享受しながら生きていることに改めて感謝の念を持った。同時に、自由と解放を自分一人だけが享受しているということほど無意味なことはないと改めて思った。

積極的な社会活動。究極的な理想は、世界の全ての人が自由と解放を享受して日々を過ごすことである。それは荒唐無稽かつあまりにも壮大な理想かもしれないが、自分にできる小さな社会的実践に従事していこうと思った次第である。

今年から数年間の休養生活に入っていることは確かだが、この期間においてもいくつかの協働プロジェクトには従事し続けている。今後も現在の協働者の方々と社会的に意義のある取り組みを続けていきたい。

自分が持っているわずかばかりの知識と経験を活かしたコンサルテーションは今後も続けていく。それは表に出ない形で細々とでいい。ただし、それを絶えず継続して行っていこうと思った。

創造活動と現代社会が抱える課題に対する実践。この二本柱にこれからも従事し続けていく。

片方ではなく、それらの双方だ。おそらく、その二つの実践はつながっており、お互いが好影響を与えながら社会に何かしらの貢献を果たしていくことができるのではないかと期待する。

ここ最近は、シュタイナー教育の核にある、「内なる芸術家を大切にすること」という考え方が頭を離れない。内なる芸術家、つまり創造的な自己を絶えず育んでいくことの重要性を思う。それは子供たちにとって極めて大切なことのみならず、成人においても重要だ。

そのようなことを考えながら歩いていると、今後も継続してシュタイナー教育について探究を深めていこうと思った。シュタイナーの思想そのもの、そしてシュタイナー教育の具体的な教育実践方法について学びを深めていく。

理想は自分自身が教師としてシュタイナー教育に携わることかもしれないが、今のところその道を歩むつもりはない。仮に自分に子供ができ、シュタイナー学校に通うことになったら、シュタイナー教育に関する探究はより一層熱を帯びるだろう。成人教育の枠組みの中にシュタイナー教育の思想や実践を取り入れること、さらには公教育においてそれらを取り入れることの道を模索したい。

車窓から長閑な景色が見える。今日は曇りだが、曇り空の下に広がる世界にもなんとも言えない趣がある。

もう少ししたらフローニンゲン駅に到着する。帰り際にオーガニックスーパーに立ち寄り、豆乳を二本ほど購入しよう。そして自宅に帰ったら、少し早いが浴槽に遣ってリラックスし、夕方の活動に従事しようと思う。ゆっくりと作曲実践をしたり、早速万葉集の英語版を探してみようと思う。フローニンゲンに向かう列車の中:2019/11/26(火)14:21

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