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3943-3946:フローニンゲンからの便り 2019年3月11日(月)


タイトル一覧

3943. 今朝方の夢

3944. 禅の魔境体験

3945. 消えゆく存在

3946. 自己及び世界を知ろうとした天罰と再生

3943. 今朝方の夢

時刻は午前八時を迎えた。今日から新たな週が始まった。

今この瞬間のフローニンゲンは、雨雲が空を覆っていながらも、遠くの空は晴れている。午前中は小雨が降ったり止んだりを繰り返しながら進んでいき、午後からは夕方まで雨が降るようだ。

ここのところは雨が本当に多く、天気予報を見ると、来週の月曜日まで毎日雨マークが付いている。気温も冬のそれであり、近づいてきたと思っていた春が雨で流されていくかのようである。

夕方に雨が完全に止んだら、行きつけのチーズ屋に散歩がてら歩いて行き、チーズとナッツ類を購入しようと思う。ここ最近は乳製品を摂取する量を減らしており、今日はチーズを購入するが、それは二日に一回パスタを食べる時に使うことにする。

以前より食には関心があったが、何か本格的に勉強するということはしていなかった。今後は少しずつでもいいので、心身の健康を保つための食事について探究をしていきたいと思う。

それに向けて、今は自分なりの仮説を立てながら食事を選び、それを食べてみて自分の心身がどう変化するのかを観察していく。食に加えて、適度な運動も毎日の生活に取り入れている。

ただし、以前のようにランニングをするというよりも、今はもっぱら散歩を楽しむようにしている。とにかく自らの足で歩き、足腰を鍛錬していくこと。おそらく、足腰が身体の土台であり、それが弱ってしまうと、全てが済し崩し的に崩れ去ってしまうだろう。

今日もまずは今朝方の夢について振り返っておきたい。夢の中で私は、実際に通っていた中学校のグラウンドにいた。

なにやらこれから、重要なサッカーの試合があるらしく、私はその試合に出場することになっていた。顔の見えない監督がメンバー発表をするときに、私の名前が一番最初に呼ばれ、私はフォワードに抜擢された。

その後メンバーの名前が続々と呼ばれ、キックオフに向けて整列をし、グラウンドの真ん中に向かっていった。センターサークル付近で、全員が円陣を組もうとすると、足場がやけにぬかるんでおり、自分の足が地面に埋まっていくのを見て取った。周りのチームメイトも同様に、地面に足を取られているようであった。

円陣を終え、いざキックオフしてみると、こちらのチームは圧倒的な強さを持っており、開始直後にまずは私が得点を決めた。不思議なことに、自分のシュートレンジがハーフラインを一歩超えたところからになっており、そのレンジの広さに相手は困惑しているようだった。

立て続けに二点入れた後、私はこれ以上自分が得点を入れるとゲームが面白く無くなってしまうと思い、得点を入れることをしばらく封印することにし、センターバックのさらに後ろのポジションまで下がることにした。そこで夢の場面が変わった。

まずこの夢については、天気は晴れていたのだが、なぜかグラウンドがぬかるんでいたことが印象に残っている。チームメイトの多くは小中学校時代の友人だと思うが、その場に誰がいたのかは全く覚えていない。同様に、相手チームに関しても誰が出場していたのかを思い出すことはできない。

この夢の後に私は、本格的なサッカースタジアムにいる夢を見ていた。そこでは、私は一人の観客であり、これから始まる試合を楽しみにしていた。

どうやら、その試合は、これまで長らく活躍してきたある日本人選手の引退試合のようだった。試合開始前に、今日本の若手選手の中で最も期待されている10代のある選手が、引退するその選手に花束を渡すシーンがあった。

なぜか、その選手が花束を受け取った直後、二人はタバコをふかし、笑顔で煙を一度吐き出してから試合に向かっていった。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2019/3/11(月)08:33

3944. 禅の魔境体験

昨日は、昼食も夕食も摂らずに、断食する形で座禅をし続けていた。以前長時間にわたって座ったのは、確か昨年の12月の中旬あたりだったように思う。そこから三ヶ月ほどが経ち、昨日は改めて長時間座った。

当初の計画では、昼の時間から数時間ほど座り、夕食に果物を摂ろうと考えていたのだが、意識があまりにも深まってしまい、結局食欲なるものが消え、昼からはただ座り続けている時間が続いた。そこでの体験について言葉にするのは難しいが、人生を1500回ほどやり直した感覚があった。

一人の人間の人生とは端的には、連続であり、無限に繰り返される何かなのだと知覚する体験もあった。その他に知覚した事柄にあえて言葉を当て、それを列挙してみようと思う。

次に印象に残っているのは、意識が極度に深まった後に、時間を何度か確認することがあり、なんと一分が永遠の長さに感じられる体験があったことである。また、不思議なことに、その一分の中に巻き込み現象と呼んでもいいようなことが起こった。

巻き込み現象というのは、極度に短い時間の中に自分のこれまでの人生の全てが盛り込まれている現象であり、しかもそれが無限の入れ子構造を持つような現象である。これを知覚した時の自分の意識は、自分のこれまでの人生そのものを望遠レンズで眺めるような感覚であり、眺め終わったと思ったら、「眺め終わったと思った自分を再び望遠レンズで眺めている」ということがおよそ10回ほど続いた。

正直なところ、この体験の最後の方においては、恐怖感が芽生えた。この無限の巻き込み現象から自分は逃れることができないのではないか、という恐怖があったのである。

また、一分、ないし刹那が永遠であるということの地獄性を見て取ったことも別の恐怖であった。自我は永遠の命を求めたがるが、私たち人間として永遠に生きるというのは、地獄以上の地獄なのかもしれないということを突きつけられるような気づきであった。

昨夜の段階で座ることを止め、就寝前にそこでの体験について書き留めておいたほうがいいかもしれないと思ったが、文章を書くという気力がそもそもなく、そして、昨夜の段階においては今朝以上に支離滅裂とした言葉でしかその時の体験を書けなかったであろうと思う。

昨日はその他にも幾つか恐怖を引き起こす意識体験があった。意識が深まっていくうちに、身体感覚がなくなり、自分がこのリアリティ、ないしは複数のリアリティを自由自在に行き来することができることに気づき、そもそも座る前のリアリティに戻ってこられるのかどうかがわからず、それは最大の恐怖の一つであった。

リアリティというのは複線的にいくつも走っており、私たちはある一つのリアリティに身体的にも意識的にもへばりついているのだが、意識が拡張してしまうと、そのへばりつきから遊離してしまい、他の無数のリアリティに参入できてしまうのではないかと思う。

そのようなことを考えてみると、精神病理者の奇怪な行動や言動について理解ができる。彼らの行動や言動は決して奇怪なものではなく、彼らは全く異なるリアリティに生かされていると言えるかもしれない。

長時間座り、一夜が明けて、私は再び元のリアリティに戻ってきたが、昨日の夕方の段階では、本当に再びこのリアリティに戻ってこられるのかという言語を絶する恐怖があった。

禅の魔境体験というのは本当にあるのだ。それを体験を持って知ったというのは最大の教訓であった。フローニンゲン:2019/3/11(月)09:01

3945. 消えゆく存在

今日は強い風と共に雨が激しく降っている。昼前に一瞬雨が止む瞬間があったが、先ほどは突風と共に打ちつけるような雨が降っていた。今は少し雨が和らいだが、風は強いままである。

この様子だと、今日はチーズ屋に行けないかもしれない。夕方の天気を見て判断しようと思う。

昨日の座禅体験についてまた少し振り返っている。あの体験は一体何だったのか。

何事でもそうであるが、過剰に何かを行うというのは色々と問題があるのだろう。昨日の私は、座ることに没頭し過ぎていたのだと思う。

そのせいで、昨日の一連の奇妙な知覚体験が悪酔いのような形でしばらく後を引いてしまっていた。世の中では座禅を含めて、瞑想が流行のように取り上げられているが、そうした実践を過剰に行うことは、実は相当危険なのだということを身を持って体験したように思う。

とりわけ、座禅や瞑想には意識を変容させる力、それに加えて脳の機能的変化を促す力があるのだから、やり過ぎには注意をしなければならない。ある意味、座禅や瞑想に明け暮れている人たちは、アルコールやドラッグなどの中毒と変わらない症状を患っているのではないかと思う。

座禅や瞑想は、本来夢から覚めるための実践として考案されたはずだが、現代社会においては、むしろ今見ている夢を強化するか、あるいは新たな夢を見ることを助長する手段に成り果ててしまっているように思う。挙げ句の果てにそれが中毒症状をもたらすというのはとても皮肉なことである。

とにかく今日からは、この日常を生きていこうと思う。昨日の悪酔いをゆっくりと冷ましていき、再びこの日常を静かに生きて行く。

それに並行して、自分のライフワークに粛々と取り組んでいきたいと思う。このライフワークなるものも、この仮初めの一生における慰め、ないしは遊戯のようなものに過ぎないのかもしれないが、そうしたことをしなければ人間は生きていけないのだと思う。

昨日の体験の中で印象に残っているのは、人生を1500回やり直した体験をしたことのみならず、死の先取り体験があったことだ。現れるものは全て消えていくというシンプルだが、どこか本質的な気づきとともにそれはやってきた。

人間の自我というのは、本当にとんでもない性質を持っている。自我は自らを保存するためであれば、なんでも行う。ありとあらゆる狡猾なことを行い、自己を保存しようとするのである。

ここ最近、昼食と夕食を摂っている最中にCNNのニュースを見ているが、そこで取り上げられている悲惨なニュースも、喜ばしいと思えるようなニュースも、自我の強力な自己保存作用が引き起こしたものであるように思う。

もちろん、自然災害などは自我の自己保存作用を超えたものだが、そうした災害に対する反応は自我が生み出したものであろうし、そもそも自然災害を引き起こした要因の一端は人間の自我に責任があると言えなくもない。

この人間社会に絶望しようが希望を持とうが、それはそれとして継続していき、現れるものは全て消えていくのであれば、いつか一瞬にして消え去るような儚いものなのかもしれない。フローニンゲン:2019/3/11(月)15:00

No.1748: A Continuous Spiral

While I was practicing zen meditation the day before yesterday, I had a feeling that I entered a vortex of continuos spirals.

The vortex was related with time and my existence. Groningen, 11:16, Tuesday, 3/12/2019

3946. 自己及び世界を知ろうとした天罰と再生

時刻は午後五時半を迎えた。一時間ほど前からようやく天気が回復し、先ほど近所のスーパーに買い物に出かけた。明日からも天気が悪い日が続くので、食料品を少々買い込んだ。

買い物を終え、スーパーから一歩外に出た時、街の中心部の方に、大きく綺麗な虹が出ていた。おそらく道を行き交う人たちにもそれは見えていたのだと思うのだが、あまり熱心に虹に見入っている人はいなかった。

私は、河川敷の橋の上を歩く速度を緩め、その虹の美しさに見入っていた。久しぶりにあれほどまでにはっきりとした虹を見たように思う。

今日は激しい雨風に見舞われ、この世界の怒りのようなものを感じていたのだが、その後に待っていたのはこうした素晴らしい光景だった。自然とは本当に不思議な存在である。

そのようなことを考えていると、昨日の座禅体験において、一つ重大な気づきを得たことを思い出した。それは、私が長らく自分自身及び世界を知ろうとしてきたことが、どれほど傲慢なことであったかという気づきである。

昨日の一連の知覚体験は、自らを深く知ろうとすること、及びこの世界を知ろうとしたことに対する天罰だったのではないかと思われる。いや、厳密には、ここ数年感じていた、自己と世界を少しずつ知りつつあるというその感覚が傲慢であったことを気づかせるものであったように思う。

おそらく、自己を及び世界を知ることに終わりはなくても、それを行うことそのものは罪ではなく、むしろ人間の一つの責務かもしれない。それでは何が罪なのかというと、自己及び世界を知ったという傲慢な態度である。

今日の日記の中ですでに二度ほど記述したが、人生を1500回やり直した感覚というのは、1500回地獄に落ちた感覚と言い換えてもいい。そのような無限回に感じられるほどに地獄に落ちた感覚を味わったのが昨日の出来事だった。そうした体験を引き起こしたのは、ここ何年もの間行っていた探究活動というまやかしの行為だったように思う。

昨日の一連の体験が落ち着いた後、私は昨日をこそ、自分の誕生日にしてもいいと思ったほどである。1500回地獄を見、1500回人生をやり直した後に、1501回目の人生を再び歩む決心をしたのが昨日の自分であり、今日の自分である。

フローニンゲンの上空に白い雲の塊がゆっくりと風に乗って動いている。遠くの空には夕日が輝いていて、何かを祝っているような光景にも見える。

先ほどスーパーに足を運んだ時、ここ最近スパゲティを作るようになっており、今日は通常の肌色のスパゲティとは異なるものを買った。オランダ語がよくわからなかったのだが、帰って調べてみると、それは無精白のスパゲティだということがわかった。

単純に、これまで購入していたオーガニックスパゲティよりも少し価格が高く、色は茶色っぽく、どんな味なのか試してみたくて購入したのだが、調べてみると、無精白の方が栄養価が高いらしい。

これは先日のパリの旅行の最中に書き留めた日記の内容とも関係している。旅行中に白米の問題について書き留めていたように、白米とはそもそも栄養のある胚芽を取り除いてしまっているものであり、栄養価は低い。

スパゲティに関してもそれと同じことが当てはまるのではないかと思い、直感的に玄米に色の似た今回のスパゲティを購入しようと思った。このあたりは全て直感的な選択なのだが、やはり自然界にある姿のままの食べ物の方が栄養が高いことが多いようだ。

食については、直感的に食べ物の良し悪しを判断する感性を育み、同時に調査を通じてしっかりとした知識をつけていこうと思う。フローニンゲン:2019/3/11(月)17:47

No.1749: Stairs of Time

Stairs of time become stable and unstable. Groningen, 15:42, Tuesday, 3/12/2019

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