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3826. 創造という実践道


気がつけば今日も一日が終わりに近づいてきており、明日の足音が聞こえて来る時間となった。明日は午後に、ハーバード大学教育大学院のスカイプ面接がある。

思い返してみると、最後に大学院の面接を受けたのはそれほど遠い昔ではなく、フローニンゲン大学の実証的教育学のプログラムに出願した時だ。あの時は、三人の教授と直に面接を行った。

その時の面接はとてもカジュアルな形であり、大変リラックスした気持ちで面接を受けていたことを覚えている。明日はアドミッションのエミリーという方と一対一で話すだけなので、前回以上にリラックスできるだろう。

念のため、明日の面接の前には、出願した書類一式に再度目を通し、再度自分の志望動機とこれまでの経歴について振り返っておきたいと思う。

今日はこれから、一日を締め括る作曲実践を行いたい。午後の作曲実践の際に、死の香りに魅惑される美しい蛾と人間の間には何か違いがあるだろうかということを考えさせられていた。

人間は死を恐れ、蛾は死を恐れないかもしれない。一方で、両者は共に死の美しさの虜であるとも言える。そのようなことを考えていた。

死の美しさについては様々な側面があり、同時に偽りの美も存在していることに注意しなければならない。真正の美と偽物の美を見間違う時、私たちは自己を傷つける形で無理に死へ向かおうとする誤った行動に出てしまうだろう。

今日もまた、日記の執筆と作曲実践を中心に据えて過ごした一日だった。ふと、創造行為を通じて自己満足を得ようとすることがいかに馬鹿げているかについて考えていた。

創造行為に従事したところで、創造を司る根幹の自己は満足感など覚えようがないのだ。創造行為の主体は、そんなものには微動だにしない。

それは、一つの創造行為が終わると、次に向かっていくエネルギーとしてそこに存在している。あるいは、それを受け取るのが創造行為の根幹にある自己だと言えるかもしれない。

いずれにせよ、創造行為を通じて満足感を覚えるというのは、創造という実践道においては、道半ば、ないしは道の初歩の初歩の段階にあるのではないかと思う。

今日はこれからモーツァルトに範を求めて作曲実践をする。その際に、仮に曲の一部をリピートさせるのであれば、特にその接続関係を意識しようと思った。

これまでも比較的、繰り返しに際する接続関係については意識を持っていたが、もう少しコード進行の観点やメロディーの観点など、水平・垂直の双方から意識を研ぎ澄ませていくことが可能だと思う。

仮に作曲実践が速やかに終わったら、就寝までの時間を使って、ウォルター・ピストンのハーモニーに関するテキストを読み進めていきたい。気が早いが、この夏に日本に一時帰国する際には、その書籍を段ボールに詰めて送るのではなく、自分の手元に絶えず置いておき、繰り返し読んでいこうと思う。

ここからはよりいっそう実験を重ねていく必要があり、数多くの実験案を生み出すためにも、理論書を読んでいく。数多く作曲実践を行うこともまた、実験案の創出につながる。

ピカソが画家としての生涯の最後の最後まで、毎回の絵画制作を実験の場だとみなしていたことを思い出そう。フローニンゲン:2019/2/13(水)20:25

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