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3813. スケープゴートの論理


時刻は午後の三時半を迎えた。今日は久しぶりに天気に恵まれ、つい先ほどランニングとウォーキングを兼ねて、近所の河川敷のサイクリングロードに外出した。

先日の日記で述べたように、天気が良い日は、30分でもいいので、外の空気を吸いに外に出かけるようにしている。

少し走ったり、ゆっくり歩いたりしながら気分転換を図り、それによって心身の状態が整っていく。そのようなことを先ほども実感した。

今日はこれから、バッハのコラールに範を求めて作曲実践を行い、その後に、アーネスト・ベッカーの書籍の続きを読んでいきたい。ベッカーの書籍の中で最も有名なのは、間違いなく“The Denial of Death (1973)”だろう。

昨日から読み始めたのは本書ではないのだが、本書には特別な思い出がある。今から五年前に私がアーバインで生活をしていた時、街の中心部から外れた場所にあるワイン専門店には、シュタイナーのバイオダイナミクス農法で作られたワインが売られていた。

当時の私は、週末だけワインを飲む習慣があり、その頃はよくこのワインを購入していた。そのワイン専門店には、ワインバーも設置されており、ある日、ワインバーのカウンターでワインを試飲していたことがある。

その日はちょうど、ノートを持参しておらず、その代わりに、発達心理学のテキストを持ってきており、飲んだワインに関する情報と感想をテキストの余白に書き込んでいたところ、一人の中年男性に声をかけられた。

そこから私たちは、ワインを飲みながら、いろいろと雑談をしており、その方から、ベッカーの“The Denial of Death (1973)”を勧めてもらったという思い出がある。その後私はアーバインを離れ、東京に一年ほど住むことになり、その時に本書を購入した。

ある人との出会いの背後には必ず縁があり、ある一冊の書籍との出会いの背後にも縁があるのだろう。そのようなことを実感させる思い出を、先ほどふと思い出していた。

今日読み進めていたのは、ベッカーの“Escape from Evil (1975)”という書籍である。本書の中に、オットー・ランクの思想が随所に引用されており、その中でも特に、スケープゴートに関する引用が印象に残っている。

スケープゴートを活用する一つの論理として、スケープゴートを生贄にすることによって(殺すことによって)、自我が不可避に抱える死の恐怖を弱める働きがある、あるいは死の恐怖から私たちの意識を逸らす働きがある、という説明に目が止まった。

スケープゴートを立てて物事を進めていくというのは、経済・政治の領域のみならず、日常の至る所で見られる現象であり、その背後には一つとして、自らの死から目を逸らせようとする見えないメカニズムがあるというのは重要なポイントだろう。

私たちの自我は極めてしたたかであり、狡猾である。生贄となった他者が死を経験し、それを眺めるとき、死という罰から解放されたと自我は思い込む傾向がある。それは、自分はまだ死んでいないという安心感、いや、誰かが生贄にされたことによって、自らの命が伸びたいう錯覚を引き起こすのだろう。

スケープゴートを立てることの背後には、こうした自我の狡猾さが窺える。そしてそれは、私たちの自我が死の恐怖から目を背けようとする特性と密接に関わっている。

自我の狡猾さ、および死の恐怖というのは、おそらくまだまだその他の現象の背後に潜んでいるものだろう。フローニンゲン:2019/2/11(月)16:04

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