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3585. ゆっくりと咀嚼していくことの大切さ


今朝はいつもより随分と遅く午前八時に起床した。一度午前七時に目を覚ましたが、もう少し睡眠が必要だと思ったので、さらにもう一時間眠ることにした。

起床してみると、普段は真っ暗闇の世界が広がっているのだが、闇が少々落ち着き、空がダークブルーになっていた。現在の時刻は午前八時半を迎え、まだ辺りは薄暗いが、ゆっくりと明るくなる方向へ向かっている。

ここ数日間は雨は降っていないのだが、曇りがちの日が続き、太陽の光を浴びることがあまりできていない。今日から五日間連続して曇りのようであり、もう少しこうした天気が続くようだ。

今朝の起床時間が遅かったのは、昨夜寝る時間が遅かったからでは決してない。昨日もいつものように、午後十時前に就寝の準備をし始め、十時頃に寝室に向かった。

ただし、ここ数日間過去の日記をかなり大量に編集しており、一日に編集する許容量を超える形で編集を行っていたことが睡眠に影響を与えてしまっていたのかもしれないと思った。毎日40本ほどの日記を読み返して編集作業を行っていたが、それはどうしてもパソコン上で行う必要があり、必然的にパソコンを眺める時間が増えてしまっていたことが見えない疲労感を生み出していたのかもしれない。

今日からは編集の量を半分にし、毎日20本ほど編集するようにしたい。それを継続させていくようにする。そうすれば、パソコンから離れ、読書に充てる時間も増えるだろう。

そうして生まれた時間を活用して、今日は音楽理論に関する書籍とエリオット・アイスナーの教育哲学に関する書籍を読み進めていきたい。明日以降には、ゴッホの手紙を読み進めたり、欧州で巡った様々な美術館で購入した画集などを眺めるようなゆとりを生活に取り入れたい。

昨日ふと、教育哲学者のパウロ・フレイレが現代の教育を「銀行型教育」と批判していたことについて考えていた。その言葉が意味することはシンプルであり、現代の教育は情報を詰め込むことを学習者に強制しており、情報を自らの体験に紐付けて咀嚼するような余地はなく、まるで銀行預金にカネが蓄積していくように、単に情報が学習者の内側に蓄積する様子を表すものである。

この言葉を思い出しながら、私たちは目には見えない情報に関しては、ついつい無理に詰め込もうとする悪しき傾向があるのかもしれないと考えていた。例えば、物質としての食べ物を食べ切れないほど人に強制することはほとんどないが、それが情報だとついつい無理に詰め込むことをしてしまう。

食べ切れない食べ物を食べようとした時、消化不良が起こるのと同様に、情報に関しても咀嚼許容量を越えれば、たちまち消化不良を起こしてしまう。そうしたことを考えながら、自分自身の日々の生活の有り様について振り返っていた。

誰も1トンの食べ物を一日で食べ切ることはできないが、一日に数キロを分けて食べていくことならできる。それを一年間継続させていくと、一年で1トン近くの食べ物を食べていることになる。

知識や技術との向き合い方も同様のものにしていくことが大切だ。一回で多くのことを取り入れようとするのではなく、少しずつ知識や技術と向き合っていくようにする。

向き合う際にそれを咀嚼していくことが何より大切なのであり、咀嚼できない量と向き合わないようにする。もしかすると、数日前から始めている過去の日記の編集は、自分の咀嚼許容量を超えていたのかもしれないと思う。

過去の日記を読み返す中で新たな気づきや発見が起こっていたことを考えると、編集作業も間違いなく咀嚼を要求するものである。昨夜の睡眠時間が長く、何らかの休息を自分に要求していたことを考えると、それは咀嚼に必要な休息であるように思え、それゆえに、今日からは咀嚼できる最適な量の日記を編集していくようにする。フローニンゲン:2018/12/27(木)08:53

No.1517: A Dance on a Cold Night

It looks like as if darkness were dancing.

Finding out brightness in the dark, I’ll go to bed in a little bit. Groningen, 21:12, Thursday, 12/27/2018

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