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2855. 固有な体験からの学び


今日はもう少ししたら近所のノーダープラントソン公園にランニングに出かけたいと思う。早朝の空を覆っていた薄い雲がどこかに消え去り、今は青空が広がっている。気温もほどよく、ランニングにはもってこいだと言える。

早朝に空を眺めていると、空から慈しみが降り注いでいるかのように思えてきた。本来は、毎日慈しみが天から降りてきているはずなのだが、私たちの曇った眼にはそれがなかなか認識されない。これはとても残念なことである。

眼が曇っているというよりもむしろ、依然として眠りについた状態だと言えるかもしれない。現代人は寝ているか、幻覚を見ているかのどちらかだ。そのようなことをふと思う。

自宅の目の前の歩道の工事が少しずつ進んでいる。今日もゆっくりと工事が進んで行く。それは本当に目には見えないほどのゆっくりとした速度で進んでいる。

工事が完成した時、私はおそらく何か特別な感情に浸ると思う。ゆっくりと進め、それを一つの形にしていくこと。目の前の通りの工事はその尊さを教えてくれるにちがいない。

今朝方に過去に作った曲を聴いていると、今から一ヶ月前に訪れたロンドンの記憶を思い出した。それもそのはずで、その曲はロンドンのカフェに立ち寄った際に作った曲だったからだ。

ロンドンを訪れてから一ヶ月経つということが信じられない気持ちである。だが、来週末にデ・ホーヘ・フェルウェ国立公園へ二泊三日のオランダ国内旅行に行く日が迫ってきていることを見ると、ロンドンを訪れてから確かにそれなりの時間が過ぎたのだということに気づく。

時間が着実に流れる方向に流れるべくして流れている。今日も明日もそのように時間が緩やかに流れていく。

早朝に改めて、体験から学ぶことの重要性について考えていた。確かに私たちは書物から学ぶことも多いが、体験を出発にして、自己の固有な体験から学びを深めていくこと以上に深い学びはないように思う。

書物からの学びは得てして知的な学びに終始してしまいがちであり、存在を通じた学びにまで深まっていかない。クリシュナムルティも同様の指摘をしており、彼の書籍を先日に読んでいた時に大変共感したのを覚えている。

書物はもしかすると、自己が体験から学びを得ていくための間接的な支援をするために存在しているのではないかと思う。体験を真に深め、体験から深い学びを得ていくための観点を提供してくれるのが書物が果たす大きな役割の一つだ。

この役割は極めて重要なのだが、体験そのものの貴重性にはかなわない。自らの体験は本当に固有のものであり、私たちは一人一人固有な発達プロセスを辿っていくがゆえに、自らの固有な体験を拠り所にして学びを深めていくことが求められる。

自己をハッとさせるような気づきや自己理解は、自らの体験に立脚したものであり、そうした気づきや深い自己理解は自分の体験から出発しなければ得られないように思える。書物だけを読んでいては何の意味もないのだ。

これからランニングに出かけ、自らの体を存分に動かしたいと思う。これもまた一つの貴重な体験であり、ここから私はまた何かを学ぶだろう。フローニンゲン:2018/7/17(火)11:01

No.1136:Beginning of a New Season

The temperature of Groningen has been recently decreasing, and I can feel early autumn.

In parallel with the beginning of a new season, my life seems to enter a new phase. Groningen, 10:08, Tuesday, 8/21/2018

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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