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2853. クリシュナムルティの教育思想より


今日はこれからバッハとサティの曲に範を求めて作曲実践を行う。昨日より、バッハの短めのコラールから一日の作曲実践を始め、一日の作曲実践の終わりにもバッハのコラールを参考するようになった。

結局昨日は四曲ほど作ることができた。一日三曲作ることが習慣になり始めていたが、このように一日に四曲作ることも全く不可能ではなく、むしろ今はバッハのコラールを全て参考にすることに力を注いだ方が良いと思われるため、朝と夜にバッハの曲に範を求めることを新たな習慣にしたい。

とにかく今は大量の曲を次から次に作っていくことによって実践量を増やし、豊富な実践体験を積んでいくことが大切だ。そうした膨大な実践の過程の中で絶えず振り返りを行い、気づきと発見を集積し、新たな仮説につなげていく。

自分が現在行っている実践方法を眺めてみると、それは多分に教育学における学習理論がうまく活用されているように思う。フローニンゲン大学の二年目で学習したことが自分の実生活の中に溶け込んでいることを見て嬉しく思う。

作曲理論を学習する際、そして作曲技術を高める際に、教育学における学習理論は非常に役に立つ。そうした理論的な枠組みを持って日々の実践がより豊かなものになっているのを実感する。

バッハとサティに範を求めて作曲実践を行ったら、昨日から読み始めたクリシュナムルティの書籍を読み進めていきたい。おそらく今日中に初読が終わるだろう。

先日読み終えたクリシュナムルティの書籍もそうだが、今読み進めている書籍も非常に得るものがある。今後教育哲学に関する探究をより本格的に行っていく際に、クリシュナムルティの教育思想とシュタイナーの教育思想は核になっていくだろう。

昨日クリシュナムルティの書籍を読みながら、あれこれと考えさせられることがあった。一つには、両親が本当に子供を愛し、子供の教育について真剣に考えているならば、現行の教育の改革に乗り出していくはずだ、という指摘について考えさせられていた。

クリシュナムルティはその指摘に付け加える形で、親は結局金銭の獲得に忙しく、真に子供を愛することや真に子供たちの教育の重要性を考えていない、と指摘している。この指摘は現在の親のあり方と子供の教育に対する親の態度にも当てはまるように思えて仕方ない。

金銭獲得に躍起になるばかり、子供を真に育んでくれる教育が一体どのようなものであるかを深く考える余裕が現代の親にはなく、結果として、子供の教育を特定の教育機関に完全に委譲するという教育放棄が至る所で見られる。

私は世界の様々な教育機関で学びを得てきたが、結局のところ、真に自己を深めてくれるような学びは教育機関の外にあるのではないかと思い始めている。確かに、例えば私はこの二年間においてフローニンゲン大学で多くの学びを得てきた。

しかし真に自分を深めてくれるような学びは大学で教えられるものとは関係なく、自らの探究心に基づいてなされる学びや体験だったように思う。逆説的だが、ある教育機関における教育が優れていればいるほどに、それは教育機関での学びから私たちを解放してくれるように思う。

この基準を持って既存の教育機関を眺めてみた時に、どのようなことが言えるだろうか。おそらく、多くの教育機関は私たちを解放するどころか、限定的な学びに私たちを押し込め、下手をするとその教育機関のイデオロギーに私たちを絡め取ることに作用しているように思える。

真の教育は私たちを解放し、どのような場所にあっても自らの人生を深め、この社会に深く関与していくようなたくましい知性と精神を養っていくはずである。間違ってもそれは、限定的な学びに私たちを縛るものではなく、特定のイデオロギーの中でうまく生きて行くことを教えるものではないはずだ。フローニンゲン:2018/7/17(火)07:39

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

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