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2700. 死の擬似的体験としての睡眠


時刻は朝の七時を迎えた。早朝からいくつか日記を書き留めたが、まだ自分の中で収まらない何かがある。

文章を書き留めたいという衝動、いや、内側にある何かが外側に形として誕生したいという願いのようなものが存在していることに気づく。

起床してから一時間半ほど経ったところで、ふと今朝方の夢について思い出した。覚えていることはごくわずかしかないのだが、夢の中で私は、今年の初旬に通っていたインターン先のオフィスの中にいた。

自分のオフィスの左隣には、何か特別な部屋があって、その部屋の中でも私は何かをしていたのを覚えている。その部屋がどのようなものであったのか、そしてそこで何をしていたのかは覚えていない。

覚えているのは、その部屋のドアを閉め、自分のオフィスのドアの鍵を開け、その中に入ったことである。そして自分のオフィスに入った瞬間に、机の上に置かれていた古く大きなラジオから幾世代か前のオランダの流行歌が流れ始めたことである。

「ヴィンセントはラジオを消し忘れたな」と私は思った。このオフィスはヴィンセントという別のインターンと私で共有していたものだった。

ヴィンセントが普段使っていた机の上にあるラジオが突然鳴り始めたのであるからそのように思っても仕方あるまい。私はラジオから流れてくる歌に少しばかり耳を傾けたが、しばらくしてラジオを消した。

そして部屋の窓を開けた。心地よく、それでいて力強い風が部屋に流れ込んできたところで夢の場面が変わった。

今朝方はそのような夢を見ていたことを先ほどふと思い出した。この夢を見る前、つまり昨夜の就寝前、そして先ほど早朝にコーヒーを入れていた時に考えていたことが合致した。

昨夜、そして先ほどはなぜだが、100歳に向かうまで今のような量の日記を毎日書き続けていき、100歳を過ぎてから過去の日記をゆっくりと最初から読み返したいという思いが襲ってきた。

今のような量を100歳になるまで書き続けていくと、その頃にはどれだけの分量になっているのか定かではない。分量がどれだけ巨大なものになったとしても、自分はそれを最初からゆっくりと読み返し、当時を振り返りながら今の自分の考えや気持ちなどを書き足していくことを行いたいと思った。

そしてその頃には、もはや他者が執筆した書物などそれほど必要としないのではないかということも思っていた。確かに、100歳を過ぎても他者が執筆した書物から得られることはあるだろう。

だが、書物から何かを得ることと、自らの人生を自らの手で執筆していくことは異なるものである、という考えが自分の中で芽生えていた。結局私は、自分の物語を自分で執筆したいのだろう。

他者の物語を聞くこと。その意義と価値については認めている。だが、他者の物語を聞くことが最優先にされてしまう自分の人生とはいかほどのものだろうか、と考えていたのである。

自らの人生を綴り続けること。それが何よりも自分が大切にしていることなのだと改めて気付かされる。

100歳を迎える頃に自分の肉体が存続しているのかは定かではない。それは先ほどの日記で書き留めていたように、完全に未知なことだ。

ここ最近、自分の人生の終わりに対して静かな気持ちになる。つまり、死という現象について静寂に包まれた気持ちを持ち、死に対して沈黙する自分がいる。

とりわけここ最近は毎日のように思っていることがある。それは日々就寝に向かう際に、眠りの世界に落ちるということはある意味臨死体験であり、一日を終え、眠りにつくということは死の擬似的体験をしているに違いないということだ。

この考えはいつも私を静かにさせる。あるいは、安らかにさせると言ってもいいかもしれない。

私たちにとって寝るということは、新たな一日に向かう行為であるのと同時に、死の擬似的体験と死への準備をすることに他ならないのではないかと思う。

この考えに賛同するかのように、書斎の窓際に一羽の小鳥がやってきた。近くで小鳥たちが美しい鳴き声を上げている。フローニンゲン:2018/6/14(木)07:26 

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