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2566. 本質理解に向けた諦念からの出発


ちょうど今、過去の日記を編集し終え、以前作った曲にタイトルや解説文を付し終えた。これは毎朝の大切な習慣の一つだ。

過去に生み出した自分の文章と曲を再度捉え直すことから一日の活動が徐々に始まっていく。どこかそれは儀式的なものですらある。

反復と差異の重要性。過去の自分が生み出したものに立ち返るという反復は、新たな差異を私にもたらしてくれる。その新たな差異をもとに、また次の創造活動に向かって一歩を進む。

そんなことを毎日行っている。こうした日々が今後も続いて欲しいと願うばかりだ。

ライトブルーの青空を眺めていると、心が本当に晴れ晴れとしてくる。天気が晴れなのだから、それは当然かもしれないが、晴れた天気を見て心が晴れてくるというのはまた面白い。

雲が一切なく、爽やかな風がフローニンゲンの街を吹き抜けていく。今日は昨日に比べて涼しい。

昨日は少しばかり暑かった。暑かったと言っても、それはフローニンゲンにしてみればのことであり、他の地域における暑さとはまた異なる。今日からはまた気温が下がるようであり、涼しい日が続く。

今日はこれから集中して論文の執筆に取り掛かり、今日の午前中と午後の数時間を使って論文をほぼ完成させたいと思う。完全な完成はまだ先のことだが、もう何か新しい文章を付け足す必要がないところまで執筆を進めたい。

もしかすると、イントロダクションをより密のある文章にするのは、明日や明後日までかかるかもしれない。とりあえず今日はディスカッションのセクションに関して、それ以上文章を追加する必要がないほどに書き進めていこうと思う。

論文の執筆を午後四時ぐらいまで行ったら、街の中心部の古書店に足を運ぶ。数日前に書き留めていたように、神智学関連の書籍、とりわけブラヴァツキーの書籍を購入したいと思う。

その他にも改めて音楽書と哲学書が置かれているコーナーを確認し、何か目星の古書があればそれを購入したい。この古書店を訪れるのは久しぶりであり、店長のテオさんと話すことが今から楽しみだ。

古書店で二時間ほど書籍を吟味したのち、フローニンゲンの音楽院に足を運ぶ。一昨日に上の階に住むピアニストの友人と話す機会があり、今日の夜に彼女のコンサートが行われることを聞いた。

彼女の演奏を実際に聴くのは昨年の秋以来のことであるため、このコンサートもまた楽しみだ。その音楽院にはハープシコードやピアノフォルテがあるようであり、それらの音色がどのようなものかを実際に聴いてみたかったため、この夏あたりにでも、友人がそれらの楽器を練習する様子を見学させてもらおうと思う。

今朝方、ちょうどブダペストを訪れた時の日記を読み返していた。そこには、西洋音楽を理解することの難しさが書かれていた。

これは西洋音楽に限ったことではなく、他の音楽にも当てはまることであり、結局は音楽を超えて全ての事柄に当てはまることだと思った。確かに、西洋音楽を理解する際に、西洋の文化を深く理解することは不可欠であるが、それを完全に理解することなどありえない。

西洋人ですらそれを深く理解しているとは思えない。私たち日本人が日本の文化を必ずしも深く理解しているわけではないことと同じである。

だが、そうした理解を限りなく深めていくことは可能であり、同時にそれには終わりがないことを知る。西洋音楽一つ取ってみても、その文化的な理解を深めていくことは必須の要件であるが、文化の理解に終わりなどないのだ。

これは自己を完全に理解できないのと同じなのではないかと思う。何かを理解することに関して終わりなどなく、ある意味、諦念の境地に至るまで対象を理解するように努め、諦念から再度出発するのが本質理解に向かう道なのかもしれない。そのようなことを考えさせられる。フローニンゲン:2018/5/15(火)09:36

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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