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2053. 自由と死とトロヤの遺跡


親友の祖母:「左手に自由を、右手に死を持っているところが素晴らしいわ」

小中高を共に過ごした親友の祖母が、私に向けてそのように述べた。

夢の中で私は、親友の自宅に行き、そこで彼の祖母と少しばかり話をしていた。その時に、親友の祖母は私の方を見て、私の左手に自由が宿り、右手に死が宿っていることを素晴らしいと述べた。

私には確かに親友の祖母の姿が見えており、彼女と話をしていたのだが、親友とその母には祖母の姿が見えていなかったようだ。どうやら、親友の祖母はすでにお亡くなりになられているらしかった。

親友の祖母が目の前に現れ、そのような言葉をかけてくれたことを親友とその母に伝えると、二人の目には涙が浮かんでいた。同時に、私も幼少時代に親友の祖母にはお世話になっていたので、自然と込み上げてくるものがあった。

親友の祖母が私に向かって投げかけた言葉の意味は一体何なのだろうか。左手に自由が宿り、右手に死が宿っているというのはどういう意味なのだろうか?

夢から覚めた今もまだそれについて考えている。自由と死は別個のものでありながらも、両者が自己の存在を通じて究極的な部分で結合を始めていることの示唆だろうか。

親友の祖母の言葉は強い印象を残していたのだが、実は起床した瞬間に、どちらの手にどちらの概念が付与されているのか一瞬困惑した。だが、一つ一つの概念を片方の手に感じてみようとするとき、やはり自分の内側には、左手に自由が宿り、右手に死が宿っているという感覚が正しいもののように思えた。

私の左手と右手に流れているエネルギーの質的差異を観察してみると、左手は平穏であり、右手は力強い。そうしたことから私は、平穏な死と力強い自由を対応させようとしていたのだが、実際にはその対応関係は逆のようだ。

平穏な自由と力強い死。それらがどうやら自分の内側に宿っているようなのだ。

今もまだ親友の祖母の言葉が脳裏に焼き付いており、自分の両手に流れている異なるエネルギーについて内省をしている。

親友の祖母との対話の後、夢の中の私は列車に乗ってどこかに向かっていた。どうやらこの列車は欧州を走っているらしいことが窓越しから見える景色でわかった。

四人掛けの席に腰掛けている私の前にはドイツ人の女性が座っていた。するとその女性が私に声を掛けてきた。

ドイツ人女性:「知っていますか。トロヤの遺跡がこの辺りにあるんですよ。ほら、あそこです」

彼女の指差す方向には、深い森が広がっており、その森の奥に遺跡が佇んでいるのが見えた。

:「こんなところに遺跡があったのですね」

ドイツ人女性:「もし行ったことがなければ、ぜひ一度そこに足を運んでみることをお勧めしますよ」

私は、視界から消え去るまでその遺跡を窓越しからずっと眺めていた。「実在しないと言われていたトロヤの遺跡がこんなところにあったのか」と私は心の中でつぶやいた。

遺跡を発見し、それを眺めていた時の私の気持ちは、列車の外に広がる深い森のように静かであった。フローニンゲン:2018/2/17(土)07:43  

No.772: Deception

Most of the modern people may be hypnotized somehow.

Every news that derives from collective deception implies that we are always engaging in self-deception and collaborative deceit.

When do we realize it, and how do we awake? The time has already come. Groningen, 20:12, Sunday, 2/18/2018

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