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1858. 人生の転機となる二つの啓示的体験


あまりに突飛な気づきや発想に対して、思わず笑みがこぼれてしまう経験をしたことはないだろうか。昨夜私は、そうした経験に見舞われた。

それは今、自分が日々打ち込んでいるものに関して起こった。私は日々、科学の探究を中心に、哲学的な探究にも従事している。

それらに加え、作曲実践にも日々従事している。正直なところ、今から十年前の私は、まさか今この瞬間の自分がそれらのことに日々従事しているとは想像もできなかった。

科学や哲学の探究とは全く無縁であり、ましてや作曲などは無縁以上のものだった。しかし、今私はそれらに日々従事している。

今の私には、その事実がとても大きなものとして感じられるのである。とりわけ、自分が科学者としての仕事に乗り出すことになるとは、全く想像していなかったと言っていい。

正直なところ、私は一度も科学者になろうと思ったことはない。「なろう(to be)」という発想は一度も現れたことがなかったのである。

だが、今でも鮮明に覚えていることがある。それは、内側からの静かで強烈な気づきとして突如現れた。

「自分は科学者なのだ(being)」という疑いようのない気づきが、突然姿を現したのである。その時の私は、科学者になるための鍛錬や教育を受けていたわけでは決してなかった。

だが、「科学者なのだ」という気づきが、もうそこにあったのである。それは私を今の自分の仕事へと導いていく、啓示的な気づきだったと言える。

そこからさらに私は過去を振り返っていた。そもそも作曲をすることになった原点を回想していたのである。

先ほど書き留めていた日記にあるように、作曲を始めたきっかけとして、内側からの要求というものが一つあることは間違いない。自然言語ではもはや掴むことのできないものが内面世界に存在しており、それをなんとか表現することを私に迫る内側からの要求があった。

その要求が詩的言語をさらに越えた言語形態へと私を突き動かし、行き着いたのが音楽言語だった。これは私が作曲を始めた大きなきっかけの一つであることは間違いない。

しかし、実際にはもう一つの転機があった。それは今年の三月に、オーストラリアのザルツブルグでの「国際非線形科学学会」に参加した時に起こった忘れがたい出来事である。

学会が終わった次の日、私はザルツブルグからウィーン国際空港へ行き、そこからフローニンゲンに帰ろうとしていた。出発の朝、ザルツブルグのホテルを後にし、駅に向かっている最中、私はある横断歩道に捕まった。

信号待ちの最中、車道を走る何台もの車の姿を私はぼんやりと眺めていた。信号機が青に変わり、最初の一歩を踏み出した瞬間にそれは起こった。

「あぁ、自分は作曲家なのだ」という気づきが降ってきたのである。その気づきが生まれた時、最初私は何を言い出したのだろうかと自分でも思った。

しかし、その気づきに対して、私は怪訝な表情を浮かべることもなく、ただ笑みをこぼしていた。横断歩道を渡りきった後、私は後ろを振り返り、何かを確認しようとした。

そこでまた私の表情から笑みがこぼれた。「自分は作曲家なのだ」という気づきは、あまりにも突飛であり、その突飛さが笑みを生んでいたことは間違いない。

当時の私は、音符など全く読めず、何か楽器を演奏した経験など皆無だった。だが、そんな既存の知識や経験など全く無関係であるかのように、その気づきは起こったのである。

ザルツブルグのザルツァハ川を越えた場所にある、あの横断歩道での気づきがなければ、今私は日々作曲実践に打ち込んでなどいないだろう。それはザルツブルグでの啓示的体験だった。 正直なところ、今でも私は、自分が科学的な研究や作曲実践に日々従事していることが不思議でならない。しかし、上記のような気づきが起こったのであるから、その促しに従えば、今私が日々行っていることは何ら不思議ではないとも言える。

「なのだ」という気づきは、「なろう」という意思を越えている。気づきが意思を超えることなどあるのだ、ということを私は初めて知った。

“to be”よりも強烈なエネルギーを持っているのは、やはり“being”なのだ。科学者や作曲家になろうと思ったことなど一度たりともなく、気づきが起こった時には、自分が科学者や作曲家であることを知っていたのである。

気づきは突然やってくる。あちらからこちらへ突如としてやってくる。

そしてそれは、啓示的かつ存在の根幹に関わるようなものであるように思えて仕方ない。2017/12/3(日)08:50

No.503: Multicolored Derivatives of Ideas

I strive to grasp multicolored “derivatives” that stem from the Idea of a certain perceived object.

We may not be able to capture one Idea from our experience, but we can grab a derivative of the Idea of the perceived object.

Once I grasp it, I will transform it into music.

My music must represent a certain color of the Idea.

For instance, if I am moved by a beautiful flower, I aspire to capture not the Idea of the flower but an invoked color of the Idea.

My endeavor to compose music is the continuous process to seize ephemeral and dynamically changing multicolored aspects of various Ideas in this reality. 19:39, Friday, 12/8/2017

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