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1446. 発達論者・教育哲学者としてのエマーソン


夜が間もなく迫っている金曜日のフローニンゲン。今この瞬間は、早朝の晴れ渡る空と見間違えるかのようなライトブルーの空が広がっている。

西の空に雲はほとんどなく、東の空に一つ入道雲が取り残されている。その白色の入道雲がライトブルーの空に微動だにせずたたずんでいる様子は圧巻である。

夕方を迎える前の意識状態から少し変化があり、あの不思議な意識状態からは落ち着いている。今日は科学的探究の仕事に取り掛かることは一切なく、エマーソンの全集の中に記した下線や書き込みを再度読み返しながら、文章として自分の考えをまとめたり、作曲の学習と実践に多くの時間を充てていた。

それにしてもエマーソンは、発達論者としても教育哲学者としても注目に価する学者だと思う。エマーソンは、発達に向けた準備の期間に対する洞察が深く、準備を迎えていない者に学習機会を無理に与えることを危惧していた。

特に子供に対して、抽象的な概念が詰まった書物を無理に与えることを強く問題視していたのである。こうしたことは子どものみならず、成人にも当てはまり、エマーソンは発達に向けた準備期間の存在を強く訴えていた。

エマーソンの全集を読みながら、彼の発達現象を見る眼差しに大変共感し、彼の慧眼には得るものが多くあった。エマーソンが残した警句を挙げればきりがないが、もう一つ印象に残っているのは、私たちの誰もが消費者であることは確かだが、生産者である者があまりに少なすぎるということについてもエマーソンは警鐘を鳴らしていた。

人は本来、大なり小なり自分の持っている固有の才能を活かして、この世界に何かを創り出すことができるはずなのだが、エマーソンの時代から現代にかけて、生産者である人間や生産者であろうとする人間が圧倒的に少ないことに対して複雑な思いになる。

私が日々寂しさと孤独さ、そして憤りを感じているのはこの点にある。どうして人はこの世界に何かを創り出し、世界に深く関与することをしないのだろうか。

この世界に何かを創り出していくために不可欠な事柄は、自分の魂を知ることと自分の霊性を発見することだろう。生産者になることをせず消費者のまま生きるということは、隷属者として生きることだけを意味しているわけではない。

事態はそれよりも深刻であり、それは結局自分の魂を知らないということを意味しており、自己の霊性を発見していないということなのだ。いつまで魂の抜けたまま生き、いつまで自己の固有性を通じて世界に関与しないことを続けるのだろうか。 薄い白色の雲が遠方の空に横一線に塗られている。手前には濃い青色の空、そしてさらに手前には薄い青色の空が広がっている。それはまるで三色旗のようだ。

エマーソンの全集を再読している最中、文章の内容と全く関係なく、今度はイタリアに足を運ぶことを確信した。正直なところ、古代エジプトや古代ギリシャの創造物と比べて、古代ローマの創造物には今のところあまり惹かれるものがない。

だが、中世ルネサンス期のイタリアの創造物には大変関心がある。とりわけ、ダ・ヴィンチとミケランジェロが私を呼ぶ。来年の春のどこかに是非ともイタリアに足を運びたい。2017/8/18(金)

No.92: Teaching and Learning From a Complexity Perspective Teaching is not offering pre determinedly packaged knowledge to learners.

Learning is a process by which learners can learn themselves through their previous knowledge and experience.

In other words, learning is a process of autopoietic and constructive endeavor to enable learners to reproduce and reconstruct themselves.

Teaching should be to facilitate such learning. Friday, 8/25/2017

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