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1262. 人工知能に対する不気味な関心


人工知能に関する不気味な関心が高騰し、人工知能を取り巻く哲学書をいくつか購入しようと思うに至った。実際に、インターネットを通じていくつかの哲学書の中身を確認してみたところ、あまり関心を引くものがなかった。

というのも、人工知能を取り巻く道徳判断や倫理判断などを主題として扱っているものがあまり見つからず、哲学書というよりも、認知科学の観点から人工知能を扱っている専門書が圧倒的に多いことに気づいた。

脳科学の観点から人工知能を探究することに私はほとんど関心がなく、また人間の主観的な意識と人工知能の知性を比較する論点に関してもあまり関心がない。もちろん、後者に関してはこれまでいくつかの書籍を読んできたし、実際に未だに書斎の本棚にはそうした論点を扱う専門書が置いてある。

だが、今の私はそうした主題ではなく、人工知能が私たちに提供するデータや解析結果などを私たちがどのような発想の枠組みで活用すればいいのかということに関心がある。より大きな観点から言えば、私たちの社会は、人工知能をどのように受け入れ、どのようにそれを活用していけばいいのかという主題に関心がある。

米国では、人工知能がすでに裁判で活用されていたり、政策の立案に活用しようとする動きにあるようだ。この時、人工知能が提出した証拠データを解釈するのは裁判官であり、打ち出された政策を解釈するのは政治家であり国民である。

結局、人工知能がもたらしてくれたものを最終的に解釈し、それをどのように活用するかの判断は人間が下すことになる。そうなると、私たちは、「解釈」や「判断」という古典的な哲学上の問題と向き合わざるをえないのではないかと思う。

こうした問題と真摯に向き合わない中で人工知能を活用するというのは、ひどく危険なことのように思える。そうした状況が長引けば、いつの日か、人間が人工知能を活用するのではなく、人工知能が人間を活用する時が来るだろう。 人工知能に対する関心が奇妙なほど突然溢れ出し、少しばかり自分の意識が非日常的であることを感じる。自分という一人の人間がなすべき仕事は何なのか。今自分が取り組んでいることは、本当に自分という一人の人間にしかできないことなのかを問う自分がいる。

今このようにして書き留めている私の文章すらも、もしかすると人工知能によって作成可能なのかもしれないという思いが生まれる。いくら私がその瞬間の自分に固有な体験を書き留めようとも、人間に固有の主観的な体験についていくら主観的に文章を書き留めようとも、人工知能がそれを行うことも可能なのではないかという思いがやってくる。

書斎に美しく鳴り響くバッハの音楽も、人工知能がそれよりもさらに美しい曲を生み出すことは十分に可能なのではないかという考えが、聞いてはらない声のように自分の内側に姿を表す。

一人の人間がなすべき仕事、一人の人間にしか成しえない仕事は何なのかという問いは、私の内側から消えることなく、自らの存在に固着してしまったかのようだ。2017/7/5

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