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1183. 病理と個性


連日連夜、学術論文を読み続ける日が続いている。ここしばらくは、専門書のような書籍に触れることはなく、愚直に無数の論文を読み進めることが続いている。

そうした日々を過ごす中で、自分の内側から日本語が流れるように出てこない状況に直面している。自分の内側には、表現したいことが依然として山積みになっているのは確かだが、それらが滑らかな日本語として現れて来ることはなく、非常にたどたどしい日本語しか出てこない。

それを物語るように、ここ数日間の自分の日記には、言葉の流れのようなものをあまり感じられない。日記を書いている時にも、言葉を紡ぎ出すことを通じて、淀んだ流れをなんとかして澄んだものにしようとするのだが、そうした試みもうまくいかない。

単純に問題の要因を、他言語の論文を読み続けることに還元することはできない。事実、私はこれまでも同じような日々を送ってきたはずであるから、それが問題の核心ではないだろう。

ひょっとすると、第二弾の書籍が世に送り出されたことと何らかの関係があるのかもしれないと思った。ただし、その何らかの関係を特定することは難しい。

まとまった分量の自分の言葉が世の中に送り出されるという物理的な次元の現象は、今この瞬間の自分の言葉の流れをせき止める働きをしているように思える。言葉の閉塞感を覚えながらも、書き留めておくべきことだけを淡々と書き記しておきたいと思う。 昨夜の夢の印象が、起床後の今の自分の内側に留まっている。本来は、夢の中の全ての事柄に意味があり、それらは全て重要なことだと思うのだが、あえて全てを書き留めておくことをしない。

昨夜の夢の中で最も印象に残っているのは、私の先輩が突然倒れ、救護室で先輩の容態を見守っている場面である。救護室のベッドで横たわる先輩を見ると、一向に目を覚ます気配がない。

その様子を見ている時の私の心境はとても静かだった。「心配」という感情が、その時の私の内側にあったと思いたい。

だが、そう思わなければならないほどに、私の内側には何か別の感情があったように思える。あるいは、何ら感情が芽生えぬ境地の中で、その先輩の容態を見守っていたようにも思えた。

しばらくすると、ベッド横に立っていた私は、おもむろに自分のカバンから一冊の書籍を取り出し、それを読み始めた。自分の意識が完全に書籍の中の世界に入り込み、外側の世界はまるで存在していないかのようだった。

しばらくして突然、救護室に看護師が現れ、私に話しかけてくるまで、自分の意識は先輩に向かっておらず、書籍に向かっていた。おそらく、その看護師もそれを知ってだろうか、少しばかり呆れ顔を見せながら、「何の本を読んでいるのですか?」と質問をしてきた。

私は、その書籍の表紙を隠すように本を閉じ、本の内容について当たり障りのない短めの言葉で返答した。そこで夢から覚めた。

薄い雲がかかった空を眺めながら、夢の中の私が象徴しているように、どうして私はそれほどまでに活字世界の中で生きようとするのかについて考えていた。昨晩の夕食時に考えていた「精神病理と個性」の問題が、ここでも再度浮上してくるかのようだった。

私が危惧をしているのは、確かに世の中には病理的なものが存在していながらも、病理的なものの中に真に個性的なものが含まれうるということだ。何もかも病理として片付けてしまうことは、真に個性的なものを殺してしまうことにつながりかねない。

病理的なものの中に含まれる真に個性的なものを見極めるためには、あるいは、真に病理的なものと真に個性的なものの境界性を明確に引くためには、科学的かつ倫理的・道徳的な強固な枠組みがなければならない。2017/6/17

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