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1059. 自己の基底


激しい雨が書斎の窓に打ち付けている。外の景色が見えないほどに、激しい雨滴が空から降ってきた。

思い起こせば、今日は早朝から雲行きが怪しく、雨が降りそうな予感がしていた。午前中、まばらな雨が降ったが、特段気にかけるような雨でもなく、それは止み、昼食時には少しばかり晴れ間が広がった。

だが、午後から天候が一変し、激しい雨が辺りを襲った。その激しい雨は、今のこの瞬間の私の内側の不気味な気持ちと合致していた。

今の私の気持ちは、否定的な世界に所属するものであることは間違いないのだが、それは決して重々しいものでもなく、また、破壊的なものでもない。何かが抜き取られてしまったかのような、透明な否定性の感情としてそこにある。 人生に占める国外で過ごす滞在年数について何気なく考えていた。あと少しすると、六年目の海外生活が始まることになる。

当たり前のことなのだが、国外での生活と自分の人生を並行させていけば、人生に占める国外で過ごす滞在年数は増加していく。今、私は自分の人生の五分の一を国外で過ごしていることに、はたと気づかされた。

オランダでの滞在が終わるであろう二年後には、人生の四分の一を母国ではない場所で過ごしていたことになる。これからどれほどの期間を国外で過ごすのかわからない。

一つ言えることは、望むと望まぬとにかかわらず、私はそこを通っていかなければならないのだ。内側の不気味な気持ちと同居しているのは、東洋思想、とりわけ日本の思想を骨の髄から学びたい、という熱烈な気持ちである。

私の内側に、東洋思想、特に日本古来の思想を捉えたいという、抑えがたい気持ちの芽生えのようなものが以前からあったのは知っている。しかし、かつてなかったほどに、その気持ちがうごめき始めているのだ。

それは、国外での生活が一年、また一年と重なっていくのに呼応して、少しずつその存在感を強めている。そして、それは、私が私として存在することを確証付けるには、日本古来の思想の中に分け入ってかなければならない、という思いに根付いたものであるとも言える。

毎日毎日、異国の言語を読み、書くことを絶えず行う中で、日本に帰らなければならないことを知る。それは、物理的に日本に帰ることを意味するのではなく、精神的に日本に帰ることを意味する。

今朝、原著がドイツ語のものを英語で読み、これから英語で論文を書こうとする自分がいた。私の生活は、毎日、母国語ではない専門書と論文によって形作られていると言っても過言ではない。

こうした生活は、私が最も望む生活の形であった。また、母国語から極力離れたところで別の精神空間を形作ることは、今でも自分が保持したいと思う大切なことである。

母国語ではない言語空間で精神生活を形作ることは、私の人生の中で今後一生続くだろう。ここで一つ、大きなことに気づかされた。

それは、母国語の言語空間において、精神生活を新たに形作ろうと意識しようとしまいとにかかわらず、不可避的に精神生活が立ち現れるという事実であった。言い換えると、それは自分の存在を疑う際に、自己の存在を疑える限界領域の近くに存在している何かである、ということにはたと気づかされたのだ。

それは紛れもなく、一人の人間が背負った何かであることを疑うことができなかった。激しい雨を見ている最中、私を取り巻いていた不気味気な感覚の正体は、これだったのだろう。

それはもはや不気味な感覚と呼ぶよりも、自分の存在から切り離したくても切り離すことができない存在が生み出す感覚であるがゆえに、自己の基底に触れた感覚と表現した方がいいかもしれない。疑っても疑いきれない何か、自己から切り離そうとしてもそれができない何か、それこそが、自分という一人の人間を根底から定義づけるもののように思えた。

怒号を伴う激しい雨が通り過ぎ、窓の外の通りには、通行人の姿が見えた。そして、小鳥の鳴き声が辺りに響いている。2017/5/12

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