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1055. 春のとある一日から


今日の午前中から、哲学者のイヴァン・イリッチが執筆した “Deschooling Society (1970)”を読み始めた。本書は、一昨年、東京に滞在していた時に購入したものであり、今に至るまで一読もしていなかった。

発達科学の探究に並行して、私の関心は教育思想や教育制度にも及び始めている。一昨年に本書を購入していた時から、そうした関心の芽が出かかっていたようだ。

早朝から本書を読み進め、半分弱を読み終えた。イリッチは本書の中で、「脱学校化(deschooling)」という概念を提唱し、現代社会の教育制度のみならず、産業社会のあり方そのものを批判的に検証しながら、その概念の意味とそれを遂行させていくことの重要性を説いている。

半分弱を読み終えた段階で、かなり多くの書き込みを本書に行った。それは、本書の内容が私の関心事項に大きく合致していることを示しているのだが、いざ本書の内容について何かを書き留めようと思うと、何から書いていいのかわからないほど思考が整理されていない。

本書には、それほどまでに、私がこれから考えを深めていきたいと思う論点が多々あり、同時に、それらはまだ自分の中で熟していないのだということを知る。明日も残り半分を読み進め、一言二言でも何かを書き留めておきたい。 イリッチの書籍を読んだ後に、私は部屋を掃除し、昼食前にランニングに出かけた。今日は本当にランニング日和だった。

近くの河川敷のサイクリングロードを走るのではなく、ノーダープラントソン公園の中を走ることにした。極めて爽快な気分のまま公園に到着してみると、何人かの人たちが芝生に寝っ転がり、日光浴をしていた。

また、公園の木陰のベンチで読書をしている人たちを何人か見かけた。どの人たちもそれぞれに幸福を感じているように私には思えた。

公園に茂る木々の脇を通った時、差し込む木漏れ日に心が洗われるような気持ちになった。その時私は、「毎日は勤労日であり休日でなければならない」と思った。

特にこの数年間、私は毎日が勤労日かつ休日のように過ごすように努めてきた。仕事も休みも、それらが分離した形ではなく、調和した形で一日を過ごすこと。

それが人間として生きることの大切な条件であるように思うのだ。そのため、私の毎日は、もはや勤労と休息の区別はない。今日、近所の公園を走ったことも、私にとっては勤労であり休息であった。

毎日の全ての行為を、勤労と休息の区別を超えたところから営むこと。それが私にとっての生きることなのだ、ということに改めて気付かされる。 木漏れ日が差し込む木々の間を抜けて、公園を横切る道路を横断しようとした時、自転車を運転する一人の女性が、道端に花束を落とした。私はすぐそばにいたため、花束を拾い、その女性に手渡した。

女性からお礼の言葉をもらい、私は短い言葉を返した。人との何気ないやり取りの中に、幸福の種が宿っていることをここでも実感した。 ランニングから自宅に帰る途中で、近所のスーパーに立ち寄った。明日から三日間ほど天気が崩れるため、三日分の食料を買い、その間は外出しないで済むようにしようと思った。

ただし、日曜日の夜は、中国人の友人であるシェンと日本食レストランで夕食を共にする約束になっている。中国に一時帰国していたシェンが、孔子の『論語』の原著を私のために持ち帰ってきてくれた。

そのお礼として、私はシェンを夕食に誘っていたのだ。日曜日の夕食時、中国の思想家について、またあれこれとシェンに質問をし、彼から話を聞くのが楽しみだ。2017/5/11

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