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1043. 書物の到来と社会思想への関心


昨日、非線形時系列データ解析の専門書に目を通していると、これは今腰を据えて読むべきものではなく、数年後に読むべきものだとわかった。近い将来に必要なものが今私の手元にあり、そこに少しばかり足を入れようとしている自分に対して可笑しくなった。

どうやら私は、数年後に探究を深めていくことになるテーマの書籍を今購入していたのだ。これはとても不思議なことであり、振り返るとこれまでも同じようなことが度々起こっている。

実際に、過去に購入した書籍が今必要になっており、それらを現在読んでいるという状況がある。一冊の書籍が自分の目の前に現れることに関するこの時間差をどのように説明したらいいのだろうか。

もはや私は何かを知っているのかもしれない。今の私は将来の私と繋がっており、その存在がそれらの書籍が近い将来に必要であるということを現在の私に知らせているかのようなのだ。

これは夢と同じぐらい不思議な体験であり、それが意味することをなかなか掴むことができない。 昨日は久しぶりに、書斎の本棚から社会学に関する専門書や社会思想に関する哲学書をパラパラと眺めていた。以前から少しずつこの予兆が見え隠れしていたのだが、どうやら私は個人の思想のみならず、ようやく集団の思想に関心を持ち始めたようだ。

これも昨日の日記の言葉で言えば、期が熟し始めたと言えるかもしれない。個人の思想体系がどのように構築されていくかだけではなく、集団の思想体系がどのように構築されていくのか、そして集団の思想病理の発生とそれが個人の思想に与える影響に対して強い関心を持ち始めたのである。

一昨年、東京に滞在していた時に、そうした関心の芽生えがあったように思える。しかし、それらの芽は開花することなく、しばらく土の中で眠っていたかのようだった。

外側の季節が春を迎えたことに伴い、私の内側でもそのような関心事項の芽が外側に生まれ出てこようとしているようだ。欧州での生活は、否が応でも私の関心を集団意識に向けていく。

米国では、サンフランシスコ、ニューヨーク、ロサンゼルスで生活を営み、それらの都市は確かに人種として多様性に溢れていた。しかし、それ以上に、欧州での生活の方が民族の多様性を私に感じさせる。

民族ごとに異なる発想や欧州各国の政治思想に関する話題が、友人や教授陣たちとの何気ない会話の中で出てくることに伴い、徐々に私の中で、個人を超えた集合意識なるものについて考えを深めていく必要があるという思いに至っている。

早朝の習慣として、朝一番の仕事は哲学書に取り組むことにしているが、そこで読むべき書籍の一つとして、集団意識や社会思想に関するものを織り交ぜていきたい。2017/5/8

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