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1003. 哲学の力と概念の力


なぜだか私は、ベートーヴェンのピアノソナタ第17番の第3楽章が始まるといつも仕事の手を止める。意識を向けようとせず意識がそこに向かうのだ。

『テンペスト』と呼ばれるこの曲、特に第3楽章は、必ずその存在を私に訴えかけてくる。そこに意識が向かう時、それが第17番の第3楽章であることを知るのみならず、そこに意識を向けた自分の存在に改めて気付くという現象が伴う。これもまた面白い現象だ。 フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの書籍をここ最近毎日一章ずつ読み進めている。私は哲学者でもなんでもないため、この哲学者がフランス現代思想の代表的な人物であることを最近知った。

私がドゥルーズの書籍を購入しようと思ったのは、フランス現代思想を研究するためでもなんでもなく、人間の発達をより深く理解するためだった。発達心理学者のハインツ・ワーナーの発達思想に刺激を受け、発達現象が不可避に内包する「差異化」と「統合化」について思想的な探究を深めようとしていたところ、ドゥルーズの書籍と出会うことになった。

そうしたことから、正直なところ、ドゥルーズという人物が何者であり、フランス現代思想がどういったものなのかについては、あまり関心を持たなかった。しかし、連日ドゥルーズの書籍を読んでいると、この哲学者の思想が持つ独自性に関心を引かれるようになった。

何より、ドゥルーズが用いる概念の色や形が独特なのだ。「フランス的」と安易に表現してはならないと思うが、確かに彼の思想はフランス的な独自性を持っており、なおかつそれはパリという場所でしか育まれないようなものだと感じていた。

昨年の夏にパリを訪れた時、この街には何かがあるに違いないと思っていたが、その一つは、ドゥルーズが持っているような多元色かつ多様形の思考を可能にする土壌のようなものだ。これは、ドビュッシーのような作曲家の音楽に相通じることかもしれない。 ドゥルーズが持つそのような思考特性に関心を持ち、彼の書籍をいくつか購入してみることにした。哲学者としての彼の仕事を見ていると、哲学がこれほどまでに実践的なものになりうることに目を見開かされた。

あるいは、哲学とは本質的に実践的なものの極みであることを教えてくれた、と言ってもいいだろう。購入するべき書籍を吟味していたところ、特に中期の仕事以降、彼の哲学が常に社会と密接に関わったものに変容し始めていることに気づいた。

“Anti-Oedipus: Capitalism and Schizophrenia”や “A Thousand Plateaus: Capitalism and Schizophrenia”はその代表的な作品だと思う。哲学がこれほどまでに実践的なものであるという気づきは、それが自分の現在進行形の体験に基づくものでもある。

哲学は、私たちの認識の方法を根底から変容させる力があるがゆえに、実践的であり、なおかつ、常に日々の生活に根ざしたものだと思うのだ。内面と外面が絶えず相互作用しているため、内面の認識が変容するというのは、行動の変容をもたらす。

行動の変容をもたらす力を持った哲学が、単なる抽象的な学問に過ぎないと見なされる傾向にあるのは残念でならない。私にとって、哲学は恐ろしいほどに認識の方法とあり方を変え、行動を変える力を持っている。

ドゥルーズによって明確に気づかされた哲学の力は、実は私の第二弾の書籍の重要なテーマの一つであることに気づかされた。第二弾の書籍は、哲学について扱っているわけではない。

しかし、ドゥルーズが述べるように、哲学とは概念を創造する営みである点を考慮すると、哲学の力は概念の力と密接に関係しており、私は概念が持つ力について、第二弾の書籍の中で暗示的に主張したかったのだと気づかされた。

新たな概念は、認識を新たにし、行動を新たにする力を持っている。思想家は実務家でなければならないし、実務家は思想家でなければならない。

思想は実務的であり、実務は思想的でなければならない。それらの思いは、概念の持つ力、ひいては哲学の持つ力と密接に関係したものだったのだ。2017/4/28

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