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1002. 問いが問いを生み、問いが問いを解決することについて


今日の午前中は、計画とは随分と異なる形で進んだ。午前中にジル・ドゥルーズの“Difference and Repetition (1968)”を一章読んだ後、カントの“Critique of Judgment (1790)”の中で、今の自分の関心に最も合致する箇所を中心に再読しようと思っていた。

結局、ドゥルーズの書籍を一章読み進めるだけで午前中が終わった。ようやく300ページに及ぶ全体のうち、3分の1を読了したことになる。午前中に読み進めていた章は、何度も立ち止まって考えさせることを私に要求してきた。

私は、日々の生活を一つの大きな習慣の中で形作るようにしている。これは意識的なものであり、時に無意識的なものにもなる。

日々の仕事を習慣的なものとして取り組み続けることによって、ドゥルーズが指摘するように、習慣は反復から差異を引き出すということを強く実感するようになった。習慣は反復的なものなのだが、絶えずそれは差異を生み出す。

そこに差異があるからこそ、私は再び反復的な習慣に向かえるのだと思う。そのように考えると、習慣という反復的な行為が持つ面白い特徴に気がつく。

習慣とは、差異の中に差異を生み出すための仲介者のようだ。そして、習慣が差異を生み出す反復であるという現象はとても面白い。

さらに注目に値するのは、反復が変容的な作用を持つということである。これは精神の発達や治癒をもたらし得るという意味での変容作用である。

ドゥルーズの書籍の中で、過去のトラウマは、反復できない原体験に囚われているから起こるのであって、それを乗り越えていくためには十分な反復が必要なのだ、という主張があった。

過去のトラウマ体験に立ち返り、その強度を変えながらあえてそれを再体験させることによって精神的治癒を図るという方法は、サイコセラピストであれば理論的にはそれを知っているだろう。しかし、十分な反復をクライアントに体験させるためには、様々な準備と緻密な方法が必要となる。

私自身、そもそもなぜ過去のトラウマを再体験することを通じて治癒が生じ得るのか、ということが不思議であった。だが、再体験という現象の本質に反復性とそれがもたらす差異があるということがわかった時、非常に腑に落ちるものがあった。

そして、反復がもたらす変容作用は精神的な治癒のみならず、精神的な発達にも等しく当てはまる。私たちの精神は、過去の発達課題を乗り越える形でそのプロセスが進行していく。

その際に、発達課題という自分自身に対する問いと向き合い、それに答えて行くことが必要になる。しかし、答えを探そうとしていては、問いに対して答えを与えることはできない。

重要なのは、問いが問いに答えるという循環を生み出すことである。つまり、既存の問いに対して答えようとするのではなく、問い返そうとすることが重要なのだ。

そこから、問いが問いに答えていくというのは、反復が差異を生み出すからなのではないか、という考えに至った。問いが問いに対して問い返そうとするのは反復作用なのだが、それによって過去の問いが解決できていたというのは、問い返した新たな問いの中に、以前の問いに答えるための差異が内包されているからなのではないだろうか。 そうした差異が、これまで抱えていた問いを解決してくれるのだ。そして、既存の問いが解決されたのと同時に、新たな問いが生まれるという反復が再び始まる。

そうした循環が再び始まるというよりも、それは止まることなく絶えず運動を継続させていると言えるかもしれない。問いが問いを生み、問いが問いを解決していくというのは、これ以上にないほど興味深い現象だ。2017/4/28

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